今回からしばらくの間、那須野を歩く。芭蕉は、旧知の門人のいる黒羽を目指したのである。私も今市〜矢板〜大田原〜黒羽〜黒磯というルートを歩くが交通の便が悪いので、今までのような日帰り旅行では非常に効率が悪い。そこで2泊3日の予定を組み、実行日は7月16日〜18日の3連休の日とした。

今市から大渡(おおわたり)へ

前回は日光で終わったので、本来なら日光から歩き始めるべきだが、今回は日光、今市間はダブるので省略し、今市から歩き始める。

芭蕉は、実際には同じ道を戻ったわけではなかった。普通の旅人は日光から今市まで杉並木道を戻り、今市から日光北街道で大渡へ出るのだが、芭蕉は鉢石の宿屋の主人、五左衛門の指示に従って大渡への近道(日光北街道の脇道)を行っている。(右図参照)
私は、今市から大渡まで普通の旅人と同じ日光北街道を利用することにした。現在は、今市からの日光北街道は国道461号線となっており、大変分かりやすい。

東武下今市駅で下車し、前回と同じく日光街道(国道119号線)に出て日光方面に進み、春日町交差点で右に曲がる。これは国道121号線(会津西街道)である。広い国道をしばらく行くと、大谷川を渡り、その少し先で国道461号線が右に分かれてゆく。この道は会津西街道の旧道で、いかにも昔の街道といった感じの道をしばらく行くと道が二手に分かれる。ここが、かつての会津西街道と日光北街道の追分となっていた。

奥の細道 今市〜大田原

旧会津西街道と日光北街道の追分
両街道とも現在では広いバイパスがあるので、このあたりを通る車の数は少ない日光北街道(国道461号線)は右に曲がり、東武鬼怒川線の踏切を渡る

道121号線
この国道は、今市までは例幣使街道であったが、その先は鬼怒川温泉を経て会津方面に通じる会津西街道となる

国道461号線は、東武鬼怒川線の踏切を渡った後、車の少ないのんびりした道が続く。そのうちバイパス道路が合流し、車の数は増えてくるが、歩道がきちんとしているので、安心して歩ける。やがて芹沼(せりぬま)集落に入る。道沿いには、お地蔵様や馬頭観音、庚申塔などがあちこちに見られ、素朴な味わいのある街道である。

しばらく行くと、木の幹に大きな草鞋(わらじ)のようなものが掛けてあるのが見えてくる。何だろうと思って近くに行くと、説明版があった。これは「厄払い大草鞋」といい、「芹沼(せりぬま)地区には、このような大きな草鞋を履く大男がいるから悪者は立ち寄るな、そして流行病などの厄払いも込めて、昔から奉納されています」とある。昔は春の祭りのときに芹沼地区の辻角に奉納されたらしい。ここはちょうど浅間神社の入口に当たる。
芹沼を過ぎると轟集落に入る。轟には鎌倉時代畠山氏一族の城があり、城跡が史跡として残されている。

街道脇のお地蔵様、庚申塔など
素朴な石造物が、街道のいたるところに見られる

国道461号線(今市市芹沼付近)
国道はバイパスと合流するので車は増えるが、周りの風景はのどかだ

轟の集落を抜けると、大渡に入る。ここで芭蕉の通ってきた脇道と日光北街道が合流する。芭蕉の歩いた道は近道だと教えられたようだが、地図上で見ると距離はほとんど変わらず、脇道なので道筋も分かりにくかったのではないだろうか。
現代のように情報の多い時代とは違い、昔は初めての道を歩くときにはある程度行き当たりばったりになってしまうことはやむをえないことだと思う。私は、今後の長い行程をすべてを芭蕉の歩いたとおりに歩くことはないと思っている。大筋が合っていて、主な立ち寄り先が合っていればよしとしたい。ただ、メインルートの中断、抜け落ちはできるだけ避けたい。
大渡で鬼怒川を越える。現在は大渡橋でわたるが、芭蕉の頃は水量の少ない時期は仮橋が掛けられ、落橋すれば舟渡しとなった。曾良の旅日記には、「仮橋有り、大方は舟渡し」とあり、このときは運良く橋を渡れたらしい。

