奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

川辺近くから見た鶴仙渓
この川は大聖寺川の上流にあたる

芭蕉堂
黒谷橋から川辺に降りてゆく途中にある。中には芭蕉像が安置されている

黒谷橋
この橋から蟋蟀橋までの間は鶴仙渓と呼ばれ遊歩道が設けられている

山中温泉から大聖寺まで

山中温泉バスターミナルからは大聖寺駅行きと加賀温泉駅行きのバスが出ている。当初の予定では加賀温泉駅までバスで行って動橋(いぶりばし)から北国街道を歩いて大聖寺まで出ようと思っていたのだが、前にも記したように小松から松任まで歩きなおすことにしたので、時間短縮のため直接大聖寺にバスで向かうこととした。
山中温泉から大聖寺までは国道364号線をまっすぐに進む。この道は昨日、一部歩いている。山中温泉から大聖寺駅までは約10Km、バスで約25分くらいである。加賀温泉駅までもほぼ同じくらいだろう。


全昌寺(ぜんしょうじ)

大聖寺駅前に「城下町大聖寺見て歩きコース」という大きな案内図があった。大体のところを頭に入れて、全昌寺を目指して歩き始めた。しばらく歩くと山ノ下寺院群と呼ばれる地域に出る。このあたり一帯にはたくさんの寺院が集まっている。その中の一つに全昌寺がある。
八月五日芭蕉と別れた曾良は大聖寺に向かい、この日は全昌寺に泊まった。曾良はここで、『よもすがら秋風聞くやうらの山』と、師と別れての一人旅で一晩中眠れなかった様子を詠み残している。夜半から降り出した雨は次の日も降り続けたので曾良は一日滞留し、翌七日に出発した。芭蕉はこの日小松を出発して大聖寺に向かい、同じ全昌寺に泊まった。何時間か前に曾良が旅立ったことを知って芭蕉は、『一夜のへだて千里に同じ』と残念がる。
全昌寺は禅寺で、芭蕉は修行僧の寝起きする寮舎に休み、『読経声すむままに、鐘板(しょうばん)鳴りて食堂(じきどう)に入る』と、一泊の禅寺生活を楽しんでいる。さらに、朝食を済ませて旅立とうとすると、寺の若い僧たちが紙、硯をかかえて階段のところまで追ってきて、何かを書いてくれと懇願する。庭の柳の葉が散っていたので、『庭掃(はき)て出(いで)ばや寺に散る柳』と、書き残して旅立った。「おくのほそ道」に記された全昌寺でのエピソードである。
現在の全昌寺は、山門の正面に本堂、左手に五百羅漢堂、右手に本堂と連接してギャラリー、展示室などがある。また、五百羅漢堂の先に芭蕉と曾良の句碑が建っている。また、本堂の厨子の中に芭蕉門下の俳人杉山杉風(さんぷう)作の高さ15センチほどの芭蕉像がある。

