奥の細道歩き旅 那須湯元〜白河の関
今日は那須湯元から芦野宿を経て境の明神を目指す。芦野には遊行柳という古来有名な柳があり、芭蕉も足をとめた。境の明神は関東と奥州の境にあり、かつて白河の関跡とも言われた。ようやくここから陸奥(みちのく)にはいることになり、芭蕉はここを通ったとき、「白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と心境を述べている。

芦野から境の明神へ

遊行柳の見学が終わって国道に出たのが14時頃。これからこの国道をまっすぐに進んで、境の明神を経てJR白坂駅まで約14Km歩く予定である。
この辺りの国道294号線は昔の奥州街道である。道路は新しく立派になっているが、道筋は恐らく昔のままだろう。田園が主体だが所々に山が迫り、日陰を作ってくれるのがうれしい。気分よくタンタンと歩ける。時々国道標識が現れ、下に地名が記されているので、大体どの辺を歩いているのかが分かる。曾良の旅日記にも見える「寄居」の集落を過ぎてしばらくすると、大きな一里塚が見えてくる。「泉田の一里塚」である。塚の上の樹木はないが、塚の形は完全に残っている。実は、途中にも「板屋の一里塚」の跡があったらしいが、気がつかなかった。

遊行柳(ゆぎょうやなぎ)

新町地蔵尊のところに遊行柳への案内標識があるので、それにしたがって進む。国道294号線を横断して奥のほうへ少し行くと田圃の中に大きな柳の木が見えてくる。これが遊行柳である。
芭蕉が芦野に立ち寄ったのは、この柳を見るためであったといってよい。ここで芭蕉は、次の句を詠んでいる。  『田一枚植て立ち去る柳かな』 
かつて西行法師が奥州を旅したとき、『道のべに清水流るる柳かげ しばしとてこそたちどまりつれ』 と詠んだ。その柳の木の下に立ち感慨にふけっていたら、いつの間にか一枚の田の田植えが終わってしまった。柳の木の下で芭蕉は西行を思い、現代の我々は芭蕉を思う。柳の木は何代にもわたって植え継がれているが、周りの風景は変わらない。芭蕉が訪れたのは田植えの時期だったが、私が訪れたのは稲穂が実る時期だった。

遊行柳の少し先に小さな社がある。温泉神社の上の宮と呼ばれており、境内には那須町指定天然記念物の「大いちょう」がある。遊行柳はこの社の社頭に当たるので、芭蕉も立ち寄っているだろう。もと来た道を戻り、国道294号線に出る。この国道脇に遊行庵という無料休憩所がある。広い駐車場もあるので車で来た場合には便利だろう。ここには芦野宿の見所案内図もあるので、観光の役に立つ。

芦野宿

芦野宿は幕末に至るまで、奥州20余藩の参勤交代の往来でにぎわった宿場町である。奥州街道は大田原から鍋掛を経て芦野に至る。芭蕉は鍋掛から那須殺生石に向かったが、そのまま奥州街道を進めば約10Kmほどで芦野に着いてしまう。芭蕉の奥州への旅が目的地優先の効率的な旅ではなく、歌枕の地などのポイントを優先した旅であることがこれでもよく分かる。
芦野の旧宿場町は国道を越えた少し先にある。途中に奈良川という小さな川が流れており、休むのによい木陰もある。時計を見ると12:40。ちょうどよい時間なので、木陰で川の流れを眺めながら昼食とした。今日はさわやかなよい天気なのだが、日中の日差しはまだまだ強く、木陰がうれしい。

