奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木
釣月庵の内部(復原)
芭蕉はここで処女撰集「貝おほひ」を執筆した
帰省したときにはここに起居したという

釣月庵(ちょうげつあん)
生家の後園に建てられた草庵で若き日の芭蕉の書斎であった

史跡 芭蕉翁誕生の地
長い塀の内に芭蕉生家と釣月庵が建っている

俳聖殿

芭蕉記念館からまっすぐに進むと伊賀流忍者博物館というのがある。展示だけでなく何かアトラクションもあるようで、なにやらアナウンスも流れてくる。興味はあるが時間がないので残念ながらパスする。この忍者博物館の隣の静かな空間に俳聖殿が建っている。
俳聖殿は松尾芭蕉の生誕300年を記念して昭和17年(1942)に建てられたもので、下層八角形平面、上層円形平面の重層で、屋根は上下層とも檜皮葺である。堂内には芭蕉の等身大坐像が安置されている。

芭蕉記念館内の芭蕉像前にて
これは駅前広場に建つ像の原像だという。旅の記念に一緒に写真を撮ってもらった

上野市駅前広場に建つ芭蕉像
高い台の上に建つ大きな像である。私が見た芭蕉像のうちで最も大きなものである

御正宮を参拝したあと周辺の宮を巡った。途中に五十鈴川の川辺に下りてゆける場所があった。ここでは禊(みそぎ)などが行われるようだ。五十鈴川の水は清らかで、ちょうど川辺の紅葉も色づき水面に映えて美しかった。
一通りお宮を巡ったあと、私たちは内宮の前に広がる「おかげ横丁」を散策した。どこからこれだけの人がやってきたのかと思うくらい人の数が多い。一足先にもう正月の雰囲気だ。そういえば駐車場にたくさんの観光バスが並んでいたっけ。今日の予定はこれで終了。ホテルに到着したのは16:30頃だった。そのあと、ホテルのレストランで旅の完結を祝って二人で乾杯した。

元禄二年(1689)九月六日(陽暦十月十八日)、芭蕉は大垣の弟子たちに見送られ、曾良や木因とともに船で水門川を南下し、揖斐川に入った。この日は、伊勢長島の大智院という寺に泊まった。この寺の住職は曾良の叔父で、山中温泉で芭蕉と別れた曾良は大垣を経て、持病の治療のために、この寺に来ていたのである。
芭蕉はこれまでに何回か伊勢神宮に参拝している。奥の細道の旅の最後に伊勢神宮参拝を思い立ったのは、『伊勢の遷宮おがまんと・・』と本文にも記してあるように、式年遷宮を拝むためだった。よく知られているように伊勢神宮は20年ごとに建物の建て替えを行っている。芭蕉の訪れた年はちょうどこの式年遷宮の年に当たっていたのだ。



伊勢神宮式年遷宮について
次回の式年遷宮は、第62回で平成25年(2013)に行われる。これは正殿だけでなく、神宮内のすべての宮について行われ、敷地もすべて隣に確保されている。ところで、芭蕉が参加した1689年(元禄二年)の遷宮から2013年(平成二十五年)では20年毎の計算にあわないなと思うが、これは昭和24年に行われるべき遷宮が戦後の混乱で昭和28年に延期になったために狂いが生じたらしい。この回だけ24年ぶりに遷宮が行われたのだ。それにしてもこのようなシステムを考え出したこともすごいが、それが現在まで1200年以上も続いていることももっとすごい。

大垣までの旅が終わって3ヶ月たち、ホームページも大垣まで完成したので、私は伊勢、伊賀を巡る旅に出た。1泊2日の旅で、1日目は伊勢神宮を参拝したあと伊勢で宿泊。2日目は電車で伊賀上野へ行き、芭蕉関連の旧跡を見物して帰京の予定である。今回は旅の打ち上げと、出来上がったホームページのチェックなどをしてもらっている感謝の意味もこめて妻も同行した。

伊勢神宮外宮(げくう)参拝

12月8日、私たちは東京発8:46の新幹線で名古屋に向かった。天気のよい土曜日で、紅葉のシーズンでもあるので駅は結構混雑している。名古屋から近鉄特急に乗り換え、伊勢市駅に着いたのは12:11。ここから伊勢神宮の外宮(げくう)までは歩いて10分くらいである。
手水舎で手を洗い、大きな鳥居をくぐると玉砂利の静かな参道が続いている。参道を歩いてゆくと、ほどなく御正殿に着く。外宮は正式には豊受大神宮といい、天照大神の食事を司る神の「豊受大神(とようけおおかみ)」をお祀りしている。正殿は簾の間から垣間見る程度で、もちろん写真撮影は禁止である。われわれは鳥居の手前で記念の写真を撮ってもらった。これで旅の終わりを共有できた気がした。

