今日(6月5日)は、壬生道(国道352号線)を壬生から鹿沼を経て今市まで歩く。今市で日光街道と再び合流するまで約38Kmの行程である。今市では長大な杉並木街道を歩く。

例幣使杉並木街道の標識
ここから杉並木の道が始まる。道の反対側には杉並木寄進碑が建っている。ちょうどその場所から今市市になる

杉並木寄進の碑(今市市山口)
神橋畔を起点として日光街道、例幣使街道、会津西街道の杉並木が切れる箇所に同じ石碑が建てられた。これから先は日光東照宮の神領となった

壬生宿

東武日光線の壬生駅には9:35に着いた。電車の人身事故の影響で、予定より40分近く遅れての到着である。
壬生駅前をまっすぐに行くと、すぐに壬生のメイン通りに出る。この辺が壬生宿の中心であった。通りには古い家もいくつか残り、かつての宿場の面影を幾分残している。壬生は古くは壬生氏の城下町であったが、北条氏に与し秀吉の小田原攻めの際に敗れ滅亡した。江戸時代には近江から鳥居氏が入り明治まで続いた。

杉並木の手前の杉並木
歴史的杉並木の少し手前から並木に杉が多くなり、杉並木街道が近づいたことを感じさせる

素朴な歩道と並木
御成橋の先はこのような並木の道が長く続く

御成橋から見た黒川
江戸時代にもこの川には土橋がかけられていたという

壬生から楡木(にれぎ)へ

壬生通りをしばらく行くと、国道352号線にぶつかる。これから今市まで、この国道を歩くことになる。国道を少し歩いたところに壬生寺がある。ここは、慈覚大師円仁の誕生地である。そこからさらに2Kmくらい歩き、北関東自動車道を越えた先の田圃の中に「金売り吉次の墓」がある。義経が頼朝と不仲になって平泉に逃げたのち、後を追った吉次がここで亡くなり、村人がここに葬ったという。今は丸い石を二つ重ねただけのものだが、昔は塚になっていたらしい。曾良の旅日記の中にも「ミブヨリ半道バカリ行キテ、吉次ガ塚、右ノ方二十間バカリ畠中ニ有」と記されている。

金売り吉次の墓
田圃の中にポツンと残されているお墓。吉次は義経を追ってここまできて亡くなったという

慈覚大師誕生の地、壬生寺
慈覚大師円仁は最澄に師事し、唐に留学後、比叡山の天台座主になった。また、各地を行脚し平泉の中尊寺などを開基した

坦々と国道を歩く。国道といっても適当に田園が広がり、交通量もそれほど多くはないのでリズミカルな歩調でタンタン・ウォークを続ける。やがて、左の畠の中に小さな古墳のようなものが見えてきた。これは判官塚といい、義経が平泉に逃れる際、追手を避けるためこの塚の穴に隠れたという伝説があるらしい。そこから少し行くと、北赤塚の一里塚がある。江戸から25里目の塚だという。この塚のところから坂道になっていて、説明標識がなければ、気がつかないで通り過ぎてしまいそうだ。
その坂道を登りきった一帯は判官台と呼ばれている。この辺には、判官義経にちなんだ伝説がいくつか残っているが、壬生町や鹿沼市の研究者の話では昔の奥州街道はこのあたりを通っていたらしい。

奥の細道歩き旅

鳥居跡
鎌倉時代、源頼朝が日光神領として押原66郷を寄進し、ゆかりのこの地に遠鳥居が建てられたという。この辺の地名にもなっている

鹿沼宿入口(新鹿沼駅前信号)
鹿沼宿はここで2本の並行した道に分かれている。内町通りと田町通りがそれで、昔は二つの通りで宿場機能を交代していた

鹿沼から杉並木寄進碑へ

やがて鹿沼宿も宿はずれとなり、黒川を御成橋で渡る。江戸時代にもここには土橋がかけられていたようだ。橋を渡ると道は上り坂となり、素朴な歩道と並木に囲まれた快適な道となる。次第に並木に杉が目立つようになると日光杉並木がはじまる地点、杉並木寄進碑までは近い。