黒田原駅
小島から約3Kmで東北線黒田原駅付近に到達する。近くに那須町役場があり、近隣では大きな駅だ

県道28号線風景
小島交差点を右に曲がると県道28号線になる。この道は芦野まで続く

国道4号線風景
漆塚交差点から小島交差点まで500mくらい国道4号線を歩く

東北自動車道路下をくぐる
県道21号線は高速道路の下をくぐる。昨日陸橋の上から眺めた感じとはだいぶ違う

那須連山の眺望
やがて視界が開け、振り返ると茶臼岳を中心とする那須連山がくっきりと見えた

森に囲まれた県道21号線
しばらくの間、森に囲まれた快適な道が続く。曾良は「総じて山道で分かりにくい」と記している

那須街道との分岐点
昨日は右側から歩いてきて湯元に向かった。今日は左側の道を進み芦野に向かう

那須湯元から漆塚(うるしつか)へ

那須の温泉につかり、ゆっくりとくつろいだ次の日、私は朝8時に宿を出発した。妻はもう少し宿で休んでから昨日と同じルートで帰京する予定である。
昨日歩いた道を1Kmくらい戻ると、道は二股に分かれる。昨日は右側からやってきたのだが、今日はここで左に曲がる。この道もまっすぐな一本道である。しばらくの間、道の両側には鬱蒼とした森が続く。これは那須御用邸に続く森だろう。朝早く車の通行も少ない道を森の空気を胸いっぱいに吸いこみながら歩く。
やがて森は途切れ、視界が広がる。振り返ると那須の山々が茶臼岳を中心に連なっているのが見える。今は茶臼岳までロープウェイで簡単に登ることができるが、昔、小学校の林間学校で歩いて登ったのを思い出した。中腹の八幡温泉に杉並区の夏季施設があり、そこから茶臼岳頂上に登ったのだが、結構きつかったのを覚えている。私の初めての登山経験だった。
そんなことを考えながらタンタンと進んでゆくと、やがて道は東北自動車道の下をくぐり、更に進むと国道4号線にぶつかる。この辺りは漆塚という。曾良は旅日記の中で、湯元から漆塚を経て芦野までの道は「総じて山道で分かりにくい」というようなことを記している。案内もなかったので難渋したようだ。現在では立派な県道となっており、昔の道とは多少違うかもしれない。

漆塚から芦野へ

漆塚からは国道4号線を白河方面に500mくらい進み、小島交差点で右に曲がり県道28号線に入る。芭蕉の時代にこの道筋があったかどうかは分からないが、芦野へ出るにはこの道が最も分かりやすい。この道を約3Kmほど歩くと東北本線の黒田原駅近くに到達する。黒田原駅が近いのでちょっと寄ってみた。那須町の中心になる駅で、黒磯〜白河の間では一番大きな駅だ。

芦野の奥州街道旧道
国道が並行して走っているので、車も少なく静かな道である。あまり古い家は見られないが、家ごとに古い屋号を掲示している

奈良川
芦野を流れる小さな川。ここの木陰で昼食とした

奥州側の境の明神(住吉神社)
この神社は現在道路より高い位置に建っているが、江戸時代には街道と同じ高さだった。明治9年の明治天皇東北巡幸にさきだち明神前の道を六尺ほど掘り下げたという

関東側の境の明神(玉津島神社)
奥州側の住吉神社と並立している。起源は峠神として生まれ、奥州街道が開かれると交通の発達とともに発展したが、明治に入り新国道や鉄道の開通などにより衰退した

境の明神

15:40、境の明神に着いた。まず、正面の「ようこそ福島県 白河市」と書いた大きな道路標識が目に入った。ここは栃木県と福島県の県境になっている。とうとう歩いて福島県まで到達したのだ。
私は関東の人間である。街道を歩いて関東から離れる時には、いつもそれなりの感慨があった。東海道では箱根峠を登りきったところで静岡県に入った。中山道では碓氷峠の頂上で長野県に入った。いずれも峠で、付近には関所があった。ここ白河も峠で、かつて関所が置かれた。ただし、白河の関が置かれたのは奈良時代の話で、江戸時代にはもう関所は存在しておらず、ただ歌枕の地として名前だけが有名だった。
境の明神は国境をはさんで関東側に住吉神社、奥州側に玉津島神社と、二社がいずれも道の左側に建っている。神社の前は国道294号線だが、この付近は道幅も狭く、昔の街道の面影を残している。ただし、時折大型トラックも通るので十分注意しなければならない。

那須町最後の集落
境の明神はもうすぐである。この辺りから道幅が狭くなり、昔の街道を思い起こさせる

国道風景(山中分岐付近)
両側に山が迫ってくる。そろそろ国境の峠も近いようだ

やがて国道の両側に山が迫ってくる。さらにしばらく行くと街道沿いに民家が現れ、境の明神が近いことをうかがわせる。少し先で道幅が狭くなってくる。地形的な理由で境の明神前の道が拡幅できず、その部分が昔のままの道幅になっているのだ。おかげで周囲の景観の保持に役立っている。

泉田の一里塚
国道の左側にある。那須町内には三つの一里塚があったが、これはその最北端のもの。完全な塚として残っているのはここだけ

国道294号線、寄居付近
芦野から白河までの国道294号線は昔の奥州街道である。曾良旅日記に「芦野より一里半過ぎて寄居村あり」と記されている

遊行庵 (無料休憩所)
国道294号線に面し、大きな駐車場もある。室内には投句箱なども置いてあって俳句愛好家の利用も多いようだ。

上の宮
遊行柳のすぐ近くにある小さな社。境内に那須町指定の「大いちょう」がある。(高さ35M、目通り6.1m)

