奥の細道歩き旅 大田原〜黒磯

大田原宿について

私は大田原に2泊したので、ここで大田原宿について少し記しておこう。大田原は奥州街道の宇都宮宿から五番目の宿にあたる。ここは奥州街道、日光北街道、黒羽道、塩原道などの街道が集まる宿場町であり、大田原氏の城下町でもあった。徳川家康も大田原城は東北への押さえとして重視していた。
佐久山方面からきた奥州街道(県道48号線)は、大田原宿内に入り日光北街道をあわせて宿場内を進む(国道461号線)。少し先で塩原方面に向かう塩原道(国道400号線)を分け、更に進んで蛇尾(さび)川を渡ったところで黒羽道(国道461号線)と奥州街道(県道72号線)に分かれる。
宿場中心部の街道脇に金燈籠というのが建っている。ここから塩原道が分かれて行き、昔から商店が多くにぎわった場所という。しかし、宿場跡として古い面影を残す建物などはほとんど見られないのは残念である。

芭蕉が歩いた(ような?)道
野間近くの別荘地内の道だが、馬に乗った芭蕉が向こうからやってきそうな道だ

奥州街道、羽田入口付近
ここから右手1.5Kmくらいのところに羽田沼がある。冬には白鳥が飛来するという。付近には別荘分譲地なども多い

一里塚の少し先に鍋掛交差点がある。この辺りから鍋掛宿が始まるのだろう。道路標識があり、ここを左に曲がると黒磯市街となっている(右写真)。黒磯駅にはこの道を行くのが一番近道のようだ。芭蕉はもう少し先で左に曲がっているのだが、私は少々ズルをして近道を行くことにした。ここから先は一直線の県道が国道4号線そして東北本線の線路まで続いている。今日は旅行の3日目で、できれば早く家に帰りたい。関東地方は梅雨が明けたようで、真夏の日差しである。道路の照り返しで35度くらいはあるのではないかと思われる道をタンタンと歩く。黒磯市街に近づくと交通量も多くなり、食事をするのに適当な場所も見つからない。結局そのまま歩き続け、13:20に黒磯駅に到着した。ホームにはちょうど13:28発の宇都宮行き始発電車が待っており、それに乗り込む。車内はガラガラなので、弁当を広げ車内昼食とした。

やがて街道は野間の集落に入ってゆく。道はまたもとの幅に戻り、街道沿いに民家も増えてくる。点滅信号があり、右に曲がる道がある。ここまでの間にそれらしい道がなかったので、おそらくこの道が芭蕉が黒羽から歩いてきた道だろう。(右写真)芭蕉もここからしばらくの間、奥州街道を歩くことになる。芭蕉はここで馬から降り、馬は黒羽に返した。

真夏の夜の夢で月山、鳥海山に登った後、ふと目がさめた。そうだ、私はまだ大田原にいるのだ。これからまた着実に歩き旅を続けよう。というわけで大田原から歩き始める。(7月18日)


前回の大田原〜黒羽でも記したように、芭蕉が歩いた黒羽からの道は橋の工事のため通行不可の恐れがある。宿に帰って地図を調べたところ、大田原からの旧奥州街道が野間で芭蕉の歩いた黒羽からの道に合流していることが分かった。そこで、この区間については旧奥州街道(県道72号線)を利用することにした。(右図参照)

私の旅の前に、まず芭蕉の歩いた跡をたどってみよう。
4月16日、芭蕉はゆったりとくつろいだ黒羽を後に、那須湯元にある「殺生石」に向けて出発した。桃雪(浄法寺高勝)に挨拶し、翠桃邸を経てまず野間に向かう。桃雪は芭蕉に馬と道案内人をつけてくれた。那須の原野を進んでゆくと、馬の口を取っていた案内の男が芭蕉に「短冊得させよ」と乞うた。芭蕉は「やさしき事を望み侍るものかな」と、即席で次の句を書いて男に渡した。
    野を横に馬牽(ひ)きむけよほととぎす
(野を進んでゆくと、ちょうどホトトギスが鳴いた。馬方さんよ、ちょっと声のするほうへ馬を向けておくれ。風流を解するお前さんと一緒にその声を聞こうじゃないか)
馬は野間で返し、この先は徒歩で奥州街道を進み、鍋掛で奥州街道と別れて那須湯元の殺生石へ向かう。この日は雨が降り始めたこともあり、高久に泊まる。ここの名主高久角左衛門に桃雪が紹介状を書いてくれていた。