轟城跡付近
轟には鎌倉時代畠山重忠の末子重慶の城があった。この付近には縄文中期の土器なども出土しているという

厄払い大草鞋(芹沼地区)
街道脇に厄払い用の大きな草鞋がかかっている。浅間神社の入口にある

船生(ふにゅう)から玉生(たまにゅう)へ

鬼怒川を越えると、今市市から塩谷町に入る。この辺りは船生(ふにゅう)といい、昔は東西に分かれた大きな宿場町だった。現在も、街道に沿って町が長く続いている。
ところで、船生の町に入ってから道路事情が大変悪くなった。鬼怒川温泉方面からくる県道が合流するため車の量が増え、しかも歩道のスペースがほとんどない。それこそビクビクウォークの連続となってしまった。さすがに、町の中心部にはガードレールと歩道が設けられていた。この付近に門構えの立派な旧家が建っていた。かつての本陣かもしれない。

大渡橋から見た鬼怒川
昔は街道の難所で、大方は舟渡し、増水時には川止めとなった。芭蕉が渡ったときは運良く仮橋がかけられていた

大渡のT字路
ここで日光北街道と芭蕉の歩いてきた脇道(左)が合流する

船生の街道風景B
街道沿いに立派な門構えの家があった。かつての本陣かもしれない

船生の街道風景A
町の中心部には歩道はある(船生陸橋,、船生小学校付近)

船生の街道風景@
対向車が多く、大型トラックも多い。歩道スペースがほとんどないので、ビクビクウォークの連続である

船生の町並みは長く続き、神社などの一休みする場所もない。今日は曇りで、時折日がさすくらいだがむし暑い。食事のできる場所を探しながら行くと、小さな川が流れその脇に木が茂っている場所があった。時計を見ると13時近いので、ここでコンビニ弁当の昼食にした。泉川という川で、きれいな水が流れており、水を眺めながら木陰でしばし憩う。
おなかもいっぱいになり、また元気に歩き始める。やがて国道は広くなり、ようやくビクビクウォークからは開放される。タンタンと新しい国道を進むと、やがて玉生(たまにゅう)宿への旧道の分岐が見えてくる。船生から玉生までは約9Kmある。

国道から玉生市街への分岐点

拡幅され新しくなった国道

泉川ほとりの木陰で昼食

芭蕉は、大渡りの手前で激しい雷雨に遭った。この街道はひとたび雨が降ると大変な悪路となったが、船生では泊まらず玉生(たまにゅう)までひたすら歩き続けた。次の日に黒羽まで行きたいのでできるだけ先に進みたかったのだろう。玉生に着いたのは日も暮れた頃だった。曾良は「玉生に泊まる。宿悪しきゆえ、無理に名主の家入りて宿かる」と記している。

私が玉生に着いたのは14時頃だった。バス停名が「玉生宿」とあるように、宿場だったが船生よりはかなり小さかったらしい。バス停の近くに「芭蕉一宿之跡」記念碑入口という案内板があったので碑を探したのだが、残念ながら見つからなかった。その少し先の路傍に「芭蕉通り」という小さな石標が建っていた。町は慶応4年(1868)戊辰戦争の際に会津軍の放火により全焼したということで、他に古いものは何も残っていない。
ところで、しばらく前から遠くでゴロゴロと音がしていたのだが、町の中でとうとう降り始めた。路面にバシャバシャとたたきつけるような激しい雨で、芭蕉が出遭ったのもこんな雨だったのだろうと思いながら、商店の庇の下でしばし雨宿りした。

「芭蕉通り」の石標
旧道が直角に曲がる角に、「芭蕉通り」の小さな石標が建っていた

玉生宿バス停付近
この付近に「芭蕉一宿之碑」があるようなので、付近に宿を借りた名主の家があったのだろう

玉生から矢板へ

7,8分くらい雨宿りして、ようやく小降りになったので歩き始める。道には雨水がたまり、車が水をはねながら通り過ぎる。またまた、ビクビクウォークになってしまった。やがて旧道は新しい国道と合流し、道幅も広くなるので安心して歩けるようになる。
その先の倉掛峠はかつては難所だったらしいが、広い国道で難なく越えてしまう。この峠を越えると矢板市幸岡で、かつて高内宿があった。しばらく行くと前方に広い大きな道路が見えてくる。東北自動車道である。陸橋の下を走り抜けてゆく車のスピードには驚くばかりだ。

やがて道は矢板の市街地に入ってゆく。矢板本町付近に大きな道路標識があった。これによると大田原までは13Kmとなっている。現在の時間が16時、あと13Kmなら19時頃には大田原に到着できるなと目途をつけた。初めの計画では、ここ矢板で1泊し、次の日に黒羽まで歩くという予定だったのだが、適当なビジネスホテルが事前に見つからなかったので、できれば大田原まで行きたいと思っていた。大田原には適当なホテルがあり、その所在場所と電話番号は調べてある。とはいっても、距離はまだ結構あるし、空模様もなにやら怪しいようだ。今なら時間も早いし、ここでホテルを探すこともできる。歩きながらいろいろと考えたが、やはり大田原まで歩くことにする。
矢板の町は、今日通り過ぎてきた宿場町に比べると東北本線の駅があるだけに規模がずっと大きい。国道は町の中心部をやや外れて通っているようだが、それでも都会の片鱗が見える。
東北本線の線路を陸橋で越え、さらにまっすぐ行くと国道4号線にぶつかる。ここからしばらくの間、国道461号線は4号線と一緒になる。

