転機としての「危機」(6)
ーー謀略の威力、戦闘準備完了ーー ichi
(1992、11)
(内容)
アメリカの準備 カーター・ドクトリン イラクの戦力 2段階の計画
戦闘準備完了 ブライト・スター 実践もすましています 密約の信憑性 油田の盗掘 国連への訴え 10月にゴーサイン OPECの議長国
OPECの議長国 自衛隊の演習
ーー戦争が始まるためには、それがいかに正義であるかということを、繰り返し述べねばならぬ。一旦勝ってしまえば、その戦いが正義であったか否かを問い質す者はいない。
と、あのアドルフ・ヒットラーがいったそうな。
はじめに
2年前の8月、信州に来ていた私は、突然、新聞で、「イラクのクウェート侵攻」を知った。あれよあれよと言う間に、アメリカは大軍を派遣し、とうとう湾岸戦争の勃発となった。湾岸戦争を契機とした変化は、日本にも及び、とうとう今年10月、PKOという名目で、日本の軍隊が戦後、初めて海外へ出ていった。
私は、この「転機としての危機」で、湾岸戦争は、突然起こったものではなく、予定され謀られたものではないかという疑問を出した。また、石油との関連についても触れた。この2つについて、もう少し考えみたい。
「アメリカのイメージは」と聞かれたら、あなたはどう答えますか?私のアメリカのイメージは「謀りごとが好きな国」というものだ。謀略(Conspiracy)という言葉は日本語ではあまり馴染みがないが、アメリカでは結構よく使われる言葉だ。こういう文化が、「おとり捜査」を可能とするのだろう。謀略と言えば、ニュアンスが悪いが、これを予想(シュミレイション)と言い替えれば、ずっと受けがよくなる。
アメリカの準備
1990年8月2日に、イラクがクウェートに侵攻した。8月6日に、アメリカは「イラクがサウジアラビヤに攻め込む可能性がある」として、サウジのファハド国王を説得して、10万もの大軍をサウジに派遣した。
これは文章で書けば、数行で終わるが、実行しようとすれば、膨大な準備が必要だ。実際、日本の自衛隊数千人をPKO部隊としてカンボジアに送るのでも、公式には数カ月の準備が、必要だった。
1990年当時、日本のマスコミは、イラクのクウェートへの「不意の侵略」を非難する論調が盛んだったが、それに対するアメリカの大軍の派遣には、相当な計画と準備があったはずだという議論はほとんどなかったように思う。
湾岸戦争当時、反対運動のスローガンに「石油のために血を流すな」(No blood for oil)というのがあった。この湾岸戦争を石油という視点でみると、かなりアメリカの行動が理解できる。以下、「石油資源の支配と抗争 オイルショックから湾岸戦争」(宮嶋信夫著 緑風出版)を、参考にして湾岸戦争の背景を考えてみよう。
カーター・ドクトリン
1979年のイラン革命と、その後に起きた第二次石油ショックはアメリカに大きな脅威となった。
革命前のイランは、湾岸地域での「西側の利益を守る警察官」を自認し、アメリカとの軍事同盟を結んでいた。そのイランに成立した政権は、アメリカを「新植民地主義国」と見なし、アラブ周辺諸国に対して、イスラム原理主義による革命とアメリカへの闘争を呼びかけた。更に、第2次石油ショックで、石油価格が大幅に上昇したのみならず、産油国の資源国有化によって、湾岸諸国での石油メジャーの権益が大幅に減少していった。
これらの状況を受けて、1980年1月、一般教書でカーターは、カーター・ドクトリンを発表した。それは「湾岸地域における紛争を米国の死活的利害に対する脅威と見なし、武力を含むあらゆる方法で介入する」ことを、米国の中東湾岸戦略の核心とした。
このカーター・ドクトリンに基づき、中東・湾岸地域への投入部隊として創設されたのが、緊急展開軍(Rapid Deployment Command)であった。緊急展開軍は1983年、レーガン政権下で中央軍(Central Com-mand)に改組強化された。