旅の終わりは新しい旅のはじまり

芭蕉と同じように伊勢参拝をし、伊賀の生家まで訪ねてようやく私の「奥の細道」の旅も終わった。芭蕉の存在が強く感じられる伊賀の地を訪れてみて、もう少し芭蕉の旅のあとを追ってみたいなという気持ちが強くなった。芭蕉は生涯の多くの年月を旅の空で過ごした人だが、その中に「野ざらし紀行」というのがある。これは、江戸を出発したあと東海道を経て伊勢にいたり、故郷伊賀に戻ったあと奈良、近江を巡り、中山道、甲州街道を経て江戸に帰るという長大な旅である。幸い、私は東海道、中山道、甲州街道は既に歩いているので、奈良、近江地方の旅のあとをたどれば、この「野ざらし紀行」の旅もカバーできるのではないか。
私は帰りの新幹線の中で、とりとめもなくこのようなことを考えていた。ひとつの旅の終わりは新しい旅のはじまりである。

最後に、項を改めて旅の感想などをまとめました。こちらもどうぞご覧ください。


  


蓑虫庵玄関付近

蓑虫庵(庭から縁側を望む)

蓑虫庵(みのむしあん)

芭蕉生家を見学した後、外に出ると近くに食堂があったので昼食にした。12:30頃だった。昼食の後、最後の訪問地「蓑虫庵」に向かう。国道を上野市駅方面に戻り、駅の手前の広い通りを左に曲がる。これは銀座通りといい、広い通りの両側に新しいが古い面影を残した建物が建ち並んでいる。まっすぐに歩いてゆくとやがて「蓑虫庵」の案内表示板が現れ、それにしたがって行くと町の中に林に囲まれた静かな一角があり、それが目指す「蓑虫庵」だった。
蓑虫庵は芭蕉の伊賀上野における門人服部土芳の草庵で、元禄元年に入庵した。伊賀における芭蕉ゆかりの草庵は五つあったが、唯一現存しているのがこの蓑虫庵である。
庵号は、芭蕉が土芳に贈った「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」の句によるものと伝えられる。土芳は、この草庵にこもり、伊賀蕉門の中心人物として芭蕉の偉業を後世に伝えるための著作をしたという。建物や庭園はよく整備されており、ちょうど庭の紅葉がみごろだった。このあと私たちは最寄りの茅町駅に向かい、帰京の途についた。

芭蕉生家

上野城から元来た道を戻る。上野市駅の手前に線路に並行して広い道が通っている。これは国道163号線、かつての大和街道である。芭蕉の生家はこの街道沿いにある。通りに沿って歩いてゆくと、長い土塀が見え「史跡 芭蕉翁生誕の地」の石標が立っている。
芭蕉は正保元年(1644)、この場所に生まれた。父・与左衛門は半農半武士の無足人と呼ばれる低い身分で、兄半左衛門と姉、三人の妹がいた。芭蕉13歳のときに父が死に、兄が跡を継いだ。芭蕉は29歳で江戸に下るまでは主に伊賀上野で過ごしたようだ。
江戸に出て宗匠となった後も、芭蕉は幾度も故郷に帰省している。次の句は芭蕉が4回目に帰省した貞享4年(1687)の年末に詠んだものである。

     古里や臍の緒に泣く年の暮れ  芭蕉

城跡より内堀、周囲の山々を望む
上野城は藤堂高虎により大改修された。特に西側の防備のため深い堀、高い石垣を築いた。石垣の高さは30mあり、日本一の高さだという

上野城天守閣
この天守閣は昭和10年に上野文化産業城として再建されたものだという。当初のものとは形は違うようだがなかなか立派なものだ

上野城

俳聖殿からさらに少し歩くと上野城跡の広場に出る。中心にそびえる天守閣はなかなか立派なものである。この城は関ヶ原合戦の後、藤堂高虎が大改修を行った。このとき五層の天守閣を建てたが完成間近で大暴風雨にあって倒壊してしまい以後再建されなかった。現在の三層の天守閣は昭和10年になって再建されたものである。
上野城は大阪方に備えるために、西側の防備に力を注ぎ、深い内堀、外堀をはじめ、日本一高いといわれる30メートルの壮大な高石垣を築いた。この石垣は現在もほとんど完全な形で残されている。石垣の上から下の堀を見下ろすとその高さがよくわかる。城のある場所は盆地の中の独立丘陵で、周りの様子がよく見える。ちょうど紅葉の時期で遠くの山々が赤や黄で染まっている。夕日が当たればさらにすばらしい光景になるだろう。

