稲庭うどん

 贈答品としてその名も高い稲庭うどんは秋田県の人口1万人ほどの稲川町稲庭で作られ70社で年商50億と言われている。製法は手延べ素麺と同じ太さはうどんと素麺の中間、日本農林規格ではかろうじてうどんに分類されるそうだ。

 稲庭うどんが初めて文献に登場するのは寛文五年(1665)とされている。秋田藩主の御用製造を専らとし一子相伝で技を伝える稲庭(佐藤)吉左衛門家の始まりである。昭和20年代まで稲庭うどんを作っていたのは稲庭家と分家の佐藤養助家のみであった。元々が乾麺であり保存食贈答用として発達した麺である従って地元での食べる文化としては未発達である。

 起源由来は諸説あり三輪の素麺技術が北前船で伝わった、白石の温麺の技術が伝わった、秋田藩主佐竹候によって伝えられた等ある。五島うどん(長崎県)が油を塗る手延べうどん、氷見のうどん(富山県)で油を塗らない手延べうどん、稲庭うどんは油を塗らず延ばしの際ローラを使用するのが特徴である。

 それにしても秋田は遠い、私が初めて稲庭うどんの名を耳にしたのは10年以上前秋田県へ行ったときだがまだ未熟者の私はうどんは讃岐に限ると食べずじまいだった。

 初めてそれらしきものを口にしたのは香川県で97年の秋に開催された国民文化祭のうどんフェアだった。もっとも大部分の香川県民は稲庭うどんがどこのなんだか分からず主催者が手書きで秋田県と付け足した程度の認知度である(讃岐うどん以外のうどんがあることなど想像すらしていない香川県民にとっては当然かもしれないが)。所詮バザーのうどん評価をするのは申し訳ないが以外にまずくはなかった。
 次なる出会いは東京でである。水天宮すぐの古都里、寛文五年堂の麺を使っている、ではつけ麺を、明治通りの栄寿庵、稲庭古来堂の麺を使用、ではかけ麺を食べた。どちらの店も高級な贈答品といった稲庭のイメージを感じさせるおしゃれな店で少なくとも作業服で押し掛ける値段ではなかった。味はまあ値段相応。

 準備は整ったあとは稲庭に行くだけ、目下時間がない私にはそれが最大の問題、いつになるのか分からない後編に続く。

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