1980年のカーター・ドクトリンを受けて、その年の2月から3月にかけて、上院外交委員会で聴聞会が開かれた。その議事録は「南西アジアにおける合衆国の安全保障上の関心と政策」(U.S.SECURITY INTE-RESTS AND POLICIES IN SOUTHWEST ASIA)としてまとめられている。
余談になるが、ジャーナリストの木村愛二が、国会図書館の法令議会資料室で、この資料を捜そうとしたが、しかし、この図書カードには、「欠・不明」と記載されていたそうだ。係員の説明では、「いったん受け入れたものが行方不明になっている」とのこと。
イラクの戦力
さて、その議事録の「ペルシャ湾岸から石油供給を確保するための米軍事力の行使について」という部分では、次のような意味深な指摘がある。
「イラクは、1961年にクウェートへ越境しようと試みた。・・・・ソ連は・・・イラクの2度目の計画を指導することが有り得る。想定される事態に最もよく我々の目的を達成するためには、空軍の支援を受けた地上兵力が必要である。イラクの10個師団(・・・・)と2爆撃機、12戦闘攻撃機隊に支援された2000台近くの戦車隊は、米国の”ベストケース”の緊急戦力に十分対抗する戦力をもちうる。イラクの総合戦力はどんな事態に対しても、その第1日に展開できる一方、米軍は空輸能力、海上輸送能力不足のため、小数ずつ逐次投入できるにすぎない」。
2段階の計画
この当時の分析では、冷戦時代を反映して「ソ連の指導のもと」という側面があるが、地域強国(Local powers)として、イラクを考えている。
また、この湾岸での米軍の展開にとって、最大のネックが「小数ずつ逐次投入」だと指摘している。世界最大の大部隊を、アメリカから地球の反対側に送り込もうとするのだから、このネックの克服は容易ではない。一夜づけで克服できるものではない。
そのため、カータードクトリンの実現化にあたり、アメリカは次の2段階の計画を考えた。
第一次計画は1985年までに、第二次は1990年までに達成する。第一次計画では、緊急展開軍の基本戦力を、1980年当時の所要時間である「数週間」の3分の1で、ペルシャ湾に展開できるようにする。第二次計画では、動員発令後、地上戦闘部隊の基本部分が、10日以内に展開できるようにする。実際、イラクがクウェートへ侵攻して、湾岸危機が発生したのは、この第二次計画が達成される1990年8月だ。
戦闘準備完了
もう少し、この計画の進行状況をみよう。
中央軍の計画内容について、湾岸戦争で有名になったシュワルツコフの前任者、ジョージ・クリスト将軍が1988年、上院軍事委員会で「米中央軍司令官報告書」を提出している。以下、「ソ連」についての言及をのぞいて、そのポイントを見てみよう。
<責任を負う地域の意義>
米中央軍が安全保障に責任を負う地域は南西アジア、中東から東アフリカ・・・・19カ国・・・。世界にとってこの地域の基本的重要性は、石油資源で自由世界の63%が依存すること、米国の中東石油への依存度は今後高まっていくことにある。
<戦略>
軍事的目標
1、アラビヤ半島の石油資源にたいする米国と友好国のアクセスを確保し、防御すること。・・・・この戦略は米国の友好国、同盟国が湾岸地域の防御について責任を分担する連合軍による戦闘が主力となる。
<脅威にたいする反撃>
戦力
陸、海、空、海兵隊の4軍は中央軍の任務達成のため戦力を提供する。
[陸軍]
・有事即応性
陸軍戦闘部隊は展開準備ができており、戦闘配置についている。米中央軍に配置されている陸軍の戦闘支援、戦務支援活動へのサポートが大きな関心の焦点である。
