深田久弥山の文化館
深田久弥の生家が「山の文化館」として公開されている。残念ながらこの日は休館日で中を覗くことはできなかった

大聖寺川下り乗船場
この川は大聖寺川の古い流れで、新しい川は少し離れた場所を流れている。古い流れ沿いには趣のある風情が残っている

大聖寺川と国道305号線
大聖寺川と国道が並行するようになる。川沿いの道は木陰のまったくない道が約2Kmくらい続く

大聖寺藩関所跡石標
藩政時代の番所の跡で、主に女性の出入りの監視が役割だったという。現在も関町の地名が残っている

吉崎御坊古絵図
本願寺吉崎別館資料館展示のもの
北潟湖の中に突き出した半島のような地形で天然の要塞になっていることがわかる

蓮如上人と吉崎 (資料館説明板より)
蓮如上人が近江を出て吉崎に向かったのは文明3年(1471)4月のことで、上人57歳であった。吉崎は加賀の国との境に近い辺鄙な場所であったが、ここに本願寺の居所を定めたのは越前、越中地方は本願寺が早くから教化を試みていたところで、門徒の組織化に希望の持てる地域であったこと、そして吉崎は蓮如の親しく交際していた奈良興福寺の経覚の支配地であったため、容易に事を運ぶことができたためと思われる。
上人が坊舎を建立して2年余を経過した頃には道俗男女群参し、多屋が建ち並び民家も200軒と増え、寺内町を構成していた。文明6年には坊舎が火災で焼失し、加賀門徒が一向一揆を引き起こすなど憂慮すべき問題が相次いで生じ、しだいに安泰に経営できる状況ではなくなった。このため上人は吉崎退去を決意し、7年8月には吉崎の地を去った。



奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

吉崎御坊跡

本願寺吉崎別院の脇に吉崎御坊跡への登り道がある。石畳の急な坂道を5分ほど登ると御坊跡につく。樹木の茂った広場の正面奥に御坊本堂跡の大きな石標がある。、その左手には蓮如上人の大きな高い像が建っており、御坊跡全体を見守っているかのようだ。右手の遊歩道からは北潟湖の入江を見下ろすことができる。その少し先には青い日本海が見える。御坊跡に着いたのが11:30頃、ベンチも置いてあるので、海の方面を見ながら昼食にした。
昼食後、同じ道を戻り本願寺吉崎別院に参拝する。境内に小さな資料館があったので寄ってみた。蓮如さんの吉崎における事跡が説明、展示されており、いろいろと参考になる。

県道29号線は吉崎で国道と別れて北潟湖の対岸を通ってきた道で、これが旧北国街道の道筋である。合流点から先は私も北国街道を歩くことになる。やがて「嫁威(よめおどし)」の道路標識が現れた。ここから少し先に小さな八幡神社があり、ここに「嫁おどし谷」の説明板が立っていた。今はまったく昔日の面影はないが、かつては昼なお暗い藪陰の道であったという。

「嫁おどし谷」説明板より
昔、蓮如上人が吉崎のお山におられた時のことである。山十楽の百姓与三次の妻きよは夫と二人の子供に先立たれて世の無常を感じ深く仏教に帰依した。そして、毎晩のようにここを通って吉崎へお参りした。
しゅうとの婆さんは邪険な人で、これをやめさせようとして或る闇の夜ひそかに鬼の面をかぶって、この谷から躍り出て嫁をおどした。しかし、信心深いきよは少しも恐れず、念仏を唱えながら吉崎へ向かった。あとで、しゅうとの婆さんもおのれの所業を恥じ、懺悔し無二の信者になったという。嫁おどし肉付の面は今も吉崎にあり、信仰の力と蓮如上人の徳化の偉大さを物語る語り草になっている。

「嫁おどし谷」説明板のある八幡神社
道のすぐ側に小さな八幡神社があり、その鳥居の脇に「嫁おどし谷」の説明板が立っている

県道29号線「嫁威」標識付近
この道は旧北国街道の道筋で、古い言い伝えが地名として残っている

金津坂ノ下交差点付近
この付近から県道29号線は市街地の道となる。付近にバス停があり、芦原温泉街、東尋坊方面にも出ることができる

照厳寺
街道から参道が続き、立派な山門が見えたので寄ってみた。古い大きなお寺だ

金津

福井へ

松岡

丸岡城

丸岡

松岡駅

永平寺口駅

えちぜん鉄道

天龍寺

永平寺

九頭竜川

国道8号線

丸岡駅

芦原温泉駅

大聖寺から永平寺まで

芭蕉が北枝を伴って大聖寺を発ったのは八月八日(陽暦九月二十一日)のことである。大聖寺川に沿って一里ほどで加賀と越前の国境の吉崎に至る。吉崎は、浄土真宗中興の祖といわれる蓮如が文明3年(1471)に、北陸布教の根拠地として道場を築いた地である。芭蕉はこの御坊跡を訪ねた後、対岸にある歌枕の地「汐越の松」に舟で渡っている。曾良が同行していないので、その後の動向ははっきりとはわからないのだが、丸岡を経て松岡の天竜寺の古い知人を訪ね、ここから永平寺に向かったようだ。

