今市宿の様子
街道沿いに長く商店街が続いている

日光街道と例幣使街道の合流点
例幣使街道には鬱蒼とした杉並木が続いている

東武日光線下今市駅
会津方面への電車が分岐する大きな駅だ

「眠り猫」の彫刻
左甚五郎の作と伝えられる有名な彫刻だ。写真などで見ると実際の大きさが分からないが、思ったより小さなものだ

異人石
明治の頃、この石に坐って毎日杉並木を観ていた外人がいたという

明治天皇御小休所跡
明治9年、東北巡幸の帰途、ここで御小休みされた

車道(国道)沿いの杉並木
この付近に「並木太郎」が立っている
歩道があるのでビクビクせずに歩ける

並木太郎
並木の中で一番大きな杉であり、周囲3.35m、樹高38m。その姿の美しく端正なことから並木太郎と呼ばれている

樹齢370年の杉並木
最も古いものは江戸時代初期のもので、樹齢370年を越えうという

日光杉並木街道A
芭蕉の 「あなたふと木の下暗も日の光」 を思わせる道が続く

日光杉並木街道@
車とは遮断された昔のままの杉並木街道が続く。散策する人もちらほら見える
奥の細道歩き旅  今市〜日光

東照宮陽明門
江戸時代には、徳川家の威光を顕示するため、一般庶民もここまでは拝観を許されたという

家康公墓所
江戸時代、ここまでこられたのは将軍などほんの限られた人たちだけだった

鋳抜門
家康公墓所への最後の関門

奥の院に通じる参拝路
結構距離もあり、急な階段もあるので将軍も苦労したことだろう

石段を登ると、見る者を圧倒するような陽明門が建っている。江戸時代には一般庶民はこれから先に入ることはできなかった。日暮の門といわれたが、ここはじっくりと門を眺めるしかなかったのだ。
私もじっくりと眺めたが、昔の印象ではもっとキラキラしていたような気がするが、今見ると少しくすんでいるように見えた。
陽明門をくぐると、拝殿、本殿がある。ここには将軍の間があり、奥の院にある家康公墓所参拝前にひとまずここでくつろいだのだろう。
いよいよ奥の院への参拝である。現代の参拝者はここで別料金520円也を支払わなければならない。有名な「眠り猫」の彫刻はこれから先にあるので、ぜひこれを見たいという人は必須料金である。奥の院への入口のすぐ上部に眠り猫の彫刻がある。昔見たときも小さなものだなあと思ったが、今回もあれ、こんなに小さなものだっけとあらためて思った。
そこから奥の院までは結構距離があり、途中に長い急な階段もある。将軍の参拝もここを駕篭に乗るわけにはいかないだろうから、かなり苦労したはずである。その日のためにひそかにトレーニングしていたかもしれないななどと思いながら登った。頂上に奥社の拝殿があり、将軍はここで一休みした後、鋳抜門を通って家康公の墓所に参拝した。

関東地方は2,3日前に入梅したが、今日6月12日はよい天気である。今日は今市から日光まで歩き、日光社寺見物の後、裏見の滝まで足をのばす予定である。今市から日光までの杉並木街道は、車に邪魔されることなく歩行者が大手を振って歩くことができる区間がある。これも楽しみだ。

東照宮唐門と本殿
陽明門をくぐると豪華な唐門があり、その奥に東照宮本殿がある。ここには将軍の間が設けられている。周りは透塀で囲まれている

私は、これまでに二度日光を訪れている。1回目は小学校の修学旅行で、これは日帰りだった。2回目は子供が小さい頃、日光から那須方面へ旅行した。日光が結構だったということは記憶にあるが、実際にはほとんど忘れている。今回は新鮮な気持ちで見物できた。

先ほどの石段の道は東照宮表参道のわき道で、これを上ってゆくと二荒山神社を開基した勝道上人の像が建つ広場に出る。ここに拝観券売り場があるので、共通拝観券を求める。エリア内の輪王寺、東照宮、二荒山神社、大猷院に共通の拝観券で、1000円である。