[空軍]
・有事即応性
配置された空軍の戦闘状態および補給部隊は常備、予備ともに1987年同様、100%戦闘準備完了の状況下にある。
[海軍]
中央海軍司令官は・・・・・ペルシャ湾および他の作戦水域で任務につく海軍部隊の管理および補給上の支援をおこなう。
・有事即応性
任命された海軍力は1987年同様、100%戦闘準備完了している。
[海兵隊]
・有事即応性
中央軍に所属する海兵隊は1987年同様、100%戦闘準備完了している。
*
私は、思わず「リッパ!」と言いたくなった。
この中央軍は、ズバリ、ペルシャ湾の石油資源を確保するために編成されている。実際の戦闘は、米国の友好国、同盟国とで連合軍を形成して行う。実際1990年には、連合軍(日本語では「多国籍軍」)が形成された。88年で既に、中央軍の4軍の内、陸軍をのぞいて、前年同様100%の戦闘準備完了の状態だ。
ブライト・スター
この報告書は更に、「演習」と言う項目で次の事実を指摘する。
<演習>
実地演習は緊急時出動計画を刷新し、南西アジアの厳しい自然環境に順応して生活し、戦闘を行うために不可欠である。・・・一方、演習はこの地域の諸国の防衛能力の向上に役立つ。演習は同時に想定される緊急事態に近い条件下で米軍と現地国軍の考え方、戦術、技術、手続きをテストする。
[演習ブライト・スター]
ブライト・スター87は大成功を収めた。・・・ブライト・スターは砂漠の環境で外国軍と共同作戦を行うという目標を2カ月間の演習で実現した。米国はペルシャ湾での行動と平行して、湾岸地域の安定と同盟国の支援のため、緊急に軍事力を展開する能力を持つことを友好国と敵国に示した。
*
私は、湾岸戦争で多国籍軍が、なぜあんなにうまく統一した司令のもと戦闘行動が出来るか不思議だった。
現実は、既に米軍と湾岸での米軍の同盟国は1987年に演習をしていたのだ。
湾岸戦争の時、とりわけ地上戦の前頃、日本の「軍事評論家」と言われているものたちは、何を言っていたか?砂漠という環境ではイラクが有利で、米軍らは不慣れのため戦闘が思うように行えないだろう、というようなことを言っていた。まるで、イラクの予期せぬ侵略のため、多国籍軍が急に編成されたかのごとく。
既に、米軍らは1987年に(そして多分それ以後も)砂漠という環境で、軍事演習を行っていたのだ。
実践もすましています
この1980年に始まった計画が、着実に進展していく時期は、ちょうど1980年に始まったイラン・イラク戦争と重なる。
次にイラン・イラク戦争の年譜を載せた。
1980年、イラクのイランへの侵略で始まった戦争に、アメリカは一見中立の装いをしながら、イラクが不利になってくるとイラクへの肩入れをしだした。
1987年、米中央軍は砂漠での演習、ブライト・スターを行ったが、この年譜をみると、1987年以降アメリカはイランに対して、「小規模な」戦闘を実際に行っていることがわかる。この演習と「実践」の積み重ねが1990年の湾岸戦争へとつながっていったのだろう。
密約の信憑性
私は、去年この「転機としての危機」を書くために、駐日イラク大使のアルリファイ著の「アラブの論理」という本を読んだ。その中で、クウェートとアメリカの密約について書かれていた。去年、この密約について読んだとき、その信憑性について自信がなかった。
しかし、今、アメリカの10年来の計画を知ると、この密約はきわめて有り得るものだと思える。
毎年、毎年、ペルシャ湾の軍事行動を目指して、アメリカの中央軍は準備をしている。100%の戦闘準備が数年の間、続く。もうそろそろ、「計画を実行に移したい」と考える方が自然だ。
この密約は、次のようだ。
