大神(おおみわ)神社裏参道と鳥居
最寄駅の野州大塚駅からは、この裏参道から入ることになる。時間も時間なので、人の姿はまったく見えなかった

大神神社本殿
大神(おおみわ)神社は、今から1800年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀し創立したと伝えられる。下野国の惣社となっていた

奥の細道歩き旅

今回は古河(こが)から壬生(みぶ)まで歩く。5月21日、今日もさわやかな晴天である。古河、野木、間々田、小山と日光街道を進み、小山から壬生道に入り壬生に向かう。途中に「室の八島」という古来有名な歌枕の地があり、そこに立ち寄るためである。

芭蕉は「おくのほそ道」の中で、ようようのことで草加宿に着いたと記した後、室の八島に着くまでの道中の様子などは一切ふれていない。芭蕉にとっては、日光道中などの大通りを歩くことは現在の国道を歩くようなもので、あまり感興が湧かなかったのかもしれない。芭蕉の旅は古くからの歌枕の地を訪ねる旅でもあった。まずは最初の歌枕の地・室の八島を目指して、黙々と道中を歩いていたのだろう。

神社の裏参道の少し先に県道があり、これを行けば壬生駅まで出ることができるが、3Km以上はありそうだ。神社を出たときはもう17:30頃だったので、下手すると途中で暗くなってしまうかもしれない。少々焦り気味で、県道を歩いた。壬生駅に着いたのは18:15。あたりは薄暗くなり始めていた。

大神神社のある辺りというか、かつて下野国府のあった辺りは、けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として都まで聞こえた名所だった。幾多の歌人によって多くの歌が残されている。芭蕉もこのことをよく知っていて、わざわざ遠回りをしてこの地を訪れているのである。芭蕉はこの地で「糸遊(いとゆう。かげろうのこと)に結びつきたるけぶりかな」という句をのこしている。かつて、この地は湿地帯で池が多く、水蒸気が立ち昇るのが煙のように見えたので、煙を読み込むのが慣わしになっていた。そこで、芭蕉も煙を読み込んだ句を作ったのである。芭蕉は「おくのほそ道」本文では、「室の八島」について曾良の語る神社の縁起談をあげただけで、その景観については何の記述も見られないが、その実景が芭蕉の期待に反したからであろうか。
現在、大神神社の境内には、後世造られたものであろう室の八島という池があって、池の中に小さな島が八つあり、それぞれ小さな社が祀られている。島と島は小さな橋で結ばれており、すべてをめぐることができる。その入口に大きな芭蕉の句碑が建っている。


「室の八島」について 
 [室の八島保存会」の方から大変参考になる資料をいただきましたので、以下にご紹介します。
「本来の室の八島は、かつて下野国府の周辺にあったと推定される広範囲にわたる湿地帯・沼沢地に存在した景勝地と推測されますが、1100年頃までには景観を失い、1150年頃までには室の八島と呼ばれる場所が下野国府の集落一帯に移ります。
室の八島の煙は、恋心ー火ー煙の縁語関係から生まれた「恋の煙」です。
室の八島の和歌がはじめて登場するのは900年頃ですが、室の八島=水蒸気説が登場するのは1100年頃です。水蒸気では恋と結びつかないので、本来はありえません。
「奥の細道」の旅における下野国の最大の目的地は室の八島です。当時室の八島は下野国随一の名所でした。既に日光に東照宮が造られていましたが、日光にその地位を奪われるのはもっと後のことです。
芭蕉たちが室の八島を訪れた当時(江戸時代はじめころ)から、室の八島の池は存在しました。ただし、池に祭ってある小祠が室の八島の一部とみなされるようになるのは戦後です。
芭蕉が室の八島の景観に触れていないのは、室の八島が神社(の境内一帯)であるなどとははじめて聞く話であり、それまで抱いていたイメージとはまったく異なるので、そのまま信じることはできないが、曾良が自信たっぷりに話すので、そういうこともあるだろうかと、半信半疑だったからです。つまり、ここが室の八島であるという確信がもてなかったからです。
神社が室の八島に絡んでくるのは江戸時代からといいますか、「奥の細道」からです。」

なお、室の八島の歴史について興味のある方は、こちらをご覧ください。

(総行程 約34Km)





東武宇都宮線壬生駅
18:15に駅に着いた。駅の電気が明かるかった

東武線思川鉄橋を望む
鉄橋が見えたときはホッとした。この道は間違えていなかったと

古河から野木へ

JR古河駅には9時頃到着した。古河駅前をまっすぐに行くと県道にぶつかる。これが日光街道旧道である。通りには結構車も多く、宿場の雰囲気はまったくない。古河には古くから古河城があり、江戸時代には譜代大名が城主であった。城址公園や歴史資料館などもあるが割愛して先に進む。旧道はだんだんと車の通行も少なくなり、やがて左側に石の鳥居が見えてくる。野木神社である。鳥居の先、本殿までは300mくらいの長い参道が続いている。野木の集落は、はじめこの神社の周りにできたが、街道の整備とともに少し先の街道沿いに集落が移り、宿場として発達した。

神社の少し先で旧道は国道と合流する。その国道脇に「日光道中野木宿」の説明板が立っている。この説明板のあるあたりが宿場の中心だったのだろう。しかし、この説明板以外にはかつてここが宿場であったことを示すものは何も残っていない。少し先に満願寺があるが、これは宿場の中にあった。、やがて、JR野木駅入口の信号が見えてくる。

