奥の細道歩き旅 第2回

小谷寺
小谷山の麓に建つ小さなお寺。浅井家の祈願所となっていた

国道365号線、小谷城跡案内標識付近
左手一帯は山になっており、その山の上に小谷城が築かれていた

奥の細道歩き旅 白石〜槻木

芭蕉は木之本から北国脇往還を通って関ヶ原に向かった。北国脇往還は現在の国道365号線にほぼ沿っている。関ヶ原で中山道に合流するので、北陸、北近江から岐阜、名古屋、江戸方面に出るためによく使われた。芭蕉は長かった旅を思い出しながら、あるときは馬の背にゆられながらのんびりと進んだのだろう。

木之本、朝の街道

私は木之本の宿(草野旅館)を8時頃出発した。宿から木之本地蔵院に出れば、その前を通る道が旧北国街道である。旧街道の町並みは約1Kmくらい続いており、地蔵院はちょうどその真中あたりにある。私は地蔵院に寄って、手を合わせてから街道を歩き始めた。朝の街道は静かである。
まっすぐ進んでゆくと道はT字路になり、ここで二手に分かれる。私はここを左に曲がって北国脇往還に入り、関ヶ原に向かう。右に曲がると北国街道で、長浜、彦根を通り鳥居宿で中山道と合流する。

国道脇より伊吹山を望む
頂上付近は雲に隠れて見えないが、近くで見る伊吹山はやはり雄大だ

旧道が国道と合流する地点(藤川信号)
伊吹山麓を通ってきた旧道はここで国道と合流する

木之本から渡岸寺(どがんじ)へ

分岐点を左に曲がってまっすぐ行くと信号があり、これを右に曲がると国道365号線に出ることができる。田園風景の広がる国道をタンタンと歩いてゆくと、やがて高月町に入ってゆく。その少し先の国道脇に「国宝十一面観音菩薩 渡岸寺観音堂(向源寺)」という大きな案内標識が出ていた。私の事前の見学リストからはもれていたのだが、「国宝」の字に引かれて立ち寄ることにした。案内標識に従い右に曲がって少し行くと、「観音の里歴史民俗資料館」という立派な建物が建っている。このあたりを含む琵琶湖北部の湖北地区には、平安から鎌倉時代に造られた数多くの仏像が寺やお堂に安置され、「観音の里」と称されている。この資料館の前にこの「観音の里」の全体の大きな案内地図が出ている。国宝十一面観音の安置されている観音堂(向源寺)はすぐ近くである。このあたりの地名は渡岸寺(どがんじ)なので、通称渡岸寺観音堂といわれる。

十一面観世音菩薩 (パンフレットより)
頭上に十または十一の小面を持つ変化観音で、十一体の観音のはたらきを一身に具現したものと考えてよいでしょう。その成立の根拠には異説が多く定説となるものはありませんが、シヴァ神の異名である十一最勝神との交渉により、多面に亘る救済化益の観音として説かれたものと思われます。その十一面は前三面が慈悲相、左三面が瞋怒相(しんぬそう)
右三面狗牙上出相、後一面暴悪大笑相、頂上にある一仏面の如来相をいいます。

小谷(おだに)城跡へ

渡岸寺から国道に戻り先を続ける。道の両側には田園が広がり、やがて左側に山が近づいてくる。戦国の武将浅井家三代の居城のあった小谷山である。国道脇に小谷城跡、小谷寺の案内標識が出ているので、標識にしたがって進む。浅井家の祈願所であった小谷寺は、山のふもとの林の中にあった。ちょうどこのお寺に着いた頃、にわか雨が降ってきた。近くに東屋があったので、雨宿りかたがた昼食とした。11:40頃だった。

野村橋より姉川合戦跡を望む
元亀元年(1570)6月28日、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍はこの場所で戦った
遠くには小谷山も見える

野村橋北詰の「姉川古戦場跡」碑付近の様子
野村橋北詰の道路わきに「姉川戦死者之碑」「元亀庚午古戦場」石碑、説明板などが建てられている

山間部を行く国道365号線
このあたりも大型トラックの通行が多く、人の通る道ではない

国道365号線春照西信号付近
国道には北陸自動車道を降りた大型トラックが多くなる。歩行者スペースはほとんどないので恐ろしい。このあたりで左に曲がって旧道筋に入るべきだった

