エ ッ セ イ




 森ノ宮医療学園附属診療所  院長 田中 邦雄
 「鰻(うなぎ)」

 夏の風物詩の「土用の丑の鰻」(ことしは7月29日でした)。
これは江戸時代に平賀源内がはやらした宣伝文句だそうです。 
平賀源内はエレキテルという静電気を発生させる治療器を造ったり、
不燃布という石綿を使った燃えない布をつくったりして一発あてて
やろうといろいろした人ですが、結局おかしな発明で名は売れまし
たが、商売人としての成功はできなかった人のようです。

でも、この「土用の丑の鰻」は彼の傑作コピーで、現在のコピー
ライターの元祖ともいえるでしょう。 鰻は関東と関西で料理法が
違います。開き方は、関東は背開き、関西は腹開きです。焼き方
も関東は白焼き、関西は地焼きで違います。 

白焼きは俗に江戸流といって、まずタレをつけずに焼く手法を
意味します。白焼きにした鰻を一度せいろで蒸してからタレをつけて
もう一度焼き上げます。このため、脂肪分が適度に落ち、軟らかく
上品な口当たりと、あっさりとした味わいに仕上がるとされます。

もっとも、このような手の込んだ料理法をしないと食べられない
ほど江戸時代の関東の鰻は固かったのではないかという説も
あります。食べ方も、蒲焼きとご飯を分けてたべたり、ご飯の
上に鰻をのせて鰻丼や鰻重と呼んだりします。

 地焼きは大阪流の焼き方です。この焼き方は割いた鰻を
最初からタレをつけて焼き上げます。ただし何度もタレづけと
焼きを繰り返すため、この間に脂分は適度に落ちます。
この繰り返す回数は店によって異なり、二〜三回の店から
数十回繰り返す店まで店によって違います。

できた鰻はご飯の間に挟み込み、さらに上から盛りつける場合
があります。関西ではこれを”まむし”と呼んでいます。なぜ
このような盛りつけを”まむし”と呼ぶようになったかと調べますと、
「ご飯をまぶしてたべるから」という説が一番有力のようです。

ほかに鰻飯(まんめし)が大阪風になまったという説、鰻の形が
蛇のマムシににているからという説などがあります。 京都の
新京極にある鰻の老舗”かねよ”には、鰻の蒲焼きの上に
薄焼き卵をのせた”きんし丼”という丼があります。鰻の匂いが
嫌いな孫になんとか鰻を食べさせようとした鰻屋の亭主が
考え出した丼だそうです。 

鰻を食べる食習慣は、日本ではかなり古くからあるようで、
万葉集に「石麻呂に吾物申す夏痩に吉(よし)と云う物ぞ
むなぎ(うなぎ)取り食(め)せ」とありますので、少なくとも
千二百年以上前から夏ばての食欲不振に対して日本人は
鰻を食べていたことになります。

蒲焼きの歴史は、約六百年前の室町時代に、京都の吉田神社
の神職、鈴鹿家家記に登場しています。 鰻は元々、九州や四国
などの南日本で多く取れましたし京都の木津川、桂川、島根県の
宍道湖でもよく取れました。腹開きの地焼きという、現在の関西の
鰻の料理法は出雲地方がはじまりで、出雲産の鰻が大阪にも
出荷されていたことから、料理法も伝えられ、現在の大阪流地焼き
の形となったと考えられています。 

その後、江戸時代の十七世紀に江戸でも醤油が造られるようになり、
これがきっかけで関東でも鰻料理が盛んになりました。それまでの
関東の鰻料理は、筒切りにして串にさして焼いたものだったそうです。
最初は江戸でも腹開きでしたが、「切腹」の因果を嫌い、
十八世紀頃には背開きが一般的になりました。 

 鰻は日本種の鰻の外にヨーロッパ種の鰻がいます。日本種の鰻は
みなさんがよく鰻屋さんの店先で見る鰻です。ヨーロッパ種の鰻は
日本種に比べると、眼が大きく、寸胴で、やや油っぽい味ですが
焼いてしまえばほとんど分からなくなるそうです。日本種は泥水を
好み、ヨーロッパ種は澄んだ水を好む違いがあります。現在食卓
に上がる鰻はほぼ100%養殖、それも多くは台湾、中国で養殖
されたものです。

鰻は産卵するときは海に下ります。日本の鰻はフイリピン海溝で
産卵するらしいのですが、その実体はあまりよくわかっていません。
それはともかく、最近日本種の鰻の稚魚の収穫量が激減して、
採算がとれなくなり、そのために中国の鰻養殖場ではヨーロッパ種の
稚魚をヨーロッパから輸入して養殖しカバヤキにして冷凍し日本に
輸出しているケースが増えてきています。そのうち日本の鰻の半数
以上はヨーロッパ産になるという予測がでています。安い鰻は全部
ヨーロッパ種の時代になりそうです。   
                            文責  田中邦雄




 


ホーム ページ ご挨拶・協賛文 ご意見 関西漢法研究会 薬事制度研究会
関西生薬勉強会 漢方賢人会 役立つ 憩い