芭蕉と曾良の句碑
羅漢堂の近くにある。向かって左側が芭蕉の『庭掃いて出でばや寺に散る柳』、右側が曾良の『終夜(よもすがら)秋風聞くやうらの山』である

五百羅漢像
慶応3年(1867)の作で、全部で517体あり、羅漢堂に収められている。一体ずつの寄進台帳や仕様書も残っているのは稀なことである

全昌寺本堂
全昌寺は大聖寺城主山口玄蕃の菩提寺で、山中温泉の泉屋の菩提寺でもあったので、その紹介があったようだ
拝観料500円

蕪村筆「おくのほそ道、山中の段」
蕪村は「おくのほそ道」全文を絵入りで筆写している。写真は芭蕉の館の前の石碑にはめ込まれているもの

芭蕉の館
泉屋跡の近くに建てられた記念館。建物の前に蕪村筆の奥の細道山中の段の碑、芭蕉と曾良の別れの像などが建っている

芭蕉と曾良別れの像
芭蕉の館の前に建てられている。像としては新しいものだ

菊の湯と道を隔てて芭蕉の宿泊した泉屋があった。芭蕉はこの泉屋で八日間を過ごした。この泉屋の当主はまだ十四歳の少年久米之助であった。芭蕉は弟子入りしたこの少年に自らの「桃青」の一字をとって「桃妖(とうよう)」の号を与えた。桃妖は芭蕉の期待に応え、後に「猿蓑」「北の山」等に入集し、北枝とともに加賀俳壇の発展に寄与した。この山中逗留中、北枝は芭蕉との俳諧談義を積極的に行い、このとき聞いた話を後に「山中問答」として出版している。そのような中で、曾良は芭蕉と別れて先に旅立つことを決心し、芭蕉に申し出て承諾された。芭蕉は「おくのほそ道」本文で次のように記している。
『曾良は腹を病みて、伊勢の国長島と云ふところにゆかりあれば、先立ちて行くに、
   行き行きてたふれ伏すとも萩の原 (曾良)
      (師と別れて旅を続け、道中行き倒れたとしても、それが萩咲く野でありたいと思います)
と書き置きたり。行くものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
   今日よりや書付(かきつけ)消さん笠の露   
      (今日からは一人になってしまうのだ。笠に記した「同行二人」の文字も笠に置いた露で消してしまおう。本当にさびしいことだ) 』
菊の湯(男湯)
ちょっとした広場を隔てて菊の湯(女湯)と相対している建物で、二つあわせて菊の湯となっている

菊の湯(女湯)と山中座(右)
かつての共同湯「菊の湯」の跡は現在も立派な共同浴場(女湯)となっている。隣には山中座という演芸場があり、みやげ物も売っている

蟋蟀橋からの眺め(鶴仙渓)
このあたりの川辺は鶴仙渓(かくせんけい)と呼ばれ、昔から湯治客の目を楽しませてきた

蟋蟀(こおろぎ)橋
この場所に元禄時代以前からかかっていたという。現在の橋は平成2年9月に竣工した総檜造りのものである

医王寺前の国道より山中温泉街を望む
町の方向が開けており、温泉街の様子がよく見える。中央左に菊の湯の建物が見える

医王寺
朱塗りの多宝塔がよく目立つ医王寺には行基菩薩像や山中温泉縁起絵巻など山中温泉を代表する文化財が多く収蔵されている

芭蕉が山中温泉に着いたのは、秋風が吹き始めた七月二十七日(陽暦九月十日)のことだった。曾良とともに案内役として付いてきた金沢の俳人・北枝も一緒だった。芭蕉はこの温泉に七月二十七日から八月四日まで八日間逗留した。これまでの長旅の疲れを癒すとともに、曾良の健康を心配した芭蕉の配慮によるものと思われる。病気になった曾良は、芭蕉に迷惑をかけたくないと思ったのだろう、八月五日に芭蕉に先行して大聖寺に向かうことになった。


山中温泉

山中温泉は大聖寺川上流の谷あいにある。温泉街は南の黒谷橋からこおろぎ橋にかけて、鶴仙渓(かくせんけい)と呼ばれる渓谷の西岸に広がっている。規模は小さいが、宿からの散策に最適な鶴仙渓は昔から湯治客の目を楽しませてきた。
私が宿泊した山中グランドホテルは温泉街から少し坂を登った国道364号線沿いにある。ホテルを8時頃出発した。ホテルから国道を少し登ってゆき、温泉街からの道が合流するところで温泉街方面に戻るつもりである。国道を少し行くと白山神社があり、さらにその少し先には医王寺がある。かつて湯治の客は毎日、ここに参り、自らの病の治癒を祈ったという。芭蕉と曾良も到着した次の日に早速お参りしている。医王寺の前の国道からは温泉街方面がよく見える。

私はこのあと電車で小松に戻り、小松から松任まで北国街道を歩いた。松任から再び電車で金沢まで戻り、金沢から夜行高速バスで帰京した。金沢22:30発で、新宿に到着したのは翌朝の6:30頃だった。


  