1989年、湾岸戦争が起こる1年前、クウェートの公安局長が11月にアメリカのCIA(米中央情報局)を訪問した。公安局長は、ウェブスターCIA長官との非公式の会議で合意された要点を8つにまとめ、クウェートの内務大臣サバハ殿下へ報告をしている。
その報告の5つめと8つめは次のようだ。
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5.イラクの経済状勢の悪化を利用して、イラクががわが国との国境を画定しようとするよう仕向けることが重要である、との認識で米側と一致した。CIAは、彼らがふさわしいと考える圧力のかけ方を説明し、こうした活動が高いレベルで調整されることを条件に、両国間の幅広い協力関係をつくるべきだと詳述した
8.米側は、文書による通信を必要としないような両国間の見解・情報の迅速な交換を促進するため、衛星電話回線をわれわれに1本提供した。これはウェブスターCIA長官との専用回線で、電話番号は・・・。
油田の盗掘
5について実際はどうだったか。
当時イラクは、イラク・イラン戦争で経済が疲弊し、短期に経済復興を実現するため、石油収入の増加を目指していた。一方、クウェートはOPECがみとめた割当量を上回る過剰生産をおこない、石油価格はバレル当り18ドルという一応の合意を超えて、バレル当り11ドルあたりまで下がっていた。
更に、イラクの南部国境地帯にあるルメイラ油田の南方で、クウェートは石油採掘施設を設け、ルメイラ油田の「盗掘」を始めた。又、イラクは石油輸出ルートとして、クウェートよりのウムスカル港の水路の利用に当たり、隣接するクウェートとの「国境画定に関する古くからの問題」が存在していた。
このイラクが主張するルメイラ油田の「盗掘」については、湾岸戦争中にも時々、マスコミに登場したが、イラクの主張に対して、ほとんど共感的なものはなかったように記憶している。しかし、今年の4月18日、朝日新聞に次のような記事が載った。これでみると、イラクの主張がほとんど正しかったことになる。
「国連のイラク・クウェート国境画定委員会は16日、新国境を旧国境からイラク側に約600メートル移動させることを決めた。これにより、クウェートは、領有権をねぐり紛争が続いていたルメイラ油田の数本と、イラクのウムスカル港の一部を獲得」。
国連は、イラクのクウェートへの侵略を非難した。しかし、国連自ら、クウェートのイラクへの侵略を正当化している。こういうのを二枚舌(ダブル・スタンダード)というのだろう。いけませんなあ。
国連への訴え
イラクはこのCIA・クウェート密約文書を、1990年9月4日付けで、世界各国外相あてに書簡で送った。世界の反応は、無視に等しかったと思う。イラクは、そこで10月24日に国連事務総長あての公式書簡の付属文書として提出し、更にこの密約を安保理の正式文書として配布して欲しいと要請している。
この国連を舞台にしたイラクの要求は、ほとんど知られていない。後日、日本のマスコミで報道したのは、朝日と日経だけのようだが、一段でのちいさなベタ記事であった。その報道の内容は、駐米イラク大使の記者会見でのCIA・クウェートの密約の簡単な紹介のみで、イラクが諸外国や国連への正式な文書として提出したことは触れられていない。
10月にゴーサイン
この10年間にわたる計画と、演習と、部分的な実践と、クウェートによる仕掛けの後、1990年10月30日に、アメリカ大統領ブッシュは「1月半ば空漠開始、2月中に地上攻撃を開始する」との戦争計画に署名した。それをうけ、11月初め、米軍は23万の軍隊を追加派遣した。
ご存じのように、イラクへの軍事行動を国連が認めたとされる決議678号は、約1カ月後の11月29日である。
OPECの議長国
私達は、湾岸戦争の後、アメリカでものすごい規模の戦勝パレードがあったことを知っている。それでは、アラブで連合軍に参加した国ではどうだった?
