白坂〜白河の関跡

9月8日(金)、6時頃家を出て8:39に東北本線白坂駅に着いた。今日は朝から爽やかな晴天である。
白坂駅から国道294号線に出、境の明神方面に戻って少し行くと白河の関への案内標識がある。ここで左に曲がって道なりに進む。案内標識には白河の関まで6.5Kmとある。ここから先は写真のような道標がポイントに立っているので、心配なく歩くことができる。山間の静かな道である。
かなり歩いたなと思う頃、ようやく県道76号線に出る。この道はかつての東山道の跡で、白河の関はこの道沿いにあったと推定されている。



南湖(なんこ)公園
「衆とともに舟を浮かべて・・」という設計思想のもと、公園の周囲には囲いがない。1801年に松平定信により造園され

関辺バス停付近の県道
この道を経て国道289号線に出、南湖公園を目指す
後方は関山方面

満願寺銅鐘
寛文5年(1665)白河藩主、本多忠平が寄進したもの。昭和19年に国の重要美術品に指定された

満願寺山門跡と「下馬」碑
この場所には満願寺の山門があったが、昭和20年に焼失してしまった。源頼義が奉納したという「下馬」碑は残っている

奥の細道歩き旅  白河の関〜矢吹

矢吹駅入口付近の国道4号線
この頃には完全に日が暮れてしまった。駅への案内標識が見えたときホッとした

国道4号線、東京から200Km標識
矢吹町へ入る境界付近に東京から200Kmの道路標識が立っていた

矢吹町に入る手前で国道脇に「東京から200Km」の道路標識があった。国道4号線は日本橋からここまでちょうど200Kmということだ。芭蕉の旅(私の旅)は国道のようにまっすぐに進んでこないからもっとずっと長いはずだ。ちなみにこれまで歩いた距離を合計してみたら、ここまでで300Kmを越えていた。.
矢吹町に入ってからもJRの駅までは結構距離があり、途中で完全に日が暮れてしまった。今日の宿は矢吹から2駅先の須賀川に確保してあるのであまり気がかりなことはないのだが、やはり暗くなると心細くなる。矢吹駅入口の道路標識を見た時にはホッとした。駅に着いたのは18:40だった。

白河神社社殿
小さいながらも「式内社」である

白河神社への参道
杉木立の中を55段の石段が続く

白河の関跡

白河の関跡は県道76号線沿いにある。この道は古代の東山道の道筋だったという。当時はもう少し山側を通り、その峠の上に関所があったと考えられている。関が置かれた年代は不明であるが、文献などから、奈良時代から平安時代中期くらいまで存在したと推定されている。
道路から少し離れて「史跡 白河関跡」の大きな石標と白河神社の狛犬が立っている。白河関の跡には現在、白河神社が建っている。
神社の鳥居の脇に古い大きな石碑がある。これは「古関跡」の碑と呼ばれているものである。白河関の位置については久しく不明であったが、江戸時代中期、時の白河藩主・松平定信の考証により、この地が白河関跡であると推定され、寛政12年(1800年)に「古関跡」の碑が建てれられた。

白河神社鳥居と「古関跡」の碑
鳥居の脇に当時の白河藩主・松平定信が建てた碑がある(1800年建立)

「史跡白河関跡」の石標と狛犬
道路から10mくらい奥まったところに立っている。この少し先に小ぶりな石の鳥居がある

鳥居をくぐるとすぐに空を覆った杉の林が始まる。ところどころ崩れかかった55段の石段を登ると正面に社殿が建っている。この神社は小さいながらも式内社である。式内とは「延喜式」の神名帳に載っている神社のことで、延喜式は927年の編纂になる。つまり、この神社は、平安初期にはすでに存在した古社ということになる。

社殿の近くに「古歌碑」が建っている。これには白河の関を詠った三つの歌が刻まれている。ここで、これらの歌をそれぞれのエピソードとともに紹介してみよう。

都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関 能因法師)
 白河の関という地名は、能因のこの歌により平安時代の都びとの間に広く知れわたった。能因は机上の作品と思われたくないあまり、数ヶ月間外出せず、「色をくろく日にあたりなして後」人前に出て、ちょっと陸奥へ行きました、といって歌を披露したという。当時の都びとにうけたエピソードだ。能因は実際に何度か陸奥を旅している。

便りあらばいかで都へつけやらむ 今日白河の関はこえぬと (平 兼盛)
 これは平安時代初期、平兼盛が奥州への下向に際し、白河の関を越えるときに詠んだものである。芭蕉もこの歌にいたく共感して、「『いかで都へ』と便り求めしも断りなり」と記している。芭蕉も江戸の知人たちに、ようやく白河の関を越えたことを告げたかったのだろう。