深田久弥文学碑
本殿への参道脇にある。『山の茜(あかね)を顧みて一つの山を終りけり 何の俘(とりこ)のわが心 早も急かるる次の山 深田久弥』
とある

江沼神社庭園
この庭園は、旧大聖寺藩の園地で、三代藩主前田利直が宝永6年(1709)藩邸再建に伴い長流亭とともに築造したものである

江沼神社本殿
大聖寺藩の始祖・前田利治と菅原道真を祭る神社で、建物は明治以降に作られたが、その庭園は大聖寺藩邸の園地となっていた

このあと江沼神社の入口まで戻り、大聖寺川に沿った道を上流方向に少し行くと、「大聖寺川下り」の乗船場があった。ここから大聖寺川の船下りができるようだ。さらにその少し先に「深田久弥 山の文化館」の案内が出ているのでそちらへ向かう。大聖寺川の橋を渡るとすぐに長い立派な塀をめぐらした家が見える。これが深田久弥山の文化館で彼の生家である。この日は残念ながら休館日で、中に入ることはできなかったが、昔の木造の建物をそのまま文化館として利用しているようだ。

再び川を渡り、元の道に戻る。ここからは川からはなれて少し町の中の古そうな道を進む。いかにも旧道といった感じの道が続き、古いつくりの家も散見される。少し先に「北国街道 大手門通り」という案内標識があった。この辺がかつての大聖寺の町の中心部だったのだろう。

嫁威を過ぎてしばらくすると照厳寺というお寺があったので寄ってみた。古い大きなお寺だ。このあとは県道29号線をタンタンと歩く。山十楽、花乃杜などという集落を過ぎ、やがて金津坂ノ下信号に出た。ここから、あわら温泉街までは約3Kmと近く、東尋坊、三国方面へのバスも通っている。私は福井県を歩くのは初めてのことなので、当初の計画ではここからバスで東尋坊に出て観光した後、あわら温泉に泊まろうかと考えたのだが、結局、今回の旅では寄り道せず奥の細道の旅をそのまま続けることにした。

金津から丸岡へ

金津坂ノ下信号から先は県道29号線は交通量の多い道となり、北国街道の面影は失われる。金津は宿場町だから旧道と宿場町の面影は別のところに残っているのだろうが、私はそのまま県道を進む。金津を通過したのが15時頃、日はあかあかと照りつけ、これまでにスポーツ飲料のペットボトルを7、8本は飲んでいるだろう。この日の最高気温は32度くらいまで上がったようだ。暑さの中、とにかく先に進む。金津信号から5Kmくらい歩くと蔵垣内という信号がある。ここで左に曲がりしばらくしてから右に曲がると旧北国街道筋に出る。これをまっすぐに進んでゆくと北陸線の踏切があり、丸岡駅はすぐ近くである。丸岡駅に到着したのは16:30頃。今日の歩き旅はここまでとし、電車で福井に出て駅前のビジネスホテルに宿泊した。

県道109号線(旧北国街道)
旧北国街道は北陸線踏切を越え、さらにまっすぐに続いている。丸岡駅はこの踏切から見える場所にある

県道29号線蔵垣内信号
同じ蔵垣内の信号が二つ並んであり、先のほうの信号で左に曲がる
少々ややこしい信号だ

大垣に向け最後の旅立ち

奥の細道結びの地・大垣に向けて、私は9月3日東京を出発した。新宿駅西口23:50発の夜行高速バスで金沢に向かう。翌朝の6:40ころ金沢に到着する。予定より1時間くらい早く着き、得したような気分になる。早速電車で大聖寺に向かい、大聖寺駅には8時頃到着した。いよいよ大垣に向けて最後の旅のスタートである。

大聖寺界隈

予定より少し早く大聖寺駅に着いたので、大聖寺界隈を少し念入りに散策してみることにした。前回少し周辺を歩いているので大体の見当はつく。駅前の道をまっすぐに進むと国道305号線に出る。これを左に曲がりまっすぐ行くとやがて「山ノ下寺院群 全昌寺 実性寺」の大きな道路標識が見えてくる。これを左に曲がりまっすぐに行けば全昌寺があるが、私は前回見学しているのでこれは省略し、国道をもう少し進む。少し先に「江沼神社 長流亭 大聖寺城址」の道路標識があるので、これにしたがって右に曲がる。

国道305号線江沼神社への道路標識
江沼神社、長流亭はここで右に曲がる

国道を右に曲がると小さな川が流れている。この川に沿って桜並木が続いており、やがて錦城小学校の前に出る。この場所に加賀蕃の支藩、大聖寺藩の藩邸があったという。小学校に隣接して江沼神社がある。この神社の庭園は旧大聖寺藩邸の園地であった。本殿への参道の脇に「日本百名山」の著者として有名な深田久弥の文学碑が建っている。彼はこの近くで生まれ育った。

