気比神宮拝殿

気比神宮大鳥居

奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

気比神宮
仲哀天皇、神功皇后、日本武尊など7柱を祀り、古事記、日本書紀にもその名が見える。天皇家の崇敬を受け、大宝2年(702)文武天皇が社殿を造営。元亀元年(1570)朝倉氏と織田信長の抗争による戦乱で灰燼に帰したが、慶長19年(1614)、福井藩初代藩主結城秀康が社殿を再建した。昭和20年の戦災で焼失したが、昭和60年以後に本殿を改修し、幣殿、拝殿などが設けられた

敦賀(つるが)、気比(けひ)神宮へ

芭蕉は等栽とともに八月十四日(陽暦9月27日)夕暮れ、敦賀に着いた。芭蕉が泊まったのは出雲屋という旅籠である。「おくのほそ道」本文では、宿の主人との次のようなやりとりが記されている。
芭蕉が到着した夜は、月がことのほか晴れた。「あすの夜もかくあるべきにや(あすも晴れるでしょうか)」と問いかける芭蕉に、「北陸の天気は変わりやすい、明日はわかりません。一杯飲んで今夜のうちにけいさん(気比神宮)に参りませんか、ご案内しましょう」と、主人は答える。それならばと、月を眺めながら気比神宮に夜参りに出かけた。翌日の中秋(八月十五日)は、主人の言葉どおり雨が降る。肝心の日に月を見ることのできなかった残念さを芭蕉は、『名月や北国日和定めなき』の句に残した。

国道476号線を歩いてきた私は、気比神宮に16:30頃到着した。気比神宮は大宝2年(702)創建という古い大きな神社で、現在も敦賀市民に「けいさん」の愛称で親しまれている。境内は夕暮れ時にもかかわらず、たくさんの人が訪れていた。地元の人が気軽に足を運ぶ場所という感じだ。境内には芭蕉の像と句碑が建てられている。また、大鳥居の前を走る国道8号線の交差点の脇には、「お砂持ち神事の像」が建てられている。これは、時宗二代遊行上人が海岸から砂を運んで気比神宮の参道を修復した、という故事にもとづく像である。なお、この故事を主人から聞いた芭蕉は、自分が立っている場所が遊行上人の運んだ土の上であることに感動し、『月清し遊行のもてる砂の上』と詠んだ。

敦賀港付近ほか

気比神宮に参詣したあと、私は敦賀港に向かった。今日はもう時間が遅いので、あまり市内を歩き回ることはできないが、気比神宮から港までは近い。港に着いたのは17時を過ぎていた。
敦賀港は古くから天然の良港で、律令時代の昔には渤海などとの交流も盛んだった。また、明治後半から昭和初期にかけてはロシアのウラジオストックへの玄関口であり、シベリア鉄道を通じてヨーロッパにつながるということで新橋駅から「国際列車」が出たという。現在の敦賀港も重要港湾としてよく整備されている。港の中央部はシンボル地区になっており、きらめきみなと館や旧敦賀港駅舎、赤レンガ倉庫など港町敦賀を代表する施設が集まっている。私は時間が気になったので、これらの施設を遠くから眺めるだけで港周辺の見学を切り上げた。

今庄から板取へ

JRの踏切をわたると少し先に旧道が残っているのでこちらに進む。やがて国道と一緒になり、あとは国道をタンタンと進む。山間の国道は車も少なく静かである。今は立派な国道だが、道筋としては昔の北国街道と重なっているのだろう。途中に大門、孫谷など小さな集落がいくつかあり、やがて板取の集落に着く。今庄から約9Kmほどである。
歩いているうちに、雨はすっかり上がってしまった。
板取集落は山間の小さな集落である。現在ではこの集落の真下をJRの北陸トンネルが走り、ここに立抗が口を開いている。かつての板取宿、板取番所跡はここからさらに5、6分国道を歩いたところに遺されている。

芭蕉は今庄宿に1泊した後、等栽とともに敦賀に向かった。今庄宿の町はずれに北国街道と北陸街道の追分がある。分岐点には大きな道しるべが建っている。ここを右に曲がると、木の芽峠を経て敦賀に至る北陸街道、左に曲がると栃ノ木峠を越えて直接近江、京方面に向かう北国街道である。芭蕉は右に曲がり敦賀に向かう道を進んだ。