笹尾山ふもとの竹矢来
山への侵入を防ぐため、竹矢来が二重に設置されていた。この辺りには猛将・島左近が陣取ったという

笹尾山登り口付近の様子
登り口付近にはあちこちに石田三成の旗印が立てられている。

▲小谷城跡

向源寺

姉川古戦場

姉川

国道365号線
(北国脇往還)

北陸本線

国道8号線
(北国街道)

木之本

木之本から関ヶ原

春照

国道21号線

東海道本線

国道365号線

関ヶ原古戦場

関ヶ原

(北国脇往還)

「国史跡 関ヶ原古戦場 決戦地」 (説明板より)
西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら四隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。
小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮き足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。

しばらく古戦場の中の道を進んだあと国道に出て、JR関ヶ原駅に向かった。今日はここから電車で大垣まで行き、駅前のビジネスホテルに泊まる予定である。関ヶ原の駅に着いたのは17時半頃、大垣のホテルに着いたのは18時頃だった。

渡岸寺観音堂(向源寺)

向源寺の山門脇には「国寶観世音」の大きな石標が建っている。山門を入って正面に本堂、左手少し離れたところに新しいお堂(収蔵庫)が建っている。国宝十一面観音は昭和49年に、それまで安置されていた小さなお堂から防火設備の整った現在のお堂(収蔵庫)に移された。

昼食も終わり、雨も上がったので再び歩き始める。道からは小谷山が目の前にそびえる。あの山の上に城郭があったのだ。城跡は山の頂上にあり、車の通れる道がついているが、歩いてゆくには相当時間がかかりそうなので山への登り口までで引き返した。
浅井家は三代、50年あまりで滅んでしまったが、長政とお市の方(信長の妹)との間に生まれた3人の姫は、成人して、長女の茶々は豊臣秀吉の側室(淀君)となり、次女の於初(おはつ)は大津城主京極高次に嫁ぎ、三女の於江(おごう)は徳川二代将軍秀忠の夫人となって家光などを産んだ。司馬遼太郎に言わせれば、『北近江の山城で閨室を共にした若い長政、お市という夫婦は、その血液でもって日本史に参加した』ということになる。

姉川古戦場へ

国道に戻り先を続ける。タンタンと歩いてゆくと、やがて国道は姉川を渡る。国道の橋は新しいもので、周りには石碑の類はなにもない。少し離れた上流側に古い橋が架かっているので、少し戻ってそちらの橋に向かう。この橋は野村橋といい、かつては国道が通っていたが、現在は通る車は少ない。橋の北詰に「姉川古戦場跡」の大きな看板が立っており、その脇には各種石碑、説明板などが建てられている。私は橋の上から古戦場跡を眺めた。
元亀元年(1570)、この川は血に染まったという。この姉川をはさんで北(写真右側)に陣取る浅井、朝倉連合軍は約1万8千人、かたや南に織田、徳川連合軍は約2万8千人だった。戦いは午前5時頃に始まり、午後2時頃には終わった。はじめ浅井側有利に進んだが、やがて逆転し、ついに浅井・朝倉軍は小谷城に敗走した。その後、一時和議が成立したが、天正元年(1573)8月、浅井氏は小谷城において滅んだ。

春照(すいじょう)を経て関ヶ原へ

北国脇往還はこのあと春照(すいじょう)宿を経て関ヶ原に向かうのだが、現在の国道365号線は、昔の道筋とは少し離れるようだ。旧道筋がわかりにくかったので、私はそのまま国道を進んだのだが、長浜市に入ってから国道を通る大型トラックの数が多くなってきた。北陸自動車道の長浜インターを降りた車がこの国道に流れ込んでくるらしい。国道に歩行者スペースはほとんどないので恐ろしい。この区間は地図をしっかり用意して、時間はかかっても旧道をたどるべきだ。芭蕉の宿泊した春照宿の跡も旧道筋には残っているはずだ。

関ヶ原古戦場

やがて街道は関ヶ原町に入ってゆく。街道脇に「笹尾山石田三成陣地」への案内表示板があったので、それにしたがって進む。少し行くと目の前が開け、小高い丘が見えてくる。登り口には石田三成の旗印が見える。ここが石田三成の陣地・笹尾山だ。石段を登ってゆくと少し平坦になり、ずらりと竹矢来が設置されている。このあたりには猛将・島左近の陣地があり、石田三成はさらに上の山頂に陣取ったという。時刻は17時を過ぎていたので、私は山頂の三成陣地までは行かなかったが、この辺りからでも戦場方面の見晴らしは大変よい。関ヶ原の北端にあるこの笹尾山は陣地としてはもっともよい位置にあるといえるだろう。

