福井から一乗谷へ

芭蕉とは直接関係はないが、私はこのところ戦国時代の歴史に興味をもっているので、一乗谷に残る戦国大名・朝倉家五代の遺跡を見学しようと決めていた。福井市街からは遠く辺鄙な場所にあるので、電車で往復する予定である。福井駅発9:08の電車に間に合うように市内散策を早めに切り上げ駅に向かった。先にも記したように、この電車に乗り遅れると次の電車は3時間後になってしまうのだ。何とか電車に間に合い、9:26には一乗谷駅に着いた。駅は小さな無人駅である。駅前を少し行くと県道が走っている。これを左に曲がれば、すぐ近くに福井県立一乗谷資料館がある。一乗谷の遺跡はここを右に曲がり、さらに少し行って右に曲がり、一乗川に沿って進んでゆく。この道は結構距離があり、駅から遺跡の入口まで約25分(約2Km)かかった。


復原された武家屋敷(2)
左手には納屋、蔵、井戸などが当時のままに再現されている

復原された武家屋敷(1)
通りに面して門があり、門を入ると右手に主屋があり隣接して厠がある

奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

唐門(からもん)
幅2.3mの唐破風造り屋根の門。朝倉氏の遺構ではなく、後に建てられた松雲院の寺門として豊臣秀吉が朝倉義景の菩提を弔うために寄進したと伝わる

一乗谷遺跡付近の様子
一乗川、県道18号線に沿って山側に朝倉家の遺跡、川に沿った平地に復元された町並みが広がっている

九十九(つくも)橋
戦国期以来足羽川にかけられた唯一の橋だった。橋の南半分が石で、北半分が木で造られており、この構造は明治まで続いたという

足羽川(九十九橋より上流方向を望む)
福井中心部を流れる川で、少し下流で日野川と合流する

柴田勝家像
勝家は北ノ庄城を築いたが、その本丸はこの付近にあったという。石垣の石が一部残されている
勝家は町づくりにも創意を施し、城下の繁栄のために一乗谷から社寺、民家等を北ノ庄に移転させるなどに努めた

北ノ庄城址・柴田公園の様子
城跡といっても周囲をビルに囲まれた小規模な広場である。広場の一角に柴田神社があり、近くに柴田勝家の像が建っている。神社のそばには小さな資料館が建っている

福井市内散策

この日は、駅前のホテルを7:20頃に出発した。福井駅から一乗谷までの電車の本数が少ない(福井駅9:08発の次は12:49発になってしまう!)ので、9時頃までには駅に戻らなければならない。
福井駅から福井城跡はすぐ近くである。城跡には現在は福井県庁など大きな建物が建ち並んでいる。お濠にかけられた御本城橋を渡ると、正面に福井藩祖・結城秀康の像が建てられている。

再現された町屋の内部
陶器を扱う職人だろうか、部屋の中の様子と人の動きが再現されている

復原された町屋
手前の家の入口には大きな「染」の暖簾がかかっている。染物屋だろう

最近は昼食を食堂でとるということはあまりないのだが、久しぶりに食堂でボリュームのあるものを食べ元気に歩き始める。花堂の少し先に小さな川が流れている。芭蕉が本文で「玉江の蘆(あし)は穂に出にけり」と記した「玉江」はこの辺りだったという。古くからの歌枕になっていた。昔は玉江橋で渡ったが、県道は江端大橋という橋で渡る。すぐ近くに福井鉄道の鉄橋がかかっている。
さらに県道をタンタンと進んでゆくと浅水(あそうず)という町になり、その少し先に浅水川が流れている。これは、芭蕉が「あさむづの橋をわたりて」と記している川である。この川に架かる「あさむづの橋」も昔からの歌枕であった。