まず手始めに輪王寺三仏堂から見学した。客が適当に集まると坊さんが中をガイドしてくれる。江戸時代の日光見物も、このように必ず案内者がついて故事来歴を詳しく説明してくれたらしい。もちろん有料で拝観料の中に含まれていた。現代のこのお寺では無料でガイドしてくれるが、最後にお守りとか数珠の販売などの営業活動がある。

歩行者用の散策道は約3.5Km続いた後、車道と合流してしまうが、歩道が設けられているので、前回のように車にビクビクしないで歩ける。杉並木は、街道沿いに続き、この車道沿いに先ほどの並木太郎が立っている。やがて、七里の集落に入り左手に明治天皇七里御小休所跡碑が見える。ここで明治9年東北巡幸の帰途、明治天皇がお小休みされた。
少し先で、国道から分かれて旧道が一部残っている。ここに「異人石」がある。説明版にいわく「明治の頃、杉並木を愛した一人の外人がいた。その外人はこの石を石屋に頼んで坐りやすくしてもらい、毎日ここで並木を見ていたので、異人石と呼ばれている」 私も坐ってみたが、なかなか坐り心地がよかった。

今市宿

今市は日光街道をはじめ例幣使街道(壬生道)、会津西街道の合流点である。江戸時代には交通の要衝として発展したし、今も日光や鬼怒川温泉などへの玄関口としてにぎわっている。
東武日光線下今市駅には9:08に到着した。東武日光線は、この駅で日光行きと会津方面行きに分岐する。
駅前から続く道を道なりに少し行くと、日光街道(国道119号線)に出る。少し戻って前回通った例幣使街道との合流点まで行ってみた。よく見ると、日光方面から例幣使街道への右折は禁止になっている。杉並木の歩行者にとっては少しでも車を規制してくれるのはありがたい。
日光街道沿いには商店街が長く続いている。時折古い構えの家も見られ、宿場の面影も残っている。少し先で会津西街道が右に分かれてゆく。

日光の社寺への入口付近の様子
石段上り口中央に「世界遺産 日光の社寺」と刻んだ大きな石碑、右手奥には「杉並木寄進碑」が建っている

大修理の完成した神橋
平成9年から大修理をしていたが、ようやく完成し特別公開されている。錦帯橋、猿橋とともに日本三大奇橋の一つといわれる

やがて町並みが途切れ、歩道橋と道路標識が見えてくる。ここから日光まで7Kmとある。左手には瀧尾神社があり、その先からいよいよ日光街道の杉並木が始まる。ここの杉並木街道は歩行者が主役である。車道は左側に別に設けられ、杉並木の道は歩行者が大手を振って歩けるのだ。杉並木の入口付近に乗用車が何台か駐車していたが、ここに車を置いて杉並木街道散策を楽しんでいるのかもしれない。

杉並木街道を歩く

昔のままの杉並木街道を歩く。この道を日光東照宮参詣の将軍が通り、朝廷からの使者が通りそして芭蕉と曾良も歩いたのだ。今、この道を大名行列が通ってもおかしくない。昔の気分に浸りきることができる。前回長大な例幣使杉並木街道を歩いたが、途中散策者には一人も出会わなかった。しかし、さすがにここでは散策する人の姿が見られた。私も、森の空気を味わいながらゆっくりと歩いた。

曾良の旅日記によると、芭蕉は室の八島で 「あなたふと木(こ)の下暗(やみ)も日の光」 という句も詠んでいる。その後、長い杉並木街道を歩き、この句が繰り返し頭をよぎったのではないだろうか。鬱蒼とした杉並木は日光山の神域である。この杉並木の下を「ああ尊いことだ」と感激しながら歩く芭蕉の姿がなんとなく目に浮かぶ。なお、芭蕉は、この句を推敲して 「あらたうと青葉若葉の日の光」 として「おくのほそ道」日光の項に収録している。

やがて一里塚が見えてきた。江戸から34里(136Km)の瀬川の一里塚である。その少し先に「砲弾打込杉」というのがある。戊辰の役で日光に拠った幕軍を官軍が攻撃、この付近で前哨戦が行われた。このとき官軍の撃った砲弾が当たった跡が残っている。杉の木が歴史の一断面を語っている。