長流亭
この建物は、宝永6年(1709)に大聖寺藩三代藩主・前田利直の休息所として建てられた。元禄時代の名残を思わせる四阿造りに、当時の華やかさをしのばせ、国の重要文化財に指定されている

江沼神社
この神社の隣に大聖寺藩の藩邸があった。現在残っているのは江沼神社とその庭園、近くの別邸・長流亭のみである
境内にこの町で生まれた深田久弥の文学碑がある

大聖寺界隈散策

全昌寺を見学した後、1時間くらい大聖寺町周辺を散策することにした。全昌寺の前の道をまっすぐに歩いてゆくと、いろいろなお寺が建ち並んでいるが、やがて国道305号線に出、さらに小さな川沿いの道を進んでゆくと江沼神社に出る。そのすぐ先に長流亭という古い建物がある。これは大聖寺藩の第三代藩主利直が築いた別邸で、国の重要文化財に指定されている。ここまで行ってから大聖寺駅に戻った。

芭蕉の館の写真を撮ってバスターミナル方面に向かう。今日はここからバスに乗って大聖寺まで出る予定である。時間を見たら発車までにまだ40分くらいあるので、もう少し散策を続ける。バスターミナルから道を下ってゆくと黒谷橋に出る。橋の先から川に降りてゆくと、途中に芭蕉堂が建っている。これは明治43年(1910)に建てられ、芭蕉像が安置されている。大聖寺川の蟋蟀橋からこの黒谷橋の間は鶴仙渓といわれ、右岸沿いに遊歩道が続いている。湯治客には格好の散策道で、芭蕉も周りの景色を愛でながら散策したことだろう。

蟋蟀橋を渡って温泉街通りに出る。通り沿いには旅館や土産物屋などが建ち並んでいる。ぶらぶらと歩いてゆくと、やがて新しい大きな建物の前に出た。昔からの共同湯「菊の湯」である。昔の様子はわからないが、現在はちょっとした広場をはさんで男湯と女湯の二つの建物に分かれている。女湯に隣接して山中座という演芸場がある。いずれも建物としてはかなり新しい。
芭蕉は山中温泉について、本文で次のように記している。
『温泉(いでゆ)に浴す。其効有馬に次ぐと云。
        山中や菊はたおらぬ湯の匂(におい) 
(昔中国で、菊の露をすすって長生きをしたという話があるが、この山中温泉は効き目があるので菊の花を手折る必要はない。あたりは効能の高い温泉の湯の匂いで満ちているのだから)  』

無限庵の少し先に「こおろぎ橋」がある。『元禄時代以前からかかっている橋で、山中温泉の代名詞ともいえる名勝です』という説明板が立っている。さらに『この付近は岩石が多く、行く路は危なかったので「行路危(こうろぎ)」と言われ、また、秋の夜可憐に鳴く蟋蟀(こおろぎ)の声にちなんで名づけられたとも言われています』。芭蕉はここでかがり火を焚いて川魚を捕る光景を見て、『いさり火にかじかや波の下むせび』(北枝編「卯辰集」)と詠んだ。

医王寺から国道をさらに登ってゆくと「こおろぎ町信号」があり、ここで温泉街を抜けてきた道が国道に合流する。この道を通って温泉街方面に下ってゆくことにする。少し行くと「無限庵」「こおろぎ橋」の案内標識が出ているので、そちらに向かう。標識にしたがって歩いてゆくと、無限庵の前に出た。この建物の少し先に「こおろぎ橋」があるのだが、ひとまずこの建物を見学することにした。無限庵は、金沢市にあった横山家の書院を中心にこの場所に移築したもので、明治末期の建築であるが当時の木造技術の粋を傾けた最高級の普請であったという。

無限庵自然庭園
建物から川に下りてゆく遊歩道があり、周りは自然庭園としてよく整備されている

無限庵書院
書院の主室で、武家邸宅書院の伝統を継承する近代の書院造として貴重な遺構といえる。その他古九谷、尾形光琳の団扇などの展示がある

無限庵入口
無限庵の建物は、もと金沢市にあった横山家邸宅の一部を移築したもの。1980年代より一般公開中