県道31号線

赤坂宿

東海道本線

 中山道
国道21号線

美濃路

美濃赤坂駅

垂井駅

国道21号線

国道21号線

垂井宿

垂井追分道標

中山道

美濃路

住吉燈台

奥の細道
むすびの地

大垣

大垣駅

関ヶ原から大垣
奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

「南いせ」道標と芭蕉送別連句塚
一番奥に建っているのが「送別連句塚」である。「霧晴れぬしばらく岸に立ちたまえ」と芭蕉をひと時でも引きとめようとする如行の句に対し、芭蕉も「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ」と、別れを惜しみつつ、伊勢二見への新たな旅の決意を示している

芭蕉と木因像
大垣に着いた芭蕉を迎える木因。木因は若い頃から芭蕉と親交が深かった

奥の細道むすびの地 (船町港跡)

八月二十日(陽暦十月三日)、芭蕉は水門川舟運の拠点、船町港に着いた。そこにはかつて京の北村季吟のもとでともに俳句を学んだ谷木因が待っていた。木因は芭蕉より二つ年下で、大垣で船問屋を営んでいた。芭蕉にとっては大垣来遊は4回目になる。この頃には既に美濃、尾張に蕉風の俳句は根付いていた。芭蕉にとって安心の地、大垣こそが旅の結びにふさわしかったのである。
大垣に着いた芭蕉は、門人の大垣藩士近藤如行の家に泊まった。芭蕉を出迎えた門人たちの様子を芭蕉は本文の中で、『したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且(かつ)悦(よろこ)び、且いたはる。』と記している。芭蕉は大垣に2週間あまり留まり、伊勢長島から戻った曾良とともに旅の疲れを癒すことができた。
九月六日(陽暦十月十八日)、芭蕉は伊勢神宮の御遷宮を拝むため、曾良と路通を同伴者として、水門川の船町港から出船した。水門川は下流で揖斐川に合流し、舟で伊勢に達することができたのである。現在、船町港跡は史跡として整備され、川運の灯台として使用された「住吉燈台」が残されている。また、付近は「奥の細道むすびの地」として芭蕉関連の像や碑が建てられている。芭蕉が大垣を立つときに門人たちと連句のやり取りをした。ここにはそのときの句を刻んだ送別連句塚もある。

最終目的地付近の大通りの様子
大通りの左側を歩いてゆくと「奥の細道むすびの地 住吉灯台」の案内板が現れる。目的地はあと50mくらい先だ

美濃路(県道31号線)沿いに残る古い家
現在の美濃路(剣道31号線)は広い自動車道路だが、道の両側には古い民家やお寺なども散見される

昼食もすみ、いよいよ最終目的地に向かって歩を進める。通り沿いには古い造りの商家なども散見されるようになる。通りの左側を歩いてゆくと「奥の細道むすびの地 住吉灯台」という案内板が現れた。いよいよ、あと50mほど先が最終目的地だ。

中山道と美濃路の追分
現在の追分では美濃路のほうがメインの道路になっている。古い道標も建っているがわかりにくいので、大きな道路標識を目印にしたほうがよい

相川の人足渡跡
相川は昔から暴れ川で、たびたび洪水があった。そのため江戸時代初期には人足渡しによる渡川が主だった。川越人足は百姓が勤め、渡川時の水量により渡賃が決められていた

垂井宿旧道の様子
左手の古い家は油屋卯吉の家で、当時は多くの人を雇い油商売を営んでいた

本龍寺
山門は明治初期に脇本陣の門を移築した。境内には文化6年(1809)建立の「作り木の」の句碑や安政2年(1855)に建てられた時雨庵などがある

日守の茶屋
江戸末期に芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)に建てられた建物を明治になってこの場所に移し、中山道を通る旅人の茶屋として利用された

 垂井一里塚 (国指定史跡)
これぞ本物の一里塚といった感じの立派なものである。中山道の一里塚で国指定史跡となっているのは、ここのほかに東京志村の一里塚の2箇所のみである

旧道が国道と合流する付近(新日守信号)
5年前にここを通ったときには、この国道のバイパス工事中で、付近は雑然としていた
この信号の先で中山道旧道は右にゆるく分かれてゆく