砲弾打込杉
日光に拠った幕軍と官軍がこの付近で前哨戦を行い、そのときに打ち込まれた砲弾の跡が残っている

瀬川の一里塚 (江戸から34里目)

日光杉並木は、日光参道の並木として松平正綱が寛永2年(1625)より20余年をかけて街道の両側約37Kmにわたって植えたものである。最も古いものは約370年を経て今日に至っている。樹高は約45m、直径約1.8mと大木になっている。これらが道の両側に立ち並ぶさまはまさに圧巻である。少し先に「並木太郎」と名づけられた杉の木が立っている。

鉢石(はついし)宿

杉並木はいったん途切れた後再び続き、JR日光駅付近で終わる。そのすぐ先に東武日光駅がある。両駅は近いが連絡はしていない。東武日光駅前のほうが土産物屋が立ち並び賑やかだ。バスの発着所などもこちらにある。
このあたりからは鉢石(はついし)宿となる。昔から日光の門前町として栄え、現在も日光への観光基地としてにぎわっている。東武日光駅から日光東照宮への入口神橋(しんきょう)まで約1.5Km、かつての鉢石宿の町並みが続いている。芭蕉はここで1泊している。

鉢石宿の様子A
神橋先のT字路で車は渋滞する。昔もこれから参拝しようとする人たちでこのあたりはごった返していたかもしれない

鉢石宿の様子@
日光の門前町として昔から栄え、現在もにぎわっている

杉並木終点付近
この少し先で杉並木は終わりとなり、日光市街になる

神橋(しんきょう)から世界遺産・日光の社寺見物へ

宿場の通りをまっすぐに行くと、日光の社寺への入口に達する。その手前に大谷川が流れ、朱塗りのきれいな橋が架かっている。これが神橋(しんきょう)である。奈良時代の末にかけられたこの橋は神聖な橋として尊ばれ、寛永13年(1636)に現在のような橋に造りかえられてから、もっぱら神事、将軍社参、勅使などの通行のときのみ使用され、一般の通行は下流に仮橋(日光橋)をかけて通行するようになった。平成9年より大修理が行われ、長い間通行不可だったが、ようやく完成し特別公開されている。
車の通行の多い日光橋を渡り、その先の信号を渡るといよいよ日光の社寺の入口である。正面の石段の上り口の大きな岩には、「世界遺産 日光の社寺」の金文字が刻んである。平成11年12月に「日光の社寺」として世界遺産に登録された記念碑である。その右手奥には「杉並木寄進碑」が建っている。同じものは、ここに通じる各街道の杉並木の入口にも建てられている。

東照宮見物

輪王寺から東照宮への参道に出る。東照宮の入口には大きな石の鳥居が立っている。鳥居をくぐり仁王門から中に入ると、そこはもう東照宮の世界である。左手に神厩舎がある。キラキラした建物が多い中でこれは素朴なものである。この正面の壁面に有名な「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿の彫刻がある。周りには上、中、下の三つのきらびやかな神庫などが建っている。左手奥には鳴き竜で有名な薬師堂がある。

輪王寺三仏堂
輪王寺の本堂で、日光では最大の建造物。天台宗三本山の一つとして栄えた

勝道上人像
上人は天応2年(782)、日光山のルーツ二荒神社を開基した

上神庫
同じ場所に上、中、下の三つの神事用倉庫がある。少し先の石段を登ると陽明門がある

神厩舎
ここの壁面に有名な三猿の彫刻がある

東照宮大鳥居
鳥居に掲げられた「東照大権現」の大掲額は、畳1帖分の大きさがあるという

二荒霊泉
ここの泉の水は冷たくておいしかった。この近くのベンチでコンビに弁当を食べた

二荒山神社本殿
拝殿や本殿は元和5年(1619)徳川秀忠の寄進によるもので、日光山内では最も古い建造物だ

二荒山神社鳥居
唐銅製の大きな鳥居である。鳥居から本殿まで、静寂なムードが漂う

おなかもいっぱいになり、元気に最後の寺社見物地・大猷院に向かう。日光寺社エリアの西端、二荒山神社の隣に位置する。三代将軍徳川家光の日光廟として四代家綱が建立した。質素にという家光の遺言で東照宮よりは小規模であるが、特に各種の門はそれぞれに豪華である。


