塩津を詠んだ歌二首
紫式部の歌は、荷物を運ぶ男たちが「やはりここは難儀な道だなあ」というのを聞いて、「お前たちもわかったでしょう。いつも往き来している歩きなれている塩津山も、世渡りの道としてはつらいものだということが」という意味.。越前への旅の思い出の一コマを詠んだのだろう

街道脇に建つ大きな常夜灯
江戸末期ごろに立てられたものだろうか。台石に「海道繁栄」などと書かれている

屋号 丸一(宿屋)
創業は文久年間(1863)といわれ、都と北陸を往来する商人が主に利用した

屋号 沢屋
元は造り酒屋であり、裏には酒倉もある

屋号 吉平
慶応4年(1868)に建てられた道具倉である

宿を出てまっすぐに行くと、突き当たりに木之本地蔵院がある。この前を通っているのが旧北国街道である。街道筋に出ると、昔の面影を濃厚に残した家並みが続いている。木之本の宿場は木之本地蔵院を中心にして発展してきたという。地蔵院の前は「札の辻」、左右には「旧本陣」、「元庄屋」などの家が残っている。この辺が宿場の中心なのだろう。私は街道を余呉方面に戻る形で歩いてみた。少し先に「山内一豊が名馬を購入した 馬宿 平四郎」という家があった。木之本では室町時代から昭和の初期まで毎年2回牛馬市が開かれていた。一豊の購入した名馬「摺墨」は、この「馬宿平四郎」から出たと古から当家に言い伝えられている、と説明板にある。通りには古い造りの建物をそのまま生かした酒屋、すし屋、軽食屋なども営業しており、古い町がうまく現代に調和していると思った。
旧市街のはずれ付近に一里塚跡があり、さらにその先で旧道は国道365号線と合流する。私はこの辺りまで行って引き返した。旧道部分を端から端まで一通り歩き、宿には17時頃戻った。今日は夕食付なので、風呂に入ったあとゆっくりとくつろいだ。

元庄屋 上阪五郎右衛門家
江戸末期、弘化4年(1847)の建築。二階を低くした典型的な役人家屋。古文書が多く保存されている

馬宿 平四郎
室町時代から昭和の初期まで毎年2回この地区の民家を宿として牛馬市が開かれた。山内一豊が買い求めた名馬摺墨は「馬宿兵四郎」から出たと古くから当家に言い伝えられている

奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

国道8号線(塩津街道)疋田付近
疋田は塩津海道(国道8号線)と西近江路(国道161号線)の分岐点であり、古くから宿場などが置かれた。(左が塩津街道、右が西近江路)

塩津信号付近
ここで国道303号線が分岐している。この道は塩津街道と西近江路を結ぶ間道として利用された

国道8号線(塩津街道)沓掛集落あたり
旧道らしい道が分かれてゆくが、そのまま国道を進む

旧道を歩いてゆくと湖岸に出る。ここは琵琶湖の最北端である。現在では古い港の跡などはまったく見られないが、岸辺すぐ近くに小さな公園があり、ベンチがおいてあったので、ここで昼食にした。12:40頃だった。

塩津神社本殿
塩津神社は、近くの池の水で塩をつくっていた人たちが、塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)を祀ったのが始まりと伝えられる

塩津港跡
ここは琵琶湖の最北端で、京と北陸地方を結ぶ重要な湖港となっていた

葉原

海津を経て
大津へ

関ヶ原へ

常宮神社

気比の松原

芭蕉は塩津街道を行った
とする説もある

湖西線

北陸本線

小浜線

北陸本線

国道365号線
(北国街道)

賎ヶ岳

国道161号線
(西近江路)

国道8号線
(塩津街道)

国道365号線
(北国街道)