おなかもいっぱいになり、また元気に歩き始める。町角に観光地図があった。芦野氏は江戸時代、三千九百石の旗本だったが、那須一族の名門として万石の扱いを受け、参勤交代も行ったという。その芦野氏にかかわる遺構などがあちこちに残っているようだが、今日はまだ先が長いのでほとんど割愛した。機会があったらまた訪れてみたいところだ。

黒田原の町並みを抜けると、また県道は田園地帯を貫く一本道となる。やがて道は黒川を渡り、この辺りから峠道に差し掛かる。振り返ると那須の連山がくっきりと見える。この峠道を越えると那須の山々はもう見えなくなる。

黒田原のメイン通り(県道28号線)
黒田原は明治になって鉄道の駅ができてから発展した。現在は那須町の中心となっている

黒田原神社本殿前の狛蛙?
神社本殿前に一対の蛙が狛犬のように置いてある。近くに狛犬もいる

峠道の頂上付近に岩石の採石場があった。那須町は石材業が盛んで、県道沿いにも石材関係の施設が目に付く。峠を越えると芦野地区に入ってゆく。やがて、県道は国道294号線にぶつかる。この道は昔の奥州街道で、これから白河まではこの道を行くことになる。黒田原からここまで約6Kmくらいである。

黒田原は那須町の中心にある。那須町は那須湯元から芦野までの細長い大きな町であり、北は福島県に接している。黒田原はちょうどその中心に位置する町で、ここに町役場もある。明治になって鉄道が開通してから物産の集積地としてこの地方の中心となった。したがって黒田原の町自体はそれほど古い町ではないが、それでも明治・大正時代を思わせる古いつくりの建物がメイン通りには残っている。県道沿いに黒田原神社がある。どこにでもあるような神社だが、神社本殿の前に一対の蛙が狛犬のように鎮座している。近くにちゃんとした狛犬がいるので狛犬の代わりではないようだが珍しい。私は気がつかなかったのだが、参道の入口には飛び狛犬もいるようだ。

黒川の流れ
黒川は那珂川の支流で、その地名は古くから文献などに現れている

黒川橋から那須連山方面を振り返る
県道はこの辺りから峠道になりこの先では那須の山々は望めなくなる

県道と国道294号線の合流点付近
国道4号線と国道294号線を結ぶ県道28号線の道筋は、芭蕉の時代にはなかったかもしれない

峠道の頂上付近にある採石場
那須町は石材業が盛んで、これは採石場のひとつである

芭蕉は4月20日(陽暦6月7日)、境の明神に到達した。ようやく憧れの地、陸奥(みちのく)に一歩を踏み入れたのだ、という感慨があっただろう。何しろ「おくのほそ道」序章で「白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるわせ・・・・」というようなことを記しているのだから。
しかし、境の明神の場所が白河の関の跡かと思っていたら、古関の跡は別のところにあると聞いて少々戸惑ったらしい。古代の白河の関は昔の東山道沿いにあり、ここから二里ほど離れた旗宿という村にある。芭蕉はこの日は旗宿に宿泊し、次の日に古代の白河の関跡を見物している。

古関跡のある旗宿へは、白坂宿に入る手前で右に曲がるのだが、私はこの後、奥州街道をそのまままっすぐに進み、JR白坂駅に向かう。白坂駅に着いたのは16:30だった。

(総行程 約35Km)


  



新町地蔵尊ほかの石造物
芦野宿の出口(入口)付近に建てられている。このお地蔵さまは比丘尼で、女人講の行事が今でも行われているという

建中寺山門
街道沿いに参道があり、その先に山門、本堂がある。芦野氏の墳墓がある

田一枚植て立ち去る柳かな
この柳の下に佇み、芭蕉は故事に思いをはせていて、思わず時を過ごしてしまった。柳自体は何代も植え継がれているが、周りの風景は変わらない
遊行柳 (朽木柳、清水流るるの柳)
伝説によると文明(1471)の頃時宗の尊皓上人が当地方巡化の時、朽ちた柳の精が老翁となって現れ、上人から十念を授けられて成仏したという。後、謡曲に作られ、また種々の紀行文に現れ芭蕉、蕪村等も訪れたことはあまりにも有名である。(説明版より)
奥の細道歩き旅 第2回