高台を通っていた街道は次第に下り始め、東北自動車道の下をくぐると楡木(にれぎ)町に入ってゆく。ここで壬生道(国道352号線)は、日光例幣使(れいへいし)街道(国道293号線)と合流する。例幣使街道は、倉賀野で中山道から分岐した後ここで壬生道と合流し、さらに今市で日光街道に合流して日光に向かう。私は4年前に、中山道の倉賀野でこの例幣使街道を見送った記憶がある。4年前に別れた古い友人に再会するような気がした。
なお、例幣使街道は、朝廷からの使者が日光東照宮へ参詣する際に利用する道として整備されたものである。

北赤塚の一里塚
江戸からちょうど25里の一里塚だという

判官塚
今見ると小さな古墳のようにしか見えないが、昔からいろいろな伝説があるようだ

楡木の追分交差点
ここで国道352号線(壬生道)と253号線(日光例幣使街道)が合流する。(右側が例幣使街道)

日光例幣使街道との合流標識盤
例幣使街道とは中山道の倉賀野で別れて以来4年ぶりの再会となる

楡木(にれぎ)から鹿沼へ

合流した後は両国道の名前が並べて表示されている。つまりこの道は、壬生道でもあり日光例幣使街道でもあるのだ。お互いに名前を譲らないようでおかしい。楡木は宿場町であったが、昔の名残はほとんどない。昔、百姓家に大きな楡の木があったので、楡木と呼ばれるようになったというが、今ではどこにあったかもわからなくなっている。近くに東武日光線の楡木駅があり、街道沿いには家並が長く続いている。
街道脇に、奈佐原神社入口という案内板があった。時計を見ると12:20.ちょうどよい時間なのでこの場所を借りて昼食にする。街道から少し入ったところで、周りには畠が広がっており、農作業をする人の姿が見えた。おなかもいっぱいになり、また元気に歩き始める。
楡木から鹿沼までは、東武日光線が街道に並行して走っており、街道の家並は途絶えることなく続いている。

鹿沼宿

やがて道は新鹿沼駅前信号に差し掛かる。ここで街道は二手に分かれる。国道は左側の道だが右側の道も宿場通りで、昔の宿場の施設はこの2本の道沿いにあった。しかも、街道沿いの二つの町が月の途中で問屋場の機能を交代したという珍しい宿場だった。宿場入口の街道脇に小さな祠がある。「史跡 鳥居跡」という説明板があり、鎌倉時代この場所に日光山遠鳥居が建てられ、のち、その跡が地名となって「鳥居跡」となったという。
鹿沼の町は街道沿いに長く続いている。なんとなく雑然とした賑わいのある町だ。ところどころに古い家も残っている。芭蕉は、第3泊目の宿をここ鹿沼宿にとっている。

杉並木寄進碑

前方に「例幣使杉並木街道」の標識と今市市の境界標識が現れた。道の反対側に「並木寄進碑」が建っている。この石碑には、松平正綱が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記されている。
日光への各街道には、二十余年の歳月をかけて約20万本の杉並木が植えられた。全長35.4Kmにも及ぶ並木道は、ギネスブックにも登録されているという。

例幣使杉並木街道を通って文挟(ふばさみ)へ

現代の杉並木街道は自動車が主役である。立派な杉の茂った街道をかなりのスピードで走り抜けてゆく。でも、ご心配なく。車道よりも一段高くなった場所に自然のままの歩道が設けられており、ハイキング気分で歩くことができる。憧れの杉並木街道をワクワクしながら歩く。ワクワク・ウォークである。でも、本当は車の通っているあの道を歩きたいんだよなあ。昔の人が歩いたように。