柳瀬

刀根

曽々木

疋田

余呉湖

塩津

西村家

金ケ崎城跡

気比神宮

木之本

琵琶湖

北陸トンネル

北陸本線

敦賀

本隆寺

色浜

敦賀湾

敦賀から木之本

塩津から木之本へ

塩津の町を過ぎると国道は湖畔から遠ざかり、やがて藤ケ崎トンネルに入る。トンネルを出ると木之本町飯浦となり再び湖岸に出る。ここにはとんがり屋根のレストハウスなどがあり、プレジャーボートの係留施設などもある。ここからの琵琶湖は先ほどよりも広々と見えた。遠くの岬の先に小さく見えるのは竹生島だろうか。湖岸に沿って少し行くと前方には賤ヶ岳から続く丘陵が湖岸までのびている。国道はこの丘陵をトンネルで越えるが、旧道は坂道で越える。私は旧道の行く先がわからなかったので国道のトンネルで抜けてしまった。
賤ヶ岳付近は信長亡き後、柴田勝家と羽柴秀吉の雌雄を決する戦場となった。ここでの戦いに敗れた勝家は北ノ庄に退却し、追撃してきた秀吉に攻められ、お市の方とともに自害して果てた。

木之本

木之本で国道8号線(塩津街道)と365号線(北国街道)は合流する。市街地に入り国道は右に曲がってゆくが、そのまままっすぐに進んでゆくと旧道、そして旧市街地に入ってゆく。
今日の私の宿は旧市街にある草野旅館である。旧道をまっすぐに進み、JRの踏切を越えてすぐの横丁にあった。到着したのは15:30頃だった。旅館で一休みしてから、お散歩マップをもらい町並み探索に出かけた。

富田酒造
清酒「七本槍」の蔵元。450有余年の歴史を経た酒造。北大路魯山人が当家に残した扁額「七本槍」が店にある

山路酒造
酒造りを始めて460年あまり、地酒「鳰自慢」「北国街道」は絶品とのこと

種(いろ)の浜

八月十四日(陽暦九月二十七日)に敦賀に着いた芭蕉は、翌々日には舟で色の浜に渡った。ここにはかつて西行が来て、『潮染むるますほの小貝拾ふとて 色の濱とは言ふにやあるらん』と詠んだ。芭蕉は、西行のこの歌にひかれてやってきたのである。芭蕉は、「おくのほそ道」本文で次のように記している。
『十六日、空晴れたれば、ますほの小貝ひろはんと、種(いろ)の浜に舟を走(は)す。海上七里あり。天屋何某(なにがし)と云ふもの、破籠(わりご)・小竹筒(ささえ)などこまやかにしたためさせ、僕(しもべ)あまた舟にとりのせて、追風ときのままに吹着(ふきつき)ぬ。浜はわずかなる海士(あま)の小家にて、侘びしき法花寺(ほっけでら)あり。爰(ここ)に茶を飲み、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ、感に堪(たへ)たり。
         寂しさや須磨にかちたる浜の秋
         浪の間や小貝にまじる萩の塵(ちり)  
其日(そのひ)のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。』  

芭蕉の「奥の細道」の旅も、もう残すところわずかである。旅の最後の日々を気楽に過ごす芭蕉の様子が伝わってくる。このような時を過ごすことができるように、曾良のお膳立てもあったということも忘れてはならないだろう。この日に泊まった本隆寺には、芭蕉が「等栽に筆をとらせて寺に残」した「其日のあらまし」が現在も秘蔵されている。

私は先を急ぐあまり、芭蕉の大きな訪問地の一つである「色の浜」を省略してしまったのだが、参考までに現在のアクセス方法を記しておこう。
・バスの場合・・・敦賀駅から立石行きバスで色ヶ浜下車。一日3便(朝、昼、夕各1本)
・船の場合・・・・敦賀(蓬莱町)から色ヶ浜まで一日1往復(毎日、往路8時、復路16時)
・徒歩の場合・・・敦賀駅から敦賀湾沿いの県道を約15Kmほど


敦賀から大垣へ、芭蕉の動向

芭蕉がいつ敦賀を出発したかは明らかではないが、十八日か十九日には旅立ったのだろう。大垣からは門人の路通が敦賀まで迎えに来ている。これから先、大垣までは約80Kmの道のりで、いつもなら1泊2日の行程だが、芭蕉は「駒にたすけられて」と書いているように、旅も終わりに近づき疲れもたまっていたのだろう。木之本、春照で宿泊する2泊3日のゆったりとした行程にしたようだ。敦賀から大垣までのあいだ紀行文はほとんどなく、最後に大垣での出来事を記して文学作品としての「おくのほそ道」は終わる。