秋風に草木の露を払はせて 君が越ゆれば関守もなし (梶原 景季)
 源頼朝が奥州を鎮定すべくこの関を越えた時(1189年)、梶原景季が頼朝の前で詠んだ歌である。「いやはや、ご威光でございますなあと、たいこ持ちのような歌である」、と司馬遼太郎は書いている。「ご威光によって秋風が吹いているのでございましょう。その風めが露払いをつとめまして、草木にも露がなくそれどころか、関守までも消えちまっているようでやんすな」(司馬遼太郎『街道を行く 白河 会津のみち』より)。この頃には関とは名ばかりのものであった。

神社のある辺りは平坦地になっていて小径が続いている。昭和34年から38年までこの付近の発掘調査が行われた。その結果、建物跡、空掘、土塁など古代から中世に至る時代の遺構が発見された。同時に出土した土器類には関の存在をうかがわせる文字が墨書されたものも発見されている。これらのことから、ここが古代の関所の跡であるとされ、昭和41年に国指定の史跡となった。松平定信の考証が正しかったことが証明されたといえる。

庄司戻しの桜から関山へ

白河の関跡を後にし、県道76号線を白河市街方面に向かう。しばらくすると左側に桜の樹と石碑が見えてくる。これが「庄司戻しの桜」である。ここに、次の説明板が立っている。
「治承4年(1180年)、兄源頼朝の挙兵を知り奥州平泉から鎌倉に馳せる義経に対し、信夫(しのぶ)の庄司佐藤基治は自子継信・忠信を従わせ、自分も送ってこの地まで参り、訣別するに当たり『汝ら忠義の士たらばこの桜の杖が生づくであろう』と、携えていた1本の杖をこの地に突き立てた。後、戦に臨み兄弟ともに討死した。・・・桜は活着繁茂したという。・・・」
この少し先で、道は二股に分かれる。ここに関山への案内道標が立っており、これに従い右に曲がる。県道76号線は左に曲がってゆく。

空掘跡
当時掘られたと思われる空掘りの跡が、現在も一部残されている

関所関連の建物跡が発掘された場所
白河神社付近で建物跡や、関所の存在を示す文字が墨書された土器などが発掘された

関跡を下ってゆくと、周辺にも遊歩道がある。季節によって、カタクリ、卯の花、アジサイ、そば等の花が咲き、遊歩道から鑑賞できるという。
芭蕉は「おくのほそ道」本文で次のように記している。「卯の花の白妙に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする」。そして、曾良の句として次の句を載せている。 「卯の花をかざしに関の晴れ着かな」 (ここは古人が正装して越えた白河の関である。何の支度もないので、せめて卯の花を簪(かんざし)にさして晴れ着にしよう)
なお、関跡に隣接した関の森公園の一角に関所や周辺の建物などが再現されているということだが、先を急いだ私は見逃した。

白河関の森公園
関跡に隣接した公園の一角に関所関連の建物が再現されている

関の森公園遊歩道
季節になると、自生したカタクリや卯の花などが見られる

県道76号線(旧東山道)
この道は旧東山道の道筋である。この道を律令時代、任地に向かう都びとが追った。義経も通った。頼朝も通った

庄司戻しの桜
信夫(しのぶ)の庄司・佐藤基冶は、義経に従う自子・継信、忠信を送ってここまで来て最後の宴を開いた

関山への案内道標はその後もポイント、ポイントに立てられている。やがて左前方に小高い山が見えてくる。これが関山である。麓の集落を過ぎるとやがて道は急な山道になる。それほど長い距離ではないが、結構ハードである。芭蕉もこの道を通ったのだろうか。道はよく整備されており、道標も整っているので心配はない。このような山道を約30分ほど歩くと、関辺バス停方面からの広い道に合流する。ここから山頂まではもうすぐである。

関山への登山道
30分くらいの登山である。結構ハードな部分もある

麓の集落から関山を望む
関山へはポイント、ポイントに道標が立てられているので分かりやすい

関山

広い道に出てすぐのところに「関山満願寺」と記した石標と「下馬」と刻まれた古い石碑が建っている。ここには満願寺の山門があったが、昭和20年に焼失してしまった。「下馬」碑は、永承6年(1052年)源頼義が奉納したものである。その少し先に立派な銅鐘がある。これは、寛文5年(1665年)白河藩主、本多忠平が寄進したもので、昭和19年に重要美術品として国の指定をうけている。

いよいよ関山の頂上に着いた。12:50だった。関山は標高618.5m。ちょうど東京の高尾山くらいだ。ここからの眺望はすばらしい。白河市街を一望でき、周りの山々もはっきりと見える。
頂上には満願寺菩薩堂がある。天平2年(730年)聖武天皇の勅願によって、行基がこの地に創立したのがはじめという。かつては本堂のほかに別当寺、山門などがあった。
なお、一説にはこの関山に古い白河の関が置かれていたともいわれた。「関山」の名の由来だというが、今となっては闇の中である。
山頂には爽やかな風が吹き、ベンチも置いてある。すばらしい景色を見ながら昼食にしたいところだが、残念ながら食べるべき弁当がない。白坂駅からここまでコンビニなどの店がまったくなかったのだ。飲料水だけ飲んで、13:10に山頂を出発する。