中山道旧道の様子
道には敷石がしかれ、道の両側には松並木が続く。途中にベンチや東屋などもあるので休憩などもできる。気持ちのよい道だ

国道21号線を進んでゆくと、やがて右側道路脇に「桃配山 徳川家康最初陣地」の大きな看板が見えてくる。看板脇の坂を登ってゆくと、少し先に「史蹟 関ヶ原古戦場 徳川家康最初陣地」の大きな石標が建っている。

国史跡 家康最初陣地 (説明板より)
慶長五年九月十五日未明に、家康の配下三万余は、ここ桃配山周辺に陣取り、家康はこの山頂において指揮に当たりました。最後の陣地に移るまで、各陣営からの報告をもとに、しきりと作戦会議が開かれたと思われます。ここにある二つの岩は、家康がその折にテーブルと腰掛に使用したと伝えられています。

芭蕉が北国脇往還を経て関ヶ原に入ったのは、元禄二年(1689)八月十九日(陽暦十月二日)か翌日のことと思われる。芭蕉は関ヶ原には何度も来ている。貞享元年(1684)には「野ざらし紀行」の途次、二度も関ヶ原を通っている。伊賀に生まれた芭蕉にとって伊勢、尾張、南近江、美濃は頻繁に行き来した我家の庭のような場所である。美濃に入ったことで、芭蕉は「旅の終わり」を実感したことだろう。
関ヶ原は、日本史を変える大きな戦いの舞台に二度なっている。一つは672年に起きた壬申の乱であり、もうひとつは1600年に起きた関ヶ原の合戦である。しかし、芭蕉にとって千年以上前の壬申の乱はあまりに遠く、百年も経たない関ヶ原の合戦はあまりに生々しすぎた。芭蕉は何度も関ヶ原を通りながら、二つの合戦については何も語ってはいない。

芭蕉・木因遺跡 (説明板より)
俳聖松尾芭蕉の大垣来遊(4回)は、俳友谷木因をはじめとして大垣俳人を訪ねてのことである。
木因は芭蕉と同門で北村季吟から俳諧を学んだ。そのため、芭蕉とは親交が深く、大垣藩士近藤如行ら多くの俳人を芭蕉門下とした。
元禄7年(1694)、芭蕉が大坂にて病没すると如行らはこれを深く悼み、正覚寺に路通筆「芭蕉翁」追悼碑を建てた。さらに、木因の死後芭蕉と木因の親交を偲び、木因碑を建て「芭蕉・木因遺跡」とした。

私が「むすびの地」に着いたとき、ちょうど団体の見学客がやってきた。感慨にふける雰囲気でもないので周囲を巡って写真を撮ってからすぐに歩きはじめた。川に沿って歩いてゆくと「奥の細道むすびの地記念館」というのがあったので入ってみた。ここに奥の細道の全行程図がかかげられていた。ここで、先ほどからどうしても思い出せなかった地名がようやく分かった。「黒羽」である。全行程中で芭蕉が最も長く滞在した土地の名前を忘れるとは情けないと芭蕉に笑われそうだ。しかし、これで私の気分もすっきりした。記念館から市街地を通って大垣駅に着いたのが15:20ころ。名古屋から16:10発の新幹線に乗り東京に向かった。車中でビールを飲み、もう一度はじめからゆっくりと旅の情景を思い返した。そのうち快い眠りに誘われ、目が覚めると列車は小田原辺りを通過していた。

以上で私の「奥の細道歩き旅」は終わりです。しかし、この紀行文を作成しているうちに、最後は伊勢神宮の参詣と芭蕉の生誕地である伊賀上野を訪問して締めくくろうという気持ちになりました。というわけで、次回は伊勢神宮、伊賀をめぐります。

船町港跡 (大垣市指定史跡)
船町港は、江戸時代kら明治時代にかけて大垣城下と伊勢を結ぶ運河「水門川」の河港で、物資の集散と人の往来の中心であった。明治18年には、大垣〜桑名間に蒸気船が就航したが、鉄道の発達に伴い衰退した