敦賀から疋田(ひきた)へ

私はこの日(9月9日)、7:30ころビジネスホテルを出発した。このホテルは敦賀市街地の南はずれの国道8号線に近い。国道8号線を進むとすぐにJR小浜線の踏切があり、その少し先の陸橋で北陸本線の線路を越える。国道はやがて市橋集落に入ってゆく。新しい国道に並行して旧国道が残されており、この道沿いに民家が続いている。
やがて、国道は疋田(ひきた)集落に入る。ここで国道は二手に分かれる。右に曲がってゆくのは国道161号線で、かつては西近江路と呼ばれ、大津を経て京方面に向かう。まっすぐに行くのは国道8号線で、かつては塩津街道と呼ばれた。この両街道が分岐する疋田にはかつて宿駅があり、上代には愛発(あらち)の関があったといわれている。
疋田の集落は国道161号線(西近江路)沿いに続いており、国道8号線は集落を離れて川沿いの静かな道になる。

塩津

国道の塩津信号の少し先に大きな常夜灯が建っている。「海道繁栄」などと刻まれているが、いつごろ建てられたものかは確認できなかった。また、近くに塩津を詠み込んだ歌二首のちょっとハイカラな碑が建っていた。紫式部は船で琵琶湖を渡り、ここから塩津海道を通って越前武生まで旅した。塩津の港は万葉の昔から歌に詠われてきた。
  

福滋県境から塩津へ

峠から先は滋賀県西浅井町となる。国道はゆるい下りで、自然に早足となりタンタンと進む。道が平坦になり、視界が開けてくると遠くに小さな集落も見える。このようなところは国道とは別な旧道も残っているのだろうが、私はかまわず国道を進む。沓掛集落を過ぎると北陸線の線路が国道と並行するようになり、やがて道の脇に近江塩津駅が見えてくる。JR湖西線はこの駅から分岐して西近江路(国道161号線)沿いに大津方面に向かう。国道8号線はまっすぐ塩津の町に入ってゆく。

少し先で旧道が分かれてゆくのでこちらの道を進む。塩津は古くからの港町であるとともに海道の宿場町でもあった。今も旧道に沿って昔の面影を残す家が散見される。主な家には昔の屋号と略歴が掲示されている。

(参考)「おくのほそ道」の諸本
@自筆本(中尾本)・・・墨書による訂正と張り紙による訂正が多い。芭蕉の推敲過程がよくわかる。
A曾良本(天理本)・・・訂正後の自筆本を門弟が忠実に書写。これを墨書および朱書により訂正。
B柿衛(かきもり)本および西村本・・・どちらも訂正後の曾良本を書家素龍が清書したものながら、曾良本との間に相違する箇所がある。柿衛本と西村本との間にも相違が見られる。
C版本・・・西村本をもとに井筒屋庄兵衛により元禄15年に刊行される。以後、たびたび重版、改版が行われ、広範な読者を得る

西村本について
 素龍が芭蕉の依頼を受けて曾良本を書写したもの。芭蕉自筆の表題が付され、最後の旅にも携行していたことから、一応の完成品と考えられる。伊賀上野の兄に渡された後、遺言により去来が譲り受け、現在は西村家所蔵。

西村家母屋
国道を挟んで店と反対側にある。入口脇に「
重要文化財奥の細道素龍清書本西村家所蔵」の立て札が立っている。邸内には「芭蕉翁松風塚」というのがある

「おくのほそ道素龍清書本」レプリカ
孫兵衛店内奥に西村家の他の伝来品などとともに展示されている。「おくのほそ道」は、元禄15年に西村本をもとに井筒屋から刊行されており、黒く見えるのはその版木(レプリカ)だろう