芭蕉が敦賀を訪れたのは、西行ゆかりの「種(いろ)の浜」(現在の敦賀市色浜)に行くためでもあった。芭蕉が舟で色浜に向かったのは八月十六日。敦賀の豪商・天屋五郎右衛門が弁当や酒を用意したため、ちょっとした大名旅行となり、その晩は近くの本隆寺に泊まった。色浜は西行の古歌で有名な「ますほの小貝」と呼ばれる小さな貝が取れることで知られた浜。現在砂浜は少なく、ますほの小貝はほとんど取れなくなったという。このあたりは海水の透明度が高く、夏は海水浴の人で賑わう。
ところで、山中温泉で芭蕉と別れた曾良の敦賀での動向を見てみよう。曾良は芭蕉と別れた後もずっと日記をつけている。曾良は、やはり舟で色浜へ渡り、見物したあと芭蕉と同じ本隆寺に泊まった。次の日敦賀に戻った曾良は出雲屋を訪れ、芭蕉に渡してくれるように金1両を預けている。さらに天屋五郎右衛門を訪ね、芭蕉への手紙を預けてから敦賀を発っている。芭蕉が気持ちよく敦賀での時を過ごせるよう、気配りをしているのだ。

私の本日の宿は、敦賀港からまだ約3Kmも先である。敦賀は大きな町の割には適当なロケーションに適当な宿がない。国道8号線をまっすぐに進み、国道27号線との交差する付近にあるビジネスホテルに到着したのは18時を過ぎていた。
私は今回の旅では敦賀であまり多くの時間を割けなかったのだが、あとで考えるともう一日時間をとって、色浜とか気比の松原、金ケ崎城跡などを見学してもよかったなと思った。また、機会があったら訪れよう。






明治天皇葉原御小休所の石標
石標のある場所には、現在は葉原ふれあい会館という建物が建って
いる

葉原集落内の旧道

国道476号線新保付近
新保集落を抜けた旧道は国道476号線と一緒になる。以後旧道はほとんど国道と重なって敦賀まで続く

新保集落の様子
昔は、木の芽峠をひかえた宿場であった。現在は敦賀駅からここまでバスの便がある(平日、1日5本)

旧道と国道476号線の交わる地点
木の芽トンネルを抜けてきた国道476号線はここで旧道と交わる。旧道は国道の下をくぐり新保集落に向かう
ここから階段で直接国道に出ることもできる

木の芽峠から1.2Km下った地点
中部北陸自然歩道の大きな案内図が立っている。この地点で木の芽峠まで1.2Km、新保バス停まで1.4Kmとある

木の芽峠古道の様子
峠の頂上からふもとの新保集落までの間、このような道が続く。明治11年、岩倉具視や大隈重信らの随員、警備のものなど820余人を引き連れた明治天皇がこの道を通った

古道脇にある「明治天皇御膳水」
この水は天皇が通る半年も前から警備されていたという話が先に紹介したサイトに載っている
関係者の苦労がしのばれる話だ

木の芽峠を下り新保集落へ

昼食も済み、元の峠に戻り下山を始める。これからは木の芽峠の古道そのものを歩くことになる。少し下ると道の脇に「明治天皇御膳水」という石標の立った水場があった。明治11年明治天皇の北陸巡幸の際に木の芽峠を通り、頂上の前川家でご小憩された。このときに使用した水だという。
これから先、道は細く急な山道になる。この道をかつてさまざまな人が行き交った。恐らく道の様子はその当時とそれほど変わらないのだろう。今はハイキングコースとしてよく整備されている。

木の芽峠頂上付近からの眺め
木の芽峠一帯はスキー場として開発されており、旧道も一部ゲレンデに寸断されている部分がある。
ゲレンデは鉢伏山の頂上までのびており、かなり大規模なものだ

木の芽峠頂上に建つ民家(前川家)
この家の壁際に当主の筆跡で次のような文書が掲示されていた。『本日は木の芽峠へご苦労様。当家は観光用建物ではない。越前国警備の役目をもって明治まで、その後は住居として現在に至る(540年)二十代目です。付近はすべて私有地』
(原文のまま)

木の芽峠

旧道の木の芽峠の頂上には一軒の古い民家が建っている。1466年から峠の茶屋兼番人であった前川家で、現在もここに住んでいる。この場所に540年以上も住み続けているという。当家のご主人の筆跡で、「この建物は観光用ではない、生活の場です」という注意書きが掲示されていた。家の前には道元禅師がこの峠で詠んだ歌碑など建っている。
旧道を少し今庄方面に向けて歩いてみる。このあたりはなだらかな峠道で、下にはスキー場のロッジが見える。この先旧道はスキーのゲレンデと交差する箇所もあり、道の様子が相当改変されている部分もある。時計を見ると12時を過ぎている。ゲレンデの草原に座って昼食にした。