唐門
東照宮の唐門と似ている。この奥に本殿がある

二天門
日光山で一番大きな門。上部には絢爛豪華な装飾が見られる

日光廟大猷院仁王門
徳川家光廟、大猷院への入口である

裏見の滝へ

大猷院を出たのが13:30頃。日光社寺の見学に約2時間かかったことになる。これからは、芭蕉の歩いた跡をたどって裏見の滝まで行く予定である。大猷院から西参道を通って国道に出る。国道を中禅寺湖方面に向かって歩いてゆくと、裏見の滝への道路標識が見えてくる。これを右に曲がってっまっすぐ道なりに行けば、滝に通じる広場に出る。この広場には駐車場やトイレなどの設備もある。ここから滝までは山道を5分くらい歩けば到着する。国道に出てから滝までは、徒歩約1時間である。
滝の近くには小さな観瀑台が設けられ、滝の様子がよく見える。滝を裏側から見ることができたため「裏見の滝」と名づけられたが、現在は危険なため裏側へ簡単に行ける道はないようである。
芭蕉はここで、「暫時(しばらく)は滝に籠(こも)るや夏(げ)の初(はじめ)」 という句を詠んでいる。

含満ヶ淵周辺

裏見の滝から同じ道を戻って国道に出る。国道を日光方面に戻るとすぐ先に右に曲がる細い道がある。この道をしばらく進むと、大日橋への案内板があるのでこれにしたがってゆくと、少し先に新しい大日橋が架かっている。この橋のすぐ上流にはかつて大日堂があったというが、明治時代の洪水で流されて今はない。
橋を渡りさらに進むと、大谷川沿いの奇勝地となる。含満ヶ淵(かんまんがふち)」といい、曾良の旅日記にも、ここに立ち寄ったことが記されている。少し先に「並び地蔵」がずらりと並んでいる。

裏見の滝
高さ約19m、幅約2mほどの比較的小さな滝。滝を裏側から見ることができたためこの名がつけられた。かつては男体山などへの信仰登山のための修行場になっていたという

散策路は住宅地になり、やがて元の国道に出る。日光橋を渡れば、あとは元きた道を戻る。東武日光駅に着いたのは16:30だった。


(総行程  約22Km)

杉並木街道の入口
ここから歩行者が大手を振って歩ける杉並木街道が始まる。車は並行した別の道を通る

瀧尾神社歩道橋と道路標識
日光まで7Kmの走路標識があり、この先から日光街道杉並木が始まる
並び地蔵 (化け地蔵)
慈眼大師天海の弟子約100名が寄進したもので、参詣者が数を数えるとそのたびに数が違うので、化け地蔵とも呼ばれた、

含満ヶ淵(かんまんがふち)
男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝で、古くから不動明王が現れる霊地といわれた。芭蕉も立ち寄っている

奥の細道歩き旅 第2回

二荒山(ふたらさん)神社・大猷院(たいゆういん)見物

東照宮を後にして灯篭の立ち並ぶ参道を行くと、唐銅の大きな鳥居が見えてくる。これは二荒山神社の鳥居である。境内は広く、静寂なムードが漂う。
二荒山神社は天応2年(782)勝道上人の開基と伝えられ、男体山(黒髪山)を御神体とし、日光全山を境内とする壮大な神社で、華厳の瀧や中禅寺湖も境内に属し、いろは坂は男体山への参道だという。
芭蕉は、「その昔、このお山を『二荒山(ふたらさん)』といっていたものを空海大師が『日光山』に改めた」と述べ、「今や、お山には徳川家のご威光が満ち溢れ、四民安堵している」として、次の句を詠んでいる。
                   あらたうと青葉若葉の日の光

境内の奥のほうに小さな泉がある。前に小さな鳥居が立っており、「二荒霊泉」と掲額がある。飲んでみると冷たくて大変おいしいので、空になったペットボトルにつめさせてもらった。近くにベンチも置いてあるので、少々畏れ多いかなとも思ったが、ここで弁当を使わせてもらうことにした。ちょうど13時頃だった。