湾岸戦争後、1990年3月のOPEC会議に先だって米国エネルギー省のイーストン次官はいう。「湾岸産油国と米国との間では密接な関係ができており、基礎はできた。いつでも家は建てられる」。また、シュレンジャー元エネルギー長官は「米国はOPECの議長国となった」と述べた。ここには、10年来の米国の計画ーー「湾岸地域への石油のアクセスの確保」への成功による満足感が感じられる。しかし、ことアラブの人々の立場にたてば、事態の彩りは一変する。
80年代の後半に原油価格は値下がりをしていったが、これが一部の富める国と、多くの貧しい国々へとOPECの2極分解をもたらした。富める国の代表が、湾岸戦争でアメリカに全面的に協力したサウジ、クウェート、アラブ首長国連邦である。
湾岸戦争後、アメリカに主導されたOPECでは、サウジなどの小数の富める国が、多数の産油国の市場シェアを奪い、原油価格を上げないことで、増産のメリットを享受していった。一方、大多数の産油国はいっそう貧しくなっていった。
OPECの議長国
このアメリカの後ろだてをうけたサウジで、湾岸戦争の終結を人々はどううけとめたか?
「石油資源の支配と抗争」のなかで、宮嶋は指摘する。
「そのサウジアラビでは、戦勝祝賀の催しもファハド国王の記念スピーチも行われなかった。前線から帰還した兵士をねぎらう歓迎の集いもなかったという。・・・イラクの民衆にたいする雨のような爆撃による破壊への同情、貧しいイスラム諸国からのサウジアラビヤにたいする怒りを予感するサウジアラビヤ人は、大多数が多国籍軍の軍事的勝利のなかに敗北の兆しを感じている。イラクの敗北の悲惨さは、アラブ人のすべての心に爪痕を残している。これはサウジアラビヤの心理的敗北であり、国の政治体制の是非を超えた事態である」(P195)。
同様の見解は1970年代、米国大使としてサウジアラビヤに長期滞在し、前ファイサル国王の信任あつかったエイキンズ氏もこう述べる。
「米国はアラブやイスラムの救い主とは見なされない。アラブ人はブッシュ大統領を1258年にバグダットを破滅させた蒙古族の指揮官フラグ・カーンと比べる。・・・今回の湾岸戦争でのイラクの破壊はサダーム・フセインの敵でさえ容易に許さないだろう」。「アラビヤ半島の産油国政府はアメリカのカイライとの非難を受け続けることとなる。・・・アラビヤ半島に万一、米軍が駐留することになれば、いずれレバノンで体験したように、アラブ人は攻撃を行うであろう。・・・米国の撤退の後、米国の友好国は多分ベトナムの友好政権が続いたよりは持続するだろう。だがそれほど長くない。報復の時期がはじまる。中東を失うものは誰となるか。それは何故か。民主党は1991年1月15日以前のファイルを調査し、審査と経済制裁に時間をかけるべきだとブッシュ大統領に警告した文書を捜すこととなるだろう」(P200)。
自衛隊の演習
PKO本体が、10月13日カンボジアに派遣された。この自衛隊の海外派兵に対して、PKOの市民投票をした団体などが「自衛隊の海外派兵をくい止めよう!アジア市民の会」を結成して、アジアを含んだ国際署名をしている。その「アジア市民の会」で国際署名を呼びかけた一人に広瀬隆がいる。広瀬によれば、自衛隊は急速に「一人歩き」を始めている。
「11月7日から16日までの10日間にわたって、実動演習と呼ばれる日米共同統合演習が、大々的におこなわれます。陸上作戦は、北海道の大演習場を中心に、また海上・航空は北日本と中部日本の周辺海空域で、実に自衛隊員ほぼ1万人、米軍ほぼ5千人というUNTACなみの大軍勢が参加するものです。・・・この演習と平行して、11月13日から17日までの5日間、今度はアメリカのハワイで陸上自衛隊の「戦闘射撃訓練」が実施されることになり、北海道の帯広部隊がヘリコプター部隊やミサイル、ロケット弾を駆使して、おそらく私のしるところでは初めての大規模な実践演習がおこなわれます。一体、どのような戦闘を想定しての、この危険な実践演習でしょうか。
カンボジアか、韓国か、どこかでこれが再現されるような気がしてなりません」(アジア市民の会報から)
マスコミは、この北海道の演習について少しは触れていたが、このハワイでの演習をあなたはご存じでしたか?
演習は、演習だけではおわらないだろう。