住吉燈台 (岐阜県指定史跡)
元禄年間前後に港の標識と夜間の目印のために建てられた。高さは約8m

大垣

旅の思い出にふけっているうちに大垣の市街地に入ってきた。この辺りからは地図や案内標識の確認をしなければならないので忙しくなる。むすびの地に至る途中に、正覚寺というのがあり、そこに芭蕉塚があるというので、まずそのお寺を探しながら歩いた。大通りの右側を歩いてゆくと民家の脇に「芭蕉・木因遺跡」という石標があり、説明板が立っている。正覚寺はこの標柱の奥にある小さなお寺だった。はじめ分からずに通りすぎ、人に聞いてここまで戻ってようやく見つけることができた。このお寺の狭い境内に「芭蕉塚」という古い石碑が建っている。これは元禄7年(1694)、芭蕉没後百日目の追善法要として大垣の俳人らが建てたものだという。
時計を見ると13:40になっている。ここまで適当な場所がなく、まだ昼食をとっていないので、近くの石に座って昼食にした。

「大垣まで6Km」標識のある辺り
あとはこの道をまっすぐに進めばよい。これまでのことを思い返しながら歩くにはちょうどよい道だ

美濃路の松並木
松並木が続き、「この道は美濃路」という案内表示も出ている。車の通る舗装道だが、昔の面影は残っている

追分から先の美濃路は、結構車の多い県道となっている。しばらくすると松並木が現れ、昔の街道の面影を残している。さらに道なりに進んでゆくと、やがて国道21号線と交差する綾戸口交差点に出る。国道を横断すると、県道31号線がまっすぐに大垣までのびている。
県道をタンタンと進んでゆくと、「大垣まで6Km」の大きな道路標識が見えた。私はこれを見てはじめて「ああ、もう大垣だ」と実感した。千住を出たのが3年前。歩きついで、今ようやく目的地に到達しようとしている。私は少し歩調をゆるめ、これまでの長かった道のりを歩いた順に思い返してみた。
千住から日光を経て大田原までたどって、さて、次はどこだっけと考えたら、これが思い出せない。場所のイメージは浮かんでくるのだが、地名が思い出せない。何とか「黒・・」まで思い出したのだが、出てこないので飛ばして次に進む。白河の関を過ぎ、福島を通り仙台、松島、平泉まで到達するまでには相当時間がかかった。現在歩いている道はまっすぐな一本道なので、思い出に没頭していても道を間違える心配はない。
奥羽山地を横断する行程は何かと思い出深い。岩出山の手前で日が暮れて助けを求めたことなど今となっては懐かしい。羽黒山、月山も楽しい思い出だ。日本海側に到達してからは、時期的に新しいせいか、比較的順調に地名とイメージを思い出すことができた。象潟から敦賀まで日本海沿いに歩くことができたということは貴重な経験だと思う。各地での日本海のイメージが浮かんでくる。こうなると、敦賀から先の日本海沿いの本州西半分も歩いてみたいな、などという気持ちもわいてくる。

垂井から大垣へ

垂井宿は西の見付から東の見付まで約766メートルにわたって続いている。東見付のすぐ先は川になっており、「相川の人足渡跡」という立て札がある。橋を渡って少し行くと追分の道標が立っている。ここをまっすぐ行くのが中山道、右に曲がるのが美濃路である。大垣へ出るにはここを右に曲がって美濃路を行く。ここから先は私も未知の道である。

見付の少し先に本龍寺というお寺がある。芭蕉は俳人でもある住職の規外を訪ねてしばらく逗留したことがあり、『作り木の庭をいさめるしぐれ哉』などの句を詠んでいる。「奥の細道」の旅でもこのお寺の前を通っているはずだが特にふれてはいない。旧道筋には古い建物が残されており、主なものには説明板が立てられている。

垂井宿

中山道旧道は再び国道21号線を横切り、東海道本線の踏切を渡る。これから先まっすぐに続く旧道は、古い街道の面影がよく残された道である。私は5年前にこの道を逆方向に歩いてきたが、そのころと様子はまったく変わっていない。やがて「垂井宿」の標柱と説明板の立つ場所に出る。ここは垂井宿の西の見付のあった場所で、安藤広重がこの付近から西を見て描いた版画が有名である。

