今庄(いまじょう)宿

坂を登りきったあたりの街道脇に「北国街道 今庄宿」の案内燈が建っている。近くに宿場町の説明板も立っている。


「北国街道 宿場町・今庄」 (説明板より)
古くから幾重にも重なる南条山地は北陸道の難所で、江戸・京から山中、木の芽、栃ノ木のいずれの峠越え道を選んでも、最初に投宿するのは今庄宿であり、また、越前から京・江戸へ向かう人々が、明日への準備のために休泊したのも今庄宿であった。今庄は江戸時代を通じて、宿場として越前でもっとも繁栄したところである。
初代藩主結城秀康は、北陸道を整備したが、このとき今庄は重要な宿駅として計画的に町並みを造らせた。文化年間(1804〜18)には、街道に沿って南から北に約1Km続き、家屋が櫛の歯のようにぎっしり並んでいた。中ほどには福井、加賀両藩の本陣や脇本陣、また多くの旅籠屋などが集まり、高札場もあった。
今でも昔風の家屋が軒を連ねる町並みは、その長さや道の形や短冊形の屋敷割がほとんど変わっていないこともあって、宿場の面影を色濃く残している。


案内燈の建っているところから宿場町に向かう旧道が分かれてゆく。少し先でJRの踏切を渡ると宿場町・今庄の町並みが始まる。

奥の細道歩き旅 第2回

「生そば うるし屋」の看板のある店
総社大神の門前の通りにある老舗の蕎麦屋。司馬遼太郎の「街道をゆく・北国街道」に出てくる

総社大神宮
武生は律令時代には越前の国府であり、この神社は越前の総鎮守とでもいうべきものだった。辺りには神社仏閣が多く静かな雰囲気である

奥の細道歩き旅 白石〜槻木

さらに街の中を歩いてゆくと「札の辻」という説明板の立っているところに出た。昔はこの辺りが一番賑わったのだろう。さらに、その近くに「蔵の辻」という一画があった。これは街の中の伝統的な建築物を再生、整備して町並みを作ったもののようだ。そこからJR武生駅が近いので、ちょっと寄って一休みした。

今庄宿の北はずれ付近
今庄宿の町並みはこれから1Km以上にわたって続いている

国道脇に立つ今庄宿の案内燈
街道脇に風情のある案内燈がたち、近くに説明板がある

豊橋
日野川にかかる橋で、県道2号線が通っている
この橋を渡ると武生の中心部に入ってゆく

日野川
栃ノ木峠付近に源流を発する川で、これから先この川に沿って街道が続いている

芭蕉は福井を立ってから敦賀に着くまでのことを詳しく記していないが、恐らくその日は鯖江、武生(たけふ)を通過して今庄まで歩き、そこで宿泊したのだろう。今庄から先は大きな峠を越えなければならないので、昔からほとんど旅人は今庄宿に泊まった。
私は、昨日は一乗谷に寄り道したので鯖江に宿を取ったが、今日は鯖江から武生を経て今庄まで歩く予定である。


鯖江から武生(たけふ)へ

今日(9月7日)は、関東地方には台風が接近しているということで、福井地方でも朝から雨模様である。天気予報では、こちらは台風はコースから離れているので、それほどひどいことにはならないようだ。それでも強い風雨も予想されるので、今日は出発時から雨合羽を着用することにした。また、宿も鯖江に連泊することにしてある。今庄から電車で戻らなければならないが、重い荷物を担がなくてもすむし、合羽も着やすい。
JR鯖江駅前のホテルα-1を7:40頃に出発した。駅前の道をまっすぐに行くと四ツ辻になり、左に曲がる道がなんとなく風情がある。この道沿いが鯖江の旧市街だろうと見当をつけ、ここを左に曲がる。この道を少し行くと萬慶寺というお寺がある。鯖江藩主・間部(まなべ)家の菩提寺だという。この寺の本堂の天井には藩主自らが描いた水墨画の大作が奉納されているという。お寺の先にも町並みが続き、古い造りの家も散見される。

道は普通の県道になり、やがて北陸線の線路の下をくぐる。ここで地図を確認すると近くに川が流れている。この川は日野川で、今日は今庄までこの川に沿って歩くことになる。川沿いの道を歩いていると、雨風ともに強くなった。この天気では雨合羽が正解だ。やがて前方に大きな橋が見えてきた。豊橋である。この橋を渡り、福井鉄道の線路を越えると武生の町の中心部に入ってゆく。