歴史の道 木の芽古道 (説明板より抜粋)
この道が開かれたのは天長7年(830)以前といわれ、明治半ばに至る1150余年間、畿内と北陸を結んできた官道であった。その昔、義経主従も永平寺道元も本願寺蓮如も紀行の芭蕉もこの道をとおり、近くは明治天皇も明治11年10月9日、この道を通って敦賀へこられた。
また、この付近には「木の芽城砦群」といわれるいくつかの山城があり、これらの城砦をめぐって信長、秀吉などが朝倉義景や一向一揆の軍勢としのぎを削った古戦場でもある。

今庄365スキー場
スキー場、温泉ロッジ、バーベキュー設備、コテージなどがある。このスキー場の上が木の芽峠である

スキー場に向かう自動車道路
板取宿の石畳道を進んでゆくと、この自動車道路にぶつかる。この先には今庄365スキー場があり、そこから木の芽峠に出ることができる国道ははるか下をまっすぐに通っている

板取宿跡に残された茅葺の民家
坂道を登ってゆくと、中ほどに茅葺の民家が4軒まとまって建っているのが見えてくる。この屋根の形は甲(かぶと)造りというのだろうか、立派なものだ。何軒かは現在でも人が住んでいるようだが、これを維持するのは大変なことだろう

板取番所跡
石畳の道を登ってゆくと、いちばん上に板取番所跡の標識が立っている。江戸時代には、ここに間口三間、奥行き三間半の平屋建ての棟があり役人3人、足軽1人が常駐していた

国道からの板取宿跡への分岐点
国道からゆるい石畳の登り坂の道が分かれてゆく
現在の板取集落(下板取)からは少し離れている。石畳の旧道部分は100mくらい続いている

板取(いたどり)宿跡

下板取集落からしばらく歩くと国道から石畳のゆるい坂道が分かれてゆき、少し先に立派な茅葺屋根の民家が現れる。石畳の道を登りきったところには「板取関所跡」の標識が立っている。ここは越前南端の重要な関門の地として宿場とともに関所(後に番所)が置かれていた場所なのだ。茅葺屋根の民家は4軒ほどまとまって遺されており、いずれもよく整備され、この地方の伝統的民家の形をよく伝えている。


板取宿の由来 (説明板より)
戦国時代までの越前への陸路は山中峠を越える古道(万葉道)と木の芽峠を越える北陸道(西近江路)だけであった。柴田勝家が北ノ庄に封じられ信長の居城安土に赴く最短路として、天正6年(1578)、栃ノ木峠の大改修を行って以来、人馬の往来は頻繁となり、越前南端の重要な関門の地として板取宿を置いた。板取宿は北国街道(東近江路の玄関口として、あるいは近江、越前両国を結ぶ要の宿として発達したのである。
江戸時代には結城秀康が入国以来、関所を設けて旅人を取り締まった。後に板取番所として藩士が駐在した。

今庄宿・文政の道しるべ

鯖江のホテルを7:30頃出発し、電車で今庄に着いたのは8時過ぎ。駅から今庄宿の町並みを抜けて北陸街道と北国街道の追分に着いたのは8時半ごろだった。私はこの日の今庄から敦賀までのルートを決めかねていた。芭蕉は木の芽峠の旧道を歩いている。この道しるべを右に曲がれば芭蕉の歩いた旧道コースに出る。一方、左に曲がって国道365号線(北国街道)を行くと、途中で国道476号線が分岐し、トンネルで木の芽峠を通り抜けて敦賀に達する。今日は朝から小雨が降り、空は厚い雲に覆われている。旧道は峠道で、どのような状況なのかわからない。道しるべの前に立ってしばし考えたが、山道で雨に降られたらいやだなという気持ちが優先して、結局左に曲がり国道の平坦コースをゆくことにした。途中に板取宿跡があるのも理由の一つだ。

なお、木の芽峠古道コースについてはこちらのサイトが大変参考になるので、ご参照ください。

新保集落から敦賀へ

旧道は国道の下をくぐったあとも坂道がしばらく続き、やがて田圃のひろがる新保集落に入ってゆく。バス停があったので時刻表を見てみたが、敦賀行きは午後では12:30、15:45、17:05発の3本だった。私がここを通過したのは13:30頃だったので、バス利用はしなかった。私の事前の調べでは新保から敦賀までは12Kmくらいある。新保集落を抜けると旧道は国道476号線と一緒になる。