俳聖殿内部に安置された芭蕉像
等身大の伊賀焼の坐像である。この坐像の小さなレプリカが私の部屋に飾ってある

俳聖殿
芭蕉の生誕300年を記念して昭和17年に建てられた。上層の屋根は芭蕉の笠、その下部が顔を、下層の屋根は蓑と衣を着た姿で、堂は脚部に、回廊の柱は杖と脚を表現している

伊賀上野散策

翌日は近鉄伊勢市発8:34の電車で伊賀上野に向かった。伊賀神戸で伊賀鉄道に乗り換え、上野市駅に着いたのは10時頃だった。駅のプラットフォームには忍者の人形がそこかしこに躍動的な姿で飾られている。伊賀といえば忍者、そしてもう一つがこの地の生んだ俳聖松尾芭蕉だ。上野市を訪れる観光客は忍者派と芭蕉派に分かれるようだ。
駅前に立ち、さてどちらへ行こうかと見ると、近くに観光案内所がある。散策マップでももらおうかと中に入ってみると、係りの人が親切に教えてくれた。まず、観光の目的を聞かれる。ここで忍者派か芭蕉派かを識別するようだ。私たちは芭蕉派であることを告げると、芭蕉に関する見所を親切丁寧に教えてくれた。
駅構内では忍者の姿が目に付くが、駅前広場には大きな芭蕉の像が建っている。私が今回の奥の細道の旅で見た芭蕉像のうちでは最も大きなものだ。さすが地元、意気込みが違う。まず、この像の前で写真を撮った。そのあと、案内所で教えられた道を通って芭蕉翁記念館、俳聖殿、上野城方面に向かった。


芭蕉翁記念館

坂道を登ってゆくと、まず芭蕉翁記念館が現れた。芭蕉関係で入場料が必要なのは、ここと芭蕉生家、蓑虫庵の3箇所で、全部回るなら共通券が750円でお徳である。
記念館に入ってすぐのところに大きな芭蕉像が建っている。これは駅前に建っている芭蕉像の原像だという。ちょうどよいので、この芭蕉さんと並んで写真を撮ってもらった。奥の細道の旅は芭蕉さんと一緒に旅をしてきたようなものなので、最後にこのように一緒に写真をとることができたのはうれしかった。記念館にはこのほか芭蕉真筆の短冊や遺物など貴重なものがたくさん展示されている。

おかげ横丁風景
昔から念願の伊勢詣でを果たした人達が、村へのお土産などを買い求めたのだろう。私たちが歩いたときもまるで正月のような賑わいだった

水清き五十鈴川
この場所で禊(みそぎ)なども行われる。会社の研修などで、ここで禊をした経験のある人もあるかもしれない

内宮(皇大神宮)御正宮前にて
写真撮影は石段の下でという注意書きがあったので、この場所での撮影となった

伊勢神宮内宮への参道入口
この鳥居をくぐり、木造の宇治橋で五十鈴川を渡り参道に入る。外宮より人の数がずっと多い

伊勢神宮内宮(ないくう)参拝

外宮を一通り巡ったあと、われわれはバスで内宮に向かった。バス停は外宮のすぐ前にあり、15分くらいで内宮前に着く。14時近くなり、おなかもすいたので内宮前の食堂で昼食にする。おなかもいっぱいになり、元気に参拝をはじめる。まず、宇治橋という木造の橋で五十鈴川を渡る。川を渡ったところから玉砂利の参道が続いている。一の鳥居、二の鳥居を過ぎ、一番奥に御正宮がある。
伊勢内宮(ないくう)は、正式には皇大神宮といい、皇室の祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)をお祀りしている。神宮は五十鈴川の川上に千古の森に囲まれて、古代のたたずまいを今日に伝えている。

外宮御正殿前にて
旅の終わりではじめて二人そろった写真を撮ってもらった

伊勢神宮外宮一の鳥居
伊勢神宮でいちばん最初の鳥居である。長い距離を歩いてきた昔の参拝者は、さぞかし感激しながらくぐったことだろう