脇本陣跡(旧加賀本陣、旧北村新平家)
江戸時代の本陣の予備として建てられた宿泊施設である。この脇本陣は特に加賀の殿様が利用したので、加賀本陣といわれた
加賀藩の殿様は通常は高田から長野を回って中山道に出ることが多く、ここを通ることは少なかった

今庄宿本陣跡
今庄宿では享保3年(1718)に後藤家が福井藩の本陣を仰せつけられた。建坪約百坪、部屋数も二十を数えた。明治11年10月の明治天皇北陸巡幸の斎には行在所となったが、その後、後藤家は移住し、建物は取り除かれ現在は記念公園になっている

清酒 百貴船 畠山酒造
今庄には本当に古い立派な酒屋さんが多い

「清酒 白駒」 の店
「大日本優等清酒 白駒 醸造元 京藤本家」の立派な看板が掲げられている

越前地酒 聖の御代(ひじりのみよ)
創業享保元年という北善酒造。今庄には造り酒屋が多い

宿場の南はずれからさらに少し行くと道が二手に分かれ、そこに大きな道しるべが建っている。以前は木造であったが、文政13年(1830)に笏谷石(しゃくたにいし)で建てられた。北陸道(京・敦賀・若狭)と北国街道(京・伊勢・江戸)の追分の道しるべである。
私はこの道しるべまで行ってからもと来た道を引き返した。本陣跡付近から今庄駅に行く道がある。今庄の中にも探せば旅館はあるが、私は昨日に引き続いて鯖江駅前のホテルをキープしている。荷物も置いてあるので、ここから鯖江まで電車で戻る。15:02発の電車で、鯖江駅前のホテルに着いたのは15:40頃だった。

JR北陸線 今庄駅
北陸トンネルの完成するまでは、すべての列車はこの駅に停車した。山越えのために機関車を付け替えたのである
現在ではその当時の遺物はまったく見られない

文政の道しるべ
文政13年(1830)に建てられた大きな道しるべ。ここは北陸道と北国街道の追分である。
  右京 つるが わかさ 道
左京 いせ 江戸 道
と刻まれている

蔵の辻
大正から昭和初期にかけて建てられた木造の店舗や蔵を再生、整備し、伝統的建築物を生かした町並みとなっている

札の辻付近の様子
昔の街道筋で、この辺りが一番賑わったのだろう
現在は静かな落ち着いた雰囲気の商店街である

宿場通りを進んでゆくと次々と立派な古い建物が現れ、ワクワクしてくる。今まで私が歩いてきた北国街道の中では市振の古い町並みに雰囲気が似ているなと思ったが、遺された建物の数といい、町の大きさといい規模はまったく違う。東海道、中山道の宿場町に匹敵する規模だ。主な建物の前に「宿場街道 げんきな今庄宿」の統一された看板が立っていたが、これからさらに人の集まる観光地化してゆくかもしれない。

京藤(きょうとう)甚五郎家
天保年間(1830〜44)頃の建物で、当時は造り酒屋であった。土蔵造りで屋根には隣から火が移るのを防ぐ卯建(うだつ)や二階部分には袖卯建があり、完全な防火構造になっている

今庄宿の家並み
街道に面した家は短冊形に屋敷割されている。古い宿場町の雰囲気が色濃く残されている

武生から今庄へ

駅で一休みした後、国道365号線に向かって歩き始める。国道365号線は武生の町を抜けてきた旧道と接続して今庄まで続いている。武生から先はこの国道が北国街道の道筋である。武生の町外れで北陸本線の線路を陸橋で越えると、国道は田園の中を行く一本道になる。雨は降ったりやんだりで、時々強く降る。今日は気温はそれほど高くなく、雨合羽を着用していてもわりと快適に歩ける。タンタンと街道を歩いていると、パトカーが私の脇を通り過ぎ、4,5m先で止まった。中年のお巡りさんが降りてきて、「どちらまで行くのですか。よかったら乗って行きませんか」」と声をかけてきた。私はちょっと驚いたが、「歩いて今庄まで行くつもりなので結構です」と丁重にお断りすると、「それでは気をつけて行ってください」と走り去った。少し先の細い道に入っていったので、近郷の駐在さんだろう。荒れ模様の天気に一人で街道を歩くなんて、どんな人間なんだろうと職業柄思ったのかもしれない。私は北陸路では、親不知いらいパトカーに縁がある。