東北自動車道(矢板市幸岡付近)
のんびりした田園風景の中を車が猛スピードで走り抜けて行く

国道461号倉掛峠
旧道の峠道も残っているようだが、国道を進む

東北線陸橋より黒磯方面を望む
矢板駅は反対方向の少し先にある

矢板市本町付近
ここの道路標識に大田原まで13Kmの表示があった。非常に貴重な情報だ

矢板から大田原へ

芭蕉は、雨の中を玉生の宿に着いて1泊したが、次の日は快晴だった。8時頃宿を出て日光北街道を進んだ。矢板までは現在の国道461号線とほぼ同じ道を歩いている。
ところが、国道461号線は矢板で国道4号線に合流した後、芭蕉の歩いた道とは違うルートを行くことになる。大田原でまた一緒になるのだが、大田原までの国道ルートは昔はなかった道である。芭蕉の歩いた旧道も矢板市内にそのまま残っているわけではなく、国道4号線に分断されて一部消滅し、国道4号線を1Kmくらい進んだ先で再び現れる。(右図参照)

私は、国道4号線を進み、芭蕉の歩いた道への分岐点を探しながら歩いた。分岐する細い道が1,2本あったのだが、どうも違うようだ。そのうちとうとう雨が本格的に降り始めた。それらしい道があったのだが、道路標識の行き先がどうも違う。立ち止まって地図を調べればよかったのだが、雨が激しくなりそのまま国道を進んでしまう。その後それらしい道は現れなかったので、やはりあの道がそうだったのだろう。
その後は覚悟を決め、交通量の多い雨の国道4号線をひたすら歩く。国道は面白くないが分かりやすい。後は国道461号線の標識が見えたらそちらに進めばよいのだ。


芭蕉は、矢板を過ぎた後も広い那須野ヶ原を行く。そこで野飼いの馬を見つけ、近くにいた農夫に馬を貸してくれないかと頼む。農夫は快く馬を貸してくれ、この辺は道が枝分かれして分かりにくいから、馬の行くとおりに行って馬が立ち止まったところで返してくれればよいという。
このとき二人の子供が馬を追ってきた。一人は小さな女の子で、名前を聞くと「かさね」という。聞きなれない名前だが優しい感じがしたので、 「かさねとは八重撫子(なでしこ)の名成るべし」 という句を曾良の句として載せている。現在、矢板の先に「かさね橋」というのが残っている。私もぜひ渡りたかったのだが、そんなわけで残念ながらバイパスしてしまった。

私は、カメラも地図もすべて背中のザックにしまいこみ、雨の国道を速いペースで歩き続ける。歩きながらこういうウォークをなんと言ったらいいだろうかと考えたが、結局いい考えが浮かばなかった。気持ちよくタンタンと歩くときは気分も明るくいろいろなことを自由に考えられるのだが、こういうときはどうしても気がかりなことばかり考えてしまう。そこで、その後これは「気がかり(worry ウォリー)ウォーク」としてはどうかと思いついた。室の八島から壬生駅に向かったときもこの「ウォリー・ウォーク」だった。

国道4号線を4Km近くも歩いて、ようやく461号線の分岐が見えてきた。ここから先も大田原まではまだかなり距離がある。大田原市内に入りようやく雨もあがってきた。ザックからカメラ、地図、ホテルの一覧表のプリントなどを取り出し、目当てのビジネスホテルに電話を入れる。予約は取れたのでホッとした。その場所からホテルまではまだ結構距離があったが、ホテル周辺の詳細地図もプリントしておいたので、場所もすぐに分かった。ホテルに着いたのは19時ごろだった。

今市から大田原まで1日の総行程約41Kmは、これまでの私の最長記録だ。歩数も60,000歩を越えた。

   

国道461号線風景(大田原市内)
ようやく雨もあがり、大田原市内に入ったが後どのくらい歩いたらよいのか分からない

国道4号線風景(矢板付近)
この辺は矢板市街に近いので人家も多いが、しばらく行くと道沿いには人家もなく車だけがビュンビュン通る殺風景な道となる

奥の細道歩き旅 第2回