桃配山の家康最初の陣地を見学したあと、私は国道とほぼ並行して残っている旧道を歩いた。旧道は松並木が続き、かつての面影が残されている。旧道はしばらく続いたあと国道に合流する。現在この地点で国道のバイパスが分岐しているが、私が5年前に歩いたときにはちょうどこのバイパスの工事をやっていた。この辺りの様子はまったく変わっている。
史蹟 関ヶ原古戦場 徳川家康最初陣地
山の上には大きな石標が建っている。脇に説明板があり、その前に手ごろな岩が二つ並んでいる。家康はこの岩をテーブルと腰掛に使用したと伝えられる
桃配山 徳川家康最初陣地
国道21号線の脇に大きな看板が建っている。この山の上に家康は最初の陣地を置いた
桃配山の名は、壬申の乱の際この付近に陣をしいた大海人皇子が村人に頼んで全軍兵士に山桃を配ったことからこのように呼ばれるようになったという

関ヶ原

2007年9月11日朝8時半ごろ、私は関ヶ原駅に着いた。今日はいよいよ私の「奥の細道歩き旅」の最後の日である。私は2002年12月2日に「中山道歩き旅」で、この関ヶ原を通った。このときは中山道の赤坂宿から関ヶ原を通って柏原宿まで歩いている。あれからもう5年近く経っているが、関ヶ原周辺のことはよく覚えている。駅前から線路に沿って少し歩き、線路を陸橋で越えると、そこはもう合戦の遺跡が目白押しに並んでいる。私は、東首塚から家康の最後の陣地まで行き、そこから国道365号線(北国脇往還)に出た。

関が原から垂井へ

私は北国脇往還(国道365号線)を歩いている。JR東海道本線の線路を陸橋で越えると街道の交差点、関ヶ原西信号が見えてくる。この交差点を左右に貫いているのは中山道、現在の国道21号線である。北国脇街道はここで中山道に合流し、ここからは新たに伊勢街道として桑名までのびていた。現在は国道365号線としてそのまま四日市方面に続いている。芭蕉はここで左に曲がり中山道に入った。中山道を垂井宿まで進み、そこで美濃道に入り最後の目的地、大垣に向かうのである。私もこの交差点で左に曲がり国道21号線を進む。

関ヶ原 東首塚
家康が実検した首をここに葬った。近くには首を洗った古井戸も残っている

徳川家康最後の陣地
合戦の最後には家康は激戦地に近いこの場所まで本陣をすすめた。合戦のあと、この場所で首実検を行った

関ヶ原

関ヶ原駅

北国脇往還

伊勢街道

国道365号線

東海道本線

中山道

垂井一里塚、日守の茶屋あと

新日守信号の少し先で旧道が右手にゆるく分かれてゆく。この旧道沿いに「国史跡 垂井一里塚」がある。この一里塚は南側の一基だけがほぼ完全に残り、国の史跡に指定されている。中山道には、国指定一里塚が二つあり、これはそのひとつで貴重なものである。
一里塚の隣に「日守の茶屋」の建物が残っている。これは芭蕉ゆかりの地に建てられていた秋風庵という建物を明治になってからこの場所に移し、中山道を通る人々の休み場として利用されたという。

国道21号線関ヶ原駅前信号付近
「中山道歩き旅」のとき、この近くの食堂で昼食にしたことを思い出した

国道365号線関ヶ原西信号付近
ここで国道21号線と交差する。21号線はかつての中山道であり、365号線はここまでが北国脇街道、ここから先が伊勢街道となっていた

広重画の説明
広重は雨がそぼ降る中を西から垂井宿に入ろうとする大名行列を真正面からとらえている。松並木の連なる中山道が垂井宿に入りかけたところの両側に石垣が見える。これを見付といい、城の城門をまねて宿場の入口に設けたものである。羽織袴の宿役人が傘をさしてここまで出迎えに出ている
行列の先頭を切って、蓑を着た先払いの二人が「したぁにー、したぁにー」と唱えながら見付を入ってくる。居合わせた人々は外で土下座して迎える

木曽街道六拾九次之内 垂井 (広重画)

中山道垂井宿 西見付付近

「史跡 芭蕉・木因遺跡」標柱
正覚寺の入口に立っているが、ここからはお寺は見えず、遺跡の場所はわかりにくい

正覚寺の「芭蕉塚」 (中央の古い碑)
路通の筆で「芭蕉塚」と刻まれている。元禄7年(1694)芭蕉没後百日目の追善法要に際し、大垣の俳人らによって建てられたという