江沼神社の境内脇の道を進んでゆくと長流亭の前に出る。ここまでは前回も来ているので、今回は周囲の様子をもう少し観察することにした。建物は大聖寺川の川辺に建っている。少し先に橋がかかっているので、これを渡って対岸から眺めた。深い木立の中に建つ長流亭はなかなか趣がある。昔、殿様が窓から糸をたらして釣をしたという話が実感としてわかる風景だ。

県道29号線

大聖寺

国道8号線

(北国街道)

汐越の松

吉崎御坊跡

大聖寺川

国道305号線

北潟湖

北陸本線

大聖寺駅

日本海

大聖寺から吉崎へ

国道305号線に戻り先を続ける。少し行ったところの国道脇に大聖寺藩関所跡の石標が立っていた。藩政時代この場所に番所があり、女性の出入りを監視していたという。。やがて国道は北陸自動車道と立体交差し、それから先は大聖寺川と並行するようになる。大聖寺川も海に近くなり川幅の広い堂々とした川になっている。川沿いの道は約2Kmくらい続き、さえぎるもののない川沿いの道はジリジリ照りつける太陽がきつい。それでも時折川面を渡る風は秋を感じさせてくれた。『あかあかと日は面難(つれなく)も秋の風』の句が脳裏をよぎる。しばらく川沿いを歩いてゆくと、やがて加賀市吉崎町の標識が見えてきた。

吉崎

加賀市吉崎町の道路標識から少し行くと、今度は「ようこそ福井県へ 蓮如の里 吉崎御坊跡」の大きな案内看板が現れた。昔から吉崎は一つの村が加賀領と越前領に分かれていた。吉崎は北潟湖の入江に面している。この入江の少し先で大聖寺川が合流し、一緒になって海に流れ出す地形となっている。北潟湖の入江に面した小高い丘の上に浄土真宗の蓮如が御坊を建設した。建設に取り掛かったのは文明3年(1471)のことだった。吉崎御坊はその後、一向一揆の拠点のひとつとなり、戦火に焼き尽くされて現在は建造物は何も残されていないが、かつて御坊のあった場所は旧跡として保存されている。現在はその御坊跡への登り口に東西本願寺の吉崎別院が建てられている。

吉崎から金津へ

芭蕉は吉崎の近くにある歌枕の「汐越の松」を見ておきたかった。西行が詠んだとされる『終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松』に惹かれていたからである。この松は北潟湖の対岸の小山の中腹にあったようで、芭蕉は舟で渡っている。私はこれは省略し先を続ける。国道305号線をしばらく進むと浜崎信号があり一般道が分かれてゆく。「芭蕉の旅のルート」を見るとこちらの道を通っているようだが、ゴルフ場を突っ切っているような道なので、私はそのまま国道305号線を行くことにした。国道は北潟湖沿いに続いている。またしても「日はあかあかとつれない」道である。やがて湖沿いに集落が現れ、松崎神社の先の北潟東信号で左に曲がり、県道120号線にはいる。少し先で北潟湖を渡り、さらにまっすぐに進むとやがて県道29号線に合流する

北潟東信号付近
しだいに集落となり、松崎神社の先の北潟東信号で左に曲がり、少し先で北潟湖を渡る

北潟湖沿いの国道305号線
国道305号線は吉崎を出た後、北潟湖沿いに約4.5Kmほど続く

北潟湖の対岸から御坊跡を望む
国道を進むと橋で北潟湖を渡り、吉崎の対岸に出ることができる。ここからは御坊跡の地形がよくわかる

北国街道沿いに残る古い商店
大聖寺藩の中心部を通るこの道は多くの商店や旅籠などが建ち並んでいたのだろう

北国街道 大手門通り
道の脇に案内標識が出ているので、これが北国街道の名残であることがわかる

本願寺吉崎別院
現在は国道の近くに本願寺吉崎別院が建っている。この寺院の脇に吉崎御坊跡への登り口がある

吉崎御坊跡の大きな看板
「ようこそ福井県へ」の道路標識があるように、吉崎御坊は越前領内にあった

御坊跡より北潟湖、日本海を望む
御坊跡からは北潟湖とそれにつながる日本海の様子がよく見える。ここは一向一揆の拠点のひとつにもなった場所である

蓮如上人像
高村光雲作で、御坊跡全体を見渡せるような高い場所に建てられている

吉崎御坊跡の様子
急坂を5分くらい登ってゆくと平坦地になる。ここが吉崎御坊跡で、公園のように整備されている。正面奥に本堂跡の大きな石標が建っている

対岸から見た長流亭
すぐ先の橋で対岸に渡ることができる。対岸から眺める長流亭もなかなか風情がある
昔、殿様がこの建物の窓から釣をしたという話が伝わっている

長流亭
この建物は、宝永6年(1709)に大聖寺藩第三代藩主前田利直の休息所として建てられた。元禄時代の名残を思わせる四阿造りに当時の華やかさをしのばせ、国の重要文化財に指定
内部参観は要予約