「京町」の標石のある町の中に総社大神宮という大きな神社が建っており、付近にはいろいろな神社仏閣が集まっている。この神社の門前に「生そば うるし屋」という看板のかかった趣のある店がある。司馬遼太郎の「街道をゆく 北国街道とその脇街道」を読んでいたらこの店のことが出ていた。かなりの老舗らしい。

 「なぜうるしやというのですかですか」と、そばを運んできたときに聞いてみた。「江戸時代にはうるしやだったのです」と、ごく簡単な答だった。幕末ごろからそばやになったらしい。そばやになってから四代になるという。大変な老舗である・・・(司馬遼太郎 街道を行く4 北国街道とその脇街道より)

古い看板の商店(2)
「呉服 大つか」の看板のかかった呉服屋

古い看板の商店(1)
「うるし 澤田漆行」の大きな看板がかかっている

武生(たけふ)

武生は奈良時代に越前国府が置かれた地である。長徳2年(996)、父・藤原為時に連れられて、紫式部がこの地で一年余りを過ごしている。そのため「源氏物語」の浮舟の帖には、『たとへ武生の国府にうつろひ給ふとも』と、武生の名が登場している。
江戸時代には福井藩家老の本多家が越前府中三万九千石を領し、府中城の城主として明治維新まで続いた。本多氏は大名ではないが、城を持つことを許されていた。同じような例は、仙台藩の白石城主・片倉氏などがある。
芭蕉も武生で一休みくらいはしたかもしれないが、いわゆる足跡らしいものはない。
武生の旧市街には、古い大きな看板を掲げたいくつかの商店が今でも営業を続けており、町の様子も静かで落ち着いた雰囲気である。現在の町名にも「国府」「府中」「京町」「本多」などの名前が見られる。

田園地帯を行く国道365号線
国道は今庄までまっすぐに続いている。このあたりでパトカーの駐在さんに声をかけられた

武生市街を行く国道365号線
武生市街を抜けてきた旧道は国道365号線と接続する。これから先の北国街道は国道と重なる

やがて街道は日野川に近づく。川の向こうに大きな山が見えるのだが、半分雲に隠れて全貌は見えない。芭蕉が「比那が嵩(だけ)」と記している山だろう。この山は日野山といい、標高795mでそれほど高い山ではないが、優美な円錐形の山容から越前富士と呼ばれている。土手に上るとちょうど木陰にベンチが置いてある。時計を見ると12時、霧雨のような雨が降っているが、このベンチで昼食をとることにした。この辺りは関ケ鼻といい、昔「鶯の関」というのがあって歌枕にもなっていた。芭蕉も『鶯の関を過ぎて、湯尾(ゆのお)峠を越えれば』と記している。
昼食をそそくさとすませ、先を続ける。遠くに見えていた山がだんだんと近づき、道はゆるい登り坂になってゆく。湯尾峠である。旧道は細く険しい道で難所だったようだが、国道の峠は大きく回り道をしているのでそれほどきつい登りではない。

旅籠(若狭屋)
旅籠(はたご)は一般庶民が宿泊する旅宿で、はじめは食料持参で薪代などを払う形態(木賃宿)であったが、庶民の旅行が多くなると現代の旅館形式に変わった

「清酒 鳴り瓢(ナリヒサゴ)」 の造り酒屋
今庄には造り酒屋が多い。これはその一つ「清酒 鳴り瓢」の堀口酒蔵有限会社

鯖江の旧市街
街道筋には古い商店なども散見される。鯖江は城下町だが四万石の小藩で本格的な城は持たなかったという

萬慶寺山門
鯖江では珍しい二階建ての山門である。本堂の天井には鯖江藩七代藩主・間部詮勝(あきかつ)の描いた大作の天井画がある

鯖江本町の四ツ辻
JR鯖江駅前の道をまっすぐ行くと四ツ辻になる。この辺りが鯖江の中心部だろうか

国道の湯尾峠
山が近づき、国道はゆるやかな登り坂となる。湯尾峠である

日野川べりから日野山を望む
国道が日野川と最も接近する地点で、日野山の眺めがよい。あいにく山はほとんど雲に隠れていたが、晴れていればすばらしいだろう