北庄城址

福井城址

永平寺へ

松岡

九頭竜川

えちぜん鉄道

松岡駅

武生駅

鯖江駅

福井駅

越美北線

一乗谷へ

北国街道

国道8号線

北陸本線

松岡から武生

元禄二年八月十一日(陽暦9月24日)夕方、芭蕉は一人で福井に入った。江戸で旧知の仲だった等栽の家を訪ねるためである。等栽の家に二晩泊まった芭蕉は、このあと等栽とともに敦賀に向かう。
松岡から福井までの芭蕉の歩いた道は、えちぜん鉄道のルートとほぼ重なっているようなので私はこの間は省略し、福井から歩き旅をスタートする。今日の私の予定としては、まず福井駅周辺の旧跡をざっと見物する。そのあと電車で一乗谷に向かい、一乗谷の朝倉氏遺跡を見学する。その後再び福井駅に戻り、あらためてここから鯖江(さばえ)まで歩くつもりである。

そのあと神明、水落などの町を通り、鯖江の町に入ってゆく。今日の私の宿はJR鯖江駅前のビジネスホテルを取ってあるので、とりあえず駅を目指して進む。鯖江の市街地を抜けてホテルに到着したのは15:30頃だった。少々早く着きすぎた感じもする。やはり、一乗谷の見学時間をもう1時間延ばしてもよかった(まだ言ってる)。今日は時々雨が降り、日差しはなかったもののとにかくむし暑い一日だった。駅前で夕食を買い込み、風呂に入り洗濯をしていたら夕食の時間になった。まあ、余裕の日があってもいいだろう。



  


門を入ってすぐのところに朝倉義景の館跡がある。この付近に10数棟の建物があった。これらはすべて礎石の上に角柱を立てた建物で、畳を敷き詰めた部屋も多かった。書院造りの成立過程を知る上で欠くことのできない貴重な遺構だという。この一乗谷が最も輝いたのは五代義景のときだった。義景を頼って足利義昭がやってくるなど一時は京の都を狙える最短距離にいたが、最後は織田信長との戦いに敗れ滅亡した。
館跡に隣接して「朝倉義景公墓所」がある。朝倉家が滅亡した後、村民が小祠を建て、その場所に福井藩主松平氏が墓塔を建立したものである。少し離れた場所に、この一乗谷に拠点を移した朝倉孝景の墓所もある。これは新しい立派なお堂の中に入っている。

一乗谷遺跡について
福井市南東部に一乗谷(いちじょうだに)と呼ばれる谷あいの地がある。朝倉孝景が文明3年(1471)に築城し、五代103年にわたって越前支配の拠点としたところである。一乗谷は足羽川の支流、一乗川に沿った東西約500m、南北約3Kmほどの谷である。この谷は北側だけが開けた袋状の地形で、天然の城砦であった。
朝倉氏は、安全なこの地に足利義昭をはじめ、戦乱に荒れ果てた京都を逃れた有力者や文化人を迎え、小京都と称されるほど栄えた。しかし、天正元年(1573)、天下統一を狙う織田信長により滅ぼされた。
次に越前を領した柴田勝家は、安全ではあるが越前平野の中心から離れて不便な一乗谷には見向きもせず、北庄(福井)に拠点を移した。以後400年、一乗谷は谷間の寒村に戻っていたが、昭和42年から発掘調査が行われ、多くの建物の基礎部がほぼ当時のままに発掘された。現在は武家屋敷や館跡、庭園跡が復原、整備されている。


一乗谷遺跡は、一乗川をはさんで山側に朝倉館跡、川に沿った平地に復元された町並みが広がっている。川を小さな橋で渡ると、正面に小さな唐風の門があり、その脇に「特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡」の石標が建っている。私は、まずこの門をくぐって館跡の見学をはじめた。

町並みの復原模型
管理棟に隣接した資料館に展示されていた町並みの復原模型。発掘や文献資料によりかつての様子が明らかになりつつある

復原された町並み
これまでの発掘調査によって一乗谷には当時、整然とした町並みがあったことが確認されている。現在200mにわたって復原されている

朝倉館跡を一通り見学したあと山を下り、復原された町並みを歩いた。北入場口から入ると一本の広い通りが続いている。この両側に200mにわたって当時の歴史文献を参考に町並みが再現されている。通りを少し行くと「復原武家屋敷」という門があったので入ってみた。ここには右側に母屋が建ち、左手は井戸、納屋、厠などが並んでいる。この屋敷は全体の規模の大きさから見て上級武士の屋敷だろうと考えられている。そこから少し進むと道に沿って商人、職人などの町屋が続いている。建物の中には当時使用していただろうと思われる道具や作業中の人物の復原人形なども置いてある。