国道を歩いてゆくと大きな集落が見えてきた。葉原集落である。旧道らしい道が分かれてゆくのでそちらの道を進む。集落の中心部あたりに葉原小学校跡の碑が建っている。近くに明治天皇葉原御小休所の石標も立っている。木の芽峠を越えた明治天皇一行はここで一休みされたのだろう。このあと旧道は再び国道と一緒になり、それから先は大きな集落もなく北陸自動車道と寄り添うような形で敦賀市内に入ってゆく。

林道の木の芽峠駐車場
林道を進むと駐車スペースがあり、トイレと「木の芽城塞群図」という大きな案内図がある
。旧道の木の芽峠はこのすぐ上である

林道とゲレンデ
リフトに沿って登ってゆくと林道に出る。ここに案内標識が出ているのでこれに従い左に曲がる。ゲレンデはさらに上に続いている

スキー場のリフトの近くに木の芽峠への案内標識が出ているのでそれにしたがって坂道を登ってゆく。リフトに沿った道を喘ぎながら登って行くと20分くらいで林道にぶつかる。ここにも案内標識が出ているので、これにしたがって左に曲がる。少し先に車の駐車できるスペースがあり、大きな案内図(木の芽城砦群図)とトイレなどの施設がある。案内図の少し先に細い登り坂があり、これを上ってゆくと旧道の木の芽峠頂上に出ることができる。

板取宿跡から木の芽峠へ

板取宿跡の旧道を登ってゆくと、板取番所跡の少し先で広い道路にぶつかる。この道路が国道から分岐するところに大きな案内図が見えるので、そこまで降りて確認することにした。案内図によると、この道路の先には「今庄365スキー場」があり、夏でも園地やコテージ、温泉などもあるようだ。さらに、そこから木の芽峠に通じる道がある。もちろん、私はこの道を進んで木の芽峠を目指すことにした。
案内図には林間を通る歩道も描いてあったのだが、結局入口がわからず自動車道路をそのまま進んだ。かなり急な坂道で距離も結構長い。20分くらいこのような道を歩いて、ようやくスキー場のリフトが見える場所に着いた。

茅葺民家のアップ(2)
茅葺屋根の傾斜は相当にきつい。屋根の維持は大変なことだろうという想像はつく

茅葺民家のアップ(1)
家の前に積み重ねられた薪の山が冬の厳しさを思わせる

板取集落(下板取)
板取番所などのあった上板取はここから少し離れた国道沿いにあるこの集落の真下を北陸トンネルが通っているという

国道365号線孫谷付近
国道沿いに民家がかたまって見られる

新保

県道207号線

木之本へ

板取宿

二ツ屋

新道

北陸本線

北陸本線
(北陸トンネル)

国道365号線
(北国街道)

国道476号線

国道365号線

(北国街道)

国道365号線

国道8号線

栃ノ木峠

木ノ芽峠

山中峠

日本海(敦賀湾)

敦賀

今庄

武生

武生から敦賀

どんどん下ってゆくと中間地点付近に「中部北陸自然歩道」の大きな案内板があり、脇に道標が立っていた。この地点で木の芽峠まで1.2Km、新保バス停まで1.4Kmとあった。この辺りから先は坂も緩やかになり、道幅も広くなってくる。やがて前方が開け、木の芽トンネルを抜けた国道476号線が見えてきた。この国道の下をくぐってそのまままっすぐ行けば新保集落に出ることができバス停もある。

文政の道しるべ
文政13年(1830)に建てられたもの。石柱の頭の部分に火袋があるのは珍しい

道しるべの建っている付近の様子
道はここで二手に分かれる。右が木の芽峠の旧道に向かう道、左が北国街道の国道365号線に向かう道である

スキー場
金ケ崎城跡

敦賀港の様子
古くから天然の良港として知られた港は現在も重要港湾としてよく整備されている

北前船の帆をモチーフとしたモニュメント
きらめきみなと館に隣接して建てられているモニュメント。敦賀港は1997年に開港100周年を迎え、記念事業として記念館やこのモニュメントが建てられた少し先に旧敦賀港駅舎(資料館になっている)なども見える

気比神宮境内の芭蕉像

お砂持ち神事の像
正安3年(1301)、時宗の二代目遊行上人真教が敦賀に滞在中、神社の周りが沼地で参詣人が往来に苦労しているのを見て、海岸から砂を運び、参道を整備したという故事にちなむ像。現在でも時宗本山の清浄光寺(藤沢市)の法主交代の折、気比神宮前で「お砂持ち」の儀式が行われる