孫兵衛茶屋、「おくのほそ道」底本・「素龍清書本(西村本)」所蔵の西村家

国道はゆるい登りになっており、その峠の頂上に「孫兵衛」という民芸茶屋がある。この茶屋は西村家が経営している。旧家西村家には「おくのほそ道」の原本の一つで、芭蕉が弟子の素龍に清書させた「素龍清書本(西村本)」が残されている。芭蕉が表題だけを自筆したもので、芭蕉の弟子向井去来から幾人かを経て、敦賀の俳人白崎琴路に渡り、さらにその親戚の西村家に伝わったという。
私がこの茶屋に着いたのは10時頃だった。「おくのほそ道」の底本となっている「西村本」を所蔵している家だということは知っていたので、お店の人に聞いてみた。ちょうど仕込をしていたご主人がいろいろと説明してくれた。「素龍本」は現在国の重要文化財になっており、事前に申し込んでおかないと見せてもらえないということだが店の中にレプリカが展示してあり、これなら写真撮影OKとのことなので写真を撮らせてもらった。時折バスツアーなどで見学の人がやってくるという。ご主人は「芭蕉はこの家の前を通った」といわれたが確証はないようだ。もしこの道を芭蕉が通っていたら奇縁といえるだろう。
私は店内の展示品を見学し説明を聞かせていただいたが、昼食にはまだ早く、冷たい麦茶をいただいただけで店を出た。そのあと道路を渡って母屋のほうにも行ってみた。現在の建物は特に古いものではないようだが、屋敷内に芭蕉翁松風塚というのがあり、庭も立派なものだった。ご主人は自由に見てくださいといっていたが、現に居住している屋敷でもあり、ざっと庭を眺めるだけにとどめた。

新道集落(新道バス停付近)
国道と並行して旧道が残っている。かつては宿駅があったという

国道と県道140号線の分岐する付近
曽々木集落の先で道は二手に分かれる。どちらを行っても木之本に出ることができるが、芭蕉がどちらを行ったかは明らかではない

疋田から新道集落へ

国道8号線(塩津街道)はやがて曽々木集落に入り、その先で道が再び二つに分かれる。現在県道140号線となっている道で、刀根(とね)峠を経て柳ケ瀬付近で北国街道(国道365号線)と合流する。
天正元年(1573)、朝倉義景が織田信長に追われてこの道を通った。朝倉軍は途中の刀根峠で織田軍のために壊滅的な打撃を受けた。義景は残った兵とともに一乗谷まで戻るが、信長の追及の手はさらに続く。義景は一乗谷を捨て大野まで逃れ、ここで一族の朝倉景鏡の裏切りにあい自害して果てる。敏景以来五代で戦国大名朝倉家は滅んだ。一乗谷の館と町並みもこのとき焼き尽くされ、人々の記憶から消え去った。
芭蕉がこの分岐点から先どちらの道を行ったかは、実はわかっていない。どちらの道を行っても同じくらいの距離で木之本まで出ることができる。研究者の間にも二説あり、確定しないようだ。芭蕉は刀根峠における朝倉の悲劇を知っていただろう。その跡を訪ねるという気持ちがあってもおかしくはない。ただ、時代は徳川の世であり、その感懐を述べるのは差しさわりがあるのかもしれない。
私は国道ルート(塩津街道)を行った。この先に芭蕉ゆかりの西村家があるためである。やがて国道から旧道がゆるく分かれて行き、新道集落に入ってゆく。いつの時代か新道が開かれ地名になったのだろう。旧道は集落の中をしばらく続き、やがて国道に合流する。



国道8号線

国道8号線

国道の賤ヶ岳トンネル付近
国道はトンネルで抜けてしまうが、旧道は賤ヶ岳のふもとの坂道を登ってゆく

飯浦から望む琵琶湖
遠くに見える岬の先に小さく見える島は竹生島だろう

国道から続く旧道の様子
まっすぐ行くと木之本地蔵尊に突き当たり、その前に旧北国街道が往時のままに通っている

木之本市街の国道8号、365号線
この少し先で国道は右に曲がり、旧道はそのまままっすぐに進む

「うだつ」のあがった家の続く町並み
街道沿いには風格のある家が建ち並び、旧街道の面影が色濃く残っている

木之本地蔵院
この地蔵尊の門前町を中心にして宿駅が形成されたという

民芸茶屋「孫兵衛」
店の入口脇に次のような石標が建てられていた。
『芭蕉翁と西村家 / 西村家は遠く村上源氏の出、この峠を開拓 ここ北陸街道の要所に問屋を営んだ旧家であり芭蕉とのゆかりが深い
一、おくのほそ道素龍本を秘蔵(国重文)
・・・云々』

孫兵衛茶屋のあるあたり
ゆるやかな峠の頂上にあり、付近は福井県と滋賀県の県境になっている。国道沿いに飲食、民芸品販売の店「孫兵衛」、国道の反対側を少し入ったところに西村家の母屋が建っている