朝倉孝景墓所
朝倉孝景は戦国大名の第1号とも言われる。家柄ではなく実力で人材を登用し武力で領国を拡大していった。最後は義景の代に滅亡する

朝倉義景墓所
館跡の東南の隅にある。村民が建てた小祠の場所に、福井藩主が墓塔を建てた。義景のときに一乗谷は最も繁栄したが、、織田信長との戦いに敗れ、朝倉家は滅亡した

朝倉義景館跡
この館は山城を背にして西を向き三方に堀と土塁を巡らし、門を開き、隅櫓を構えている。内部には10数棟の建物群が見られる
現在は礎石のみが残っている

北ノ庄城跡を見学したあと、私は足羽(あすわ)川のほとりに出た。この川にかかる橋の一つに九十九(つくも)橋がある。戦国期以来足羽川にかけられた唯一の橋で、昔の北国街道はこの橋で川を渡った。私はしばらく川のほとりを歩いて、この橋まで行ってみた。現在の橋は近代的なコンクリート橋であるが、昔は半石半木の珍しい橋として知られていた。
福井で芭蕉が訪れた等栽は福井俳壇の古老で、昔江戸で芭蕉と会ったことのある旧知の仲だった。等栽の家は正確にはわからないが、この橋を渡って少し行った顕本寺の付近だったらしい。近くの左内公園内に等栽宅跡の石碑が建てられている。芭蕉は教えられた家を訪ね、等栽と再会した。等栽宅に二晩泊まった芭蕉は、敦賀で一緒に名月を見ようと等栽とともに旅立つ。

次に、私は北ノ庄城へ向かった。いったん福井駅付近まで戻り、地図を見ながら探したが、少々ウロウロしてしまった。城跡というから大きな公園を想像していたのだが、実際にはあまり目立たない場所にある小規模な広場だった。広場の一角に柴田神社があり、近くに柴田勝家の像が建てられている。説明板によると、この付近に北ノ庄城の本丸があったという。神社の脇に小さな資料館があったので、見学がてら少し休んだ。今日は朝から小雨のぱらつくぐずついた天気で、気温が高く非常にむし暑い。

柴田勝家とお市の方(資料館説明板より)
勝家は尾張の国で生まれ、織田信長の重臣となる。天正3年(1575)8月、越前一向一揆を滅ぼした信長は、越前の大部分を勝家に与えた。勝家は北ノ庄に城郭を築き、壮大な天守閣を造営した。信長亡き後、天正11年(1583)4月、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた勝家は、同月24日北ノ庄にて、妻のお市の方とともに自害した。
お市の方は、織田信長の妹で絶世の美人といわれ、政略的結婚により近江の浅井長政に嫁ぎ、一男三女をもうけた。天正10年(1582)10月、三人の娘を連れて柴田勝家に嫁ぐが、翌年4月24日羽柴秀吉に滅ぼされる。勝家は娘とともに城を出るように諭したが、お市の方は三人の娘を秀吉の陣におくったのち、北ノ庄城で勝家とともに自害した。享年37歳と伝えられる。

本丸石垣と内堀
福井城は徳川家康の次男結城秀康が慶長11年(1606)に築城した。現在は本丸石垣と内堀のみ残る

御本城橋より城跡方面を望む
現在は城跡には福井県庁など大きな建物が建ち並んでいる

福井城下(説明板より)
福井城下は、越前松平家、福井藩68万石の城下町として、江戸時代初頭に整備されました。その頃、町の名は北庄(きたのしょう)と呼ばれており、福井藩祖・結城秀康は、柴田勝家によって築かれた城下を改修・整備し、慶長11年(1606)にはほぼ完成したといわれています。
三代藩主・松平忠昌は、町の名を北庄から福居庄(ふくいのしょう)と改め、18世紀の初頭には現在の福井に定まりました。
その後、福井藩は大幅に藩領を減らすことになりましたが、徐々に石高を戻し、幕末には32万石の城下町として、人口約3万数千人を抱えていたといわれます。