野木から間々田へ

野木から国道歩きが続くが、この国道はいかにも旧道をそのまま拡幅したという感じで、古いj神社とかお寺などがしばしば街道脇に現れる。しばらく行くと、国道沿いに法音寺、その向かい側に八幡神社が見えてくる。今は家並みが続いて遠くの景色は見えないが、江戸時代にはこの辺から遠くの山並みが望めるようになり、将軍の日光参詣の折にはこの八幡神社で小憩するのが通例だったという。
やがてJR間々田駅入口の信号が見えてくる。間々田宿はこのあたりにあったが、それらしい名残などはまったく見られない。 芭蕉はこの間々田宿に2日目の宿をとっている。前夜の宿泊地、粕壁からは約37Kmの距離である。

間々田宿付近の様子
芭蕉はこの宿に2日目の宿をとったが、宿場の名残はまったくない

八幡神社
この付近は、山々の眺めがよく、将軍の日光参詣の折には」、ここで一休みするのが通例となっていたという

国道脇の法音寺山門
この山門の仁王様は、ガラス張りの中に鎮座している。排気ガス対策だろうか

小山宿

やがて、国道に東京から75Kmの道路標識が現れる。この少し先で国道はバイパスとして別れてゆき、旧道が小山市街地に入ってゆく。この分岐点付近に安房神社の鳥居が立っている。鳥居の先にはかなり長い参道が続いているのが見えるが参詣は省略して先に進む。旧道に入ると、古い面影を残した家も所々に見られるようになる。
小山は関東北部の交通中心地として発展した。小山城は、藤原秀郷が平将門追討の折にはじめて築城したというから、かなり古い歴史がある。その後小山氏が守り、のち北条氏の持城となったが、北条氏滅亡とともに廃城となった。宿場は、街道に沿って細長く続いており、大きな宿場だった。

旧道沿いの古い家
旧道沿いには古い構えの家が時折見える

安房神社鳥居と参道
分岐点の付近に安房神社がある。鳥居は国道に面しているが、本殿はずっと奥にある

東京から75KMの標識付近
この少し先で国道は小山のバイパスとして分かれてゆく

さらに進むと、左側に須賀神社の鳥居が見えてくる。鳥居から本殿まで長い並木の参道が続いている。この神社は近郷の総鎮守で、かなり大きく格式もあるようだ。街道に戻り少し行くと、道の脇に「小山宿通り」という標識が立っている。このあたりが宿場の中心で、本陣、脇本陣、問屋場などがあったようだが、現在ではそれらの遺構は見られない。少し先にJR小山駅があり、街道からも見える。
小山は大きな町だから、どこか食堂に入って食事をしようと思い、今日は弁当の用意をしていない。ここで駅の近くまで行けば、食堂もたくさんあったのだろうが、そのまま街道を進んでいったらだんだんとにぎわいも薄れ、食べ物屋もなくなってしまった。ようやく宿はずれ付近でラーメン屋を見つけ、遅い昼食にした。時計を見ると、13:20だった。かなりすっぱい冷やし中華だったが、おなかもいっぱいになり、また元気に歩き始める。

小山宿の古い海産物問屋
宿場通りに嘉永年間創業という古い海産物問屋があった

小山宿通り
このあたりが小山宿の中心だったようだ。本陣、脇本陣、問屋場などがあった。JR小山駅に近い

須賀神社本殿
旧道脇に立っている鳥居から本殿まで、全長約400mの並木の参道が続いている。この付近の総鎮守だ

喜沢から壬生道に入り飯塚へ

旧道はやがて国道と合流し、さらにその少し先の喜沢信号で左に曲がり壬生道に入る。この道は日光道中が整備される2年程前、東照宮の造営のときに使用された道で、日光道中より6Kmほど近いため利用されることが多かった。芭蕉もここで壬生道に入った。曾良の旅日記には、喜沢の右のほうに広い屋敷があり目印になったと記しているが、いまではそのように目印になるものはなく普通の交差点である。
壬生道(県道、小山 壬生線)に入って少し行くと、道の脇に「日光街道西一里塚」の説明板が現れた。この辺一帯は小山カントリークラブとなっており、この一里塚もその敷地内に入っている。東西両塚とも残されているが、東側のほうが当時の面影を残している。
日光街道は古河から先、野木、間々田、小山とかつての宿場町が続き、街道筋に商店や民家の絶えることがなかったが、壬生道に入りようやく道の周りには田園風景が広がり始めた。道はまっすぐに続き、扶桑のT字路で左に曲がる。この少し先で、姿川を渡り、少し行くと飯塚である。ここには、かつて宿場があった。


壬生道から姿川を望む
思川(おもいがわ)の支流で、芭蕉はこの川を徒歩で渡った

壬生道(県道18号線)の様子
日光街道とは異なり、周りには田園風景が広がるのどかな道である

日光街道西一里塚
直径約3.3m、高さ約1.8mの塚が東西2箇所にあるが、周囲に溶け込んでおり、説明板がなければ、気がつかないで通り過ぎてしまうだろう

飯塚から室の八島へ

飯塚はかつて宿場町であった。現在も街道沿いには旧家らしい大きな家も見える。町を通り過ぎると、道の両側に塚が二つ並んでいるのが見えてくる。飯塚一里塚である。この一里塚の少し先で、国分寺町に入る。ここには下野国分寺跡がある。その先の花見ヶ岡信号で道は十字路になる。壬生まで