奥州街道と黒羽街道の追分(河原)
蛇尾川を渡ると「河原」という地名になり、ここで奥州街道は川に沿って左に曲がる。まっすぐ進むのは、黒羽道(国道461号線)である

蛇尾(さび)川
大田原宿のはずれを流れる川。左側の丘陵地に大田原城があった。通常は橋が架けられたが、流されると舟渡しとなった

八幡太郎義家愛馬蹄跡
義家が馬で勢いよく駆け上ったので、馬の蹄が石に乗ってしまい、蹄の跡がくっきりと残されたという

樋沢(ひざわ)神社
奥州街道沿いにある小さな八幡神社。八幡太郎義家にまつわる言い伝えがある

(総行程 約18Km)


  


樋沢神社の少し先に鍋掛の一里塚の標識がある。ここには標識があるだけで、塚らしいものは見えない。脇に細い急な階段があるので登ってゆくと、林の奥に鍋掛神社がひっそりと建っている。現在の道路はかなり掘り下げられたので、一里塚は高いところにあるようだが、よく分からなかった。

街道は市野沢、練貫(ねりぬき)十字路と過ぎ、やがて黒磯市に入る。このあたりは道幅も狭くなり、周りには那須野が原を思わせるような風景がしばらく続く。このあたりの右手一帯の林には別荘地分譲の看板が目立つ。このような別荘分譲地の一角に風情のある道が見えた。分譲地内の私道かもしれないが、この道を芭蕉と曾良それに道案内の男が歩いてきてもおかしくないなと思った。このような道で芭蕉は即座に句を作り、男に渡したのだろう。野間はもうすぐ近くである。

鍋掛神社
一里塚標識脇の急な石段を登ってゆくと鍋掛神社がある

鍋掛の一里塚標識
現在の道は昔より掘り下げられているので、一里塚はもっと上にあるようだ

街道を少し進むと樋沢(ひざわ)神社がある。ここには古い言い伝えがある。後三年の役(1083〜1087)で陸奥平定に向かう八幡太郎義家が樋沢村にさしかかったとき、ふと小高い丘にお宮があるのを見て軍勢を止めた。よく見ると源氏の氏神である八幡神社であった。義家は戦勝祈願にと馬で一気に丘を駆け上った。あまりの勢いに、境内にあった巨石の上に馬の馬蹄が乗ってしまい、蹄の跡がくっきりと刻みつけられたという。また、すぐ脇にあるもう一つの巨石が葛籠(つづら)に似ていたため、葛籠石と名づけたと伝えられている。

奥州街道(県道72号線)の様子
大田原の市街地を抜けると、次第に田園地帯が広がる

街道脇の「コウヤマキ」
大田原市の天然記念物に指定
樹高:30m、目通:3.15m
推定樹齢:約400年

史跡 道標
棚倉道との追分に建っている。正面には「南無阿弥陀仏」脇には「右たなくら」「左しらかわ」とあり、裏には元禄7年(1694)建立とある

奥の細道歩き旅 第2回

大田原宿内の奥州街道(国道461号線)
大田原宿内を通る奥州街道は、約1.5Kmが国道461号線になっている。国道はその先で黒羽道となり、黒羽まで続いている。(黒羽まで10Kmの道路標識あり)

金燈篭(きんどうろう)交差点
大田原宿の中心部にあり、ここから塩原道が分かれている。街道脇(写真右側)に金燈篭が建てられているが、これは文政3年(1820)に建てられたもので道標をかねていた

奥州街道を行く (大田原宿〜鍋掛宿)

奥州街道は、県道72号線としてよく整備されている。しばらく進むと、右側に古い道標が見えてくる。ここは棚倉(たなくら)道への追分である。街道は次第に広々とした田園地帯になり、左側に大きな樹が見えてくる。これは、大田原市の天然記念物に指定されている「コウヤマキ(高野槙)」である。