福井城跡を抜けて、反対側の橋を渡って養浩館庭園方面に向かう。市立郷土歴史博物館の大きな建物があり、その前の道を進んでゆくと長い塀が現れ、その内側には深い林が広がっている。これが養浩館庭園の林である。
養浩館は旧福井藩主松平家の別邸であった。昭和20年の福井大空襲により建物が焼失したが、昭和57年に庭園が国の名勝に指定されたのにあわせて建築物、庭園の復元事業が開始され、平成5年に完成した。
私が養浩館の入口に着いたのは8時頃。開門は9時ということで、まだ開いていなかったが、近くに人がいたので断って入口付近からの庭園の様子を写真に撮らせてもらった。復元された建物はここからは見えなかった。

浅水(あそうず)川
この川にかかる「あさむつの橋」も歌枕になっていた。『朝六つの橋は忍びて渡れども とどろとどろと鳴るぞ侘しき』 (宗祇 帰雁記)

江端大橋より虚空蔵川を望む
このあたりはかつて玉江といい歌枕の地だったという。県道に並行して福井鉄道が走る

一乗谷には大小さまざまな庭園が遺されている。それらの中で湯殿跡、諏訪館跡、義景館跡、南陽寺跡の4庭園が「一乗谷朝倉氏庭園」として平成3年(1991)、国の特別名勝に指定された。この4庭園の中では湯殿跡庭園が最も古く、四代孝景の時代に造られた。他の三庭園は義景時代の作庭で、庭石組の形式もよく類似している。後世に改変されることもなく、室町時代末期の庭園様式をよく伝えているという。

一通り見学し終わって、時計を見ると電車の到着時刻まで30分を切っている。ここから駅までは25分はかかるので、帰り道はかなりの早足で歩いた。電車には間に合いそれに乗ったが、無理しないで次の電車にしてもよかったと後で思った。駅で時刻表を見たら75分後に次の電車があった。これならもう少し余裕ができ、県立資料館も見学できたはずだ。


福井から鯖江(さばえ)へ

電車で福井に戻り福井駅から先を続ける。今日の宿泊予定地、鯖江まではここから約16Kmの距離がある。JR福井駅前に福井鉄道の駅がある。この電車はしばらく路面電車として走った後、通常鉄道になり鯖江を経て武生まで通じている。私がこれから歩く道は、ほぼこの電車のコースに沿っている。私が歩いた県道229号線は昔の北国街道に沿った道だと思われるが、まっすぐな交通量の多い幹線道路なので、旧道は別にあるのだろう。県道には途中で昼食をとるような場所も見つからなかったので、花堂(はなんどう)付近の食堂に入った。12:30頃だった。

県道229号線花堂信号付近
県道229号線は昔の北国街道に沿っていると思うが、交通量の多い幹線道路なので、旧道は別に残っているのだろう

福井鉄道福武線福井駅前駅
この電車は福井駅前から鯖江を経て武生まで通じている
ほぼこの電車の線路に沿って歩くことになる

湯殿跡庭園南門跡
庭園の南側の門跡。空堀の石垣が一部残っている。

特別名勝 湯殿跡庭園
本庭園は、一乗谷で最も古い四代孝景の頃の回遊式林泉庭園である。庭池は南北に細長く、周囲には山石の巨石による豪快な石組みがなされている

養浩館庭園の様子
書院風数寄屋造りの建物と回遊式林泉庭園は、江戸期を代表する名園と評価を受けていた。昭和20年の空襲で焼失したが、平成5年に復元事業が完成した。国の名勝に指定

養浩館庭園周囲の長い塀
武家の道という案内板が立っていたが、周りはそのような雰囲気ではない。やはり戦災を受けたということは歴史的建造物にとっては大きな痛手だ