笹尾山から少し南に進むと「史蹟 関ヶ原古戦場 決戦地」の石碑が建つ場所に出る。笹尾山を前にしたこのあたりは、最大の激戦のあったところだという。石碑の前に立ち、私はしばし戦いの様子を思い浮かべた。

分岐点の道標
右 京・いせ道
左 江戸・なごや道

北国街道と脇往還の分岐点
街道をまっすぐに行くと、T字路になり、ここで北国街道と北国脇往還が分岐する。北国街道は鳥居本宿で、脇往還は関ヶ原でそれぞれ中山道と合流する

渡岸寺観音堂(収蔵庫)
昭和49年に建てられた十一面観音のための収蔵庫。拝観時間午前9時から午後4時まで。JR北陸線高月駅より徒歩5分。拝観料300円

国宝十一面観世音(渡岸寺)
天平時代、泰澄の作と伝えられる。一木彫(1.95m)。昭和28年、国宝指定。
(写真は「白洲正子の旅」 雑誌「太陽」2000年春号より転載

「国宝十一面観音菩薩」案内標識
国道365号線の脇に建っている。ここを右に曲がると「観音の里民俗資料館」という建物があり、その少し先に観音堂(向源寺)がある

国道365号線高月町付近
かつてこの地には大きな槻(ケヤキの古名)があったことから高槻と名づけられた。その後「月の名所」として歌に詠まれたことから「高月」に改められたという

国宝 十一面観音菩薩 (渡岸寺観音堂)

観音堂(収蔵庫)に入ると正面に大きな十一面観音が立っている。高さ1.95mの立像である。堂内はそれほど広くはないが、部屋の中心に十一面観音、その両側に菩薩像が二体配置されている。ほかに拝観者もいなかったので、ボランティアの方の説明を聞きながら私はじっくりと像をながめた。すらりとした美しい姿である。私は、このときまで十一面観音についての知識はまったくなかった。この観音様は、頭の上にさらに11の小さな面をもっている。それぞれの面には意味があり、現世利益の大きな観音様として人々から篤く尊崇された。戦国時代、織田、浅井との戦いによって寺は焼かれたが、この観音様は地中に隠され難を逃れたという。その後は小さなお堂を建て、近隣の人々が守り続けてきた。
そもそも、十一面観音は水をつかさどる神様として農民の間に広く信仰された。手に持っているのは水の入った「スイギョウ」というものだという。この像は泰澄の作と伝えられ白山信仰ともかかわりがあるようだ。
堂内は撮影禁止なので、私は旅から帰ってから写真集を探した。そのときに見つけたのが下の写真で、「白洲正子の旅」という雑誌に掲載されていた。白洲さんは高名なエッセイストで、「十一面観音巡礼」、「近江山河抄」、「かくれ里」など足で書いたすぐれた随筆集が多い。これらの作品の中にもこの渡岸寺の十一面観音のことはよく出てくる。

国指定史跡 小谷城跡 (説明板より)
戦国時代、近江は天下を左右する重要な位置にあり、数多くの戦乱の場となりました。このことから近江には中世の城郭が数多く見られます。その中でも小谷城は、亮政、久政、長政の三代にわたって、小谷山全域に築かれたわが国でも屈指の規模を持つ中世城郭です。
小谷城は織田信長の激しい城攻めにより落城しましたが、その後、城跡はなんら手を加えられることなく長く埋もれたまま当時の面影を今に残しています。

向源寺本堂
本堂は戦国時代に焼失以来再建されなかったが、大正14年に本堂として建立された

向源寺山門
山門の脇に「国宝十一面観世音」の大きな石標が建っている

小谷城跡を山麓より望む
山の上の城跡までは行けなかったが、かつて城のあった山を見上げて昔をしのんだ

小谷城跡に向かう道路
城跡まで車で行ける。歩くとなったら相当な時間がかかるだろう
道の脇に「熊出没注意」の立て札が立っていた

決戦地碑の場所より古戦場方面を望む

「史蹟 関ヶ原古戦場 決戦地」碑

朝の木之本宿、北国街道風景
「七本槍」の富田酒造付近。少し先に見える建物は旧滋賀銀行で現在は「きのもと交遊館」となっている。かつてはこの場所に問屋があった