関山頂上にある満願寺菩薩堂
聖武天皇の勅願により、行基がこの地に創立したという

関山頂上より白河市街方面を望む
標高618mの山頂からは白河市街が一望できる

下りの道は広く歩きやすい道で、登ってきた道のように急勾配の所はない。白河市街方面からはこちらの道がメインルートとなる。途中には五丁目などと書いた古い道標が立っている。登山口の道標が立っているところが「壱丁目」となっていた。
ところで、曾良の旅日記には関山に登ったことが記されているが、芭蕉は本文の中でまったく触れていない。芭蕉は白河の関を越えることを楽しみにしていたが、実際に来てみたら関跡といわれるものが複数あり、少々不機嫌になったようだ。また、混乱を避けるため、文飾上あえて触れなかったのかもしれない。

関山から南湖公園へ

登山口には関辺バス停への道標もあるので、これにしたがって進む。やがてバス通りが見えてくる。これから国道289号線に出て、南湖公園を目指す。芭蕉が実際にたどった道筋は今となってははっきりとは分からないので、白河市街地は分かりやすい道を道路標識や地図を頼りに歩くことにする。やがて南湖公園への道路標識が現れ、それにしたがってしばらく歩く。公園に到着したのは14:50だった。実は、まだ昼食を食べていないので、さすがにおなかがすいた。
南湖(なんこ)公園は、享和元年(1801年)に松平定信により造園された日本最古の公園だという。定信は造園家としても際立った才能を発揮し、彼の設計したこの公園は、四方に囲いを設けず、身分の隔てなく誰でも憩えるようになっている。私も湖のほとりのベンチで15分ほど憩わせてもらった。湖を渡る風が爽やかだった。

関山への登山口道標
ここには「壱丁目」と刻まれた古い道標も立っている

辺バス停方面からの登山路
こちらの道がメインルートで、楽に歩ける。私は下山路に使った
途中に「五丁目」などの古い道標が立っている

阿武隈川を越え女石へ

南湖公園を出発したのが15時過ぎ。ここから矢吹まではまだ16Kmくらいある。だいぶ日が短くなっているので、日が暮れるまでに矢吹に到着できるかどうか分からないが、行けるところまで行こうという気持ちで少しばかりピッチを上げて歩くことにする。
南湖公園からしばらく県道を歩き、本町交差点で奥州街道(国道294号線)に再会する。ここから先はこの奥州街道を歩くことになる。少し先で阿武隈川を越えた。この川はこれから先、宮城県に入るまでずっと旅の友となる。

阿武隈川を渡る
この川とはこれから先の大きな町で何回も再会することになる。最初の出会いである

奥州街道(国道294号線)
白河市の中心部を抜けてきた奥州街道と本町付近で再会した。これからまたこの街道を歩くことになる

奥州街道(国道294号線は女石で国道4号線に合流する。ここから先の奥州街道は国道4号線になる。白河市街をバイパスで抜けてきた国道4号線は交通量が多く、長距離トラックが疾走する大動脈である。ここから目的地の矢吹まではまだ12Km以上ある。国道に並行して旧道が残っている部分もあるようだが、ここはひたすら国道を歩いて先を急ぐことにする。

国道脇の大ダルマ
白河市のダルマは「白河ダルマ」として有名である。国道脇に大きなダルマが立っていた(白河市小田川付近にて)

奥州街道、女石付近
奥州街道(国道294号線)はこのT字路で右に曲がり、以後国道4号線となる

いよいよ私の歩き旅も陸奥(みちのく)に入った。9月になってからやや遅い夏休みをとり、4日かけて白河から福島まで歩く計画を立てた。まず第1日目は白河の関を見物する。平安時代の都びとにとって、陸奥は憧れの地であり、白河の関はその入口としてさまざまな歌に詠まれた。芭蕉の陸奥への旅もこの関跡を見ることが一つの目的だった。「心許(こころもと)なき日かず重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と、高揚した気持ちを本文に記している。

芭蕉はこの日、矢吹宿に泊まっている。私は2駅先の須賀川のホテルを予約してある。須賀川は大きな町で、駅から町の中心部は少し離れている。駅からはタクシーに乗り、ホテルに着いたのは19:20。早速風呂に入り缶ビールを飲み、途中で買ったパンを少し食べて20:30頃には就寝した。今日は6万歩以上歩いた。

(総行程 約40Km)


  


奥の細道歩き旅 第2回