杉並木の歩道
車道より高い場所に歩道が設けられている。ハイキング気分で歩ける快適な道だ

例幣使杉並木街道の様子
メインの通りは車が主役で人は歩けない

快適な道が続き、やがて道の反対側に小さな塚が見えてくる。これは小倉の一里塚である。次第に杉並木街道にJR日光線の線路が近づいてきて、林の向こうに電車の音が聞こえる。歩道が途切れて、歩行者用の信号を渡ると文挟(ふばさみ)駅がある。杉並木寄進碑から駅まで約2.5Km、この間ずっと立派な杉並木が続き、自然歩道で快適なウォーキングが楽しめる。

JR日光線文挟(ふばさみ)駅
自然の歩道はいったん途切れ、横断歩道を渡ると駅に出る。駅前には何もない

小倉の一里塚
説明版がたっていなければ気がつかないで通り過ぎてしまいそうだが、江戸から26里目の一里塚だという

杉並木街道を文挟から板橋へ

駅から先の街道には車道脇に歩道が設けられ、杉並木自体もいったん途切れて普通の町並みになる。文挟(ふばさみ)は宿場町であったがその面影は残っていない。町並みがしばらく続いた後、再び杉並木街道になる。街道脇には保護区域を示す表示板が立てられている。町並みのあるところは普通地域、杉並木のある区域が保護区域あるいは特別保護区域に指定されている。街道のほとんどが特別保護区域か保護区域である。
自然歩道はだんだんと細くわかりにくくなってくるが、まだ何とか続いている。やがて、「例幣使街道 板橋」の白い表示杭が杉並木の間に現れ、板橋宿の町並みに入ってゆく。文挟から板橋までは約4.5Kmである。

やがてJR日光線の踏切が現れ、その少し先に日光街道との合流を示す道路標示版が見えてきた。ようやく今市宿に到着したのだ。板橋から今市まで約6.5Km。この区間の半分くらいはビクビク・ウォークだった気がするが、かなりのスピードで歩きとおした。おかげで、JR今市駅には予定していたよりもかなり早く、17:55に到着した。今日はよく歩いた。

杉並木街道を板橋から今市へ

板橋で杉並木は途切れ、普通の町並みとなる。板橋も宿場町だったがここも面影はまったくない。町並みをしばらく歩くと再び杉並木の特別保護地域になる。はじめのうちは細いながらも今までのような自然歩道があったが、そのうちまったく途切れてしまい車道を歩かざるを得なくなる。昔の人と同じ目線で歩けるのはよいのだが、車道には歩道が設けられているわけではないので、車にビクビクしながら歩くことになる。そのうち、車道の幅も狭くなり、見通しも悪いのでいっそう恐怖感が増す。だんだんと、杉並木街道はもういいから、早く町並みに出てほしいと思うようになってしまった。

細くなった自然歩道
自然歩道は次第に細く、わかりにくくなってくる。それでも板橋までは何とか続いている

保護区域を示す表示板
町並みを抜けると再び特別保護地域になる

文挟(ふばさみ)宿の様子
文挟駅の先で杉並木がいったん途絶えて普通の町並みとなる。かつての文挟宿である

板橋の先の杉並木街道A
道幅が狭くなり、いっそう恐怖感が増す

板橋の先の杉並木街道@
自然歩道が途切れ、歩道なき車道を歩くようになる

板橋信号付近
板橋宿で杉並木は途切れる。宿場の名残はまったくない

(総行程 約38Km)





JR今市駅

今市市街風景

日光街道との合流点

奈佐原神社
小さな神社で人もいなかったので、境内で弁当をつかわせてもらった

楡木町の国道293,352号線
かつての壬生道、日光例幣使街道が並存している

壬生宿A 古い構えの商店

壬生宿@ 立派な門のある家

壬生宿の中心部の様子
「壬生藩医学の街 蘭学通り」という垂幕がかかっている。蘭学が盛んだったのだろう

鹿沼宿B 宿場の名残のある家

鹿沼宿A 天神町付近

鹿沼宿@ 久保町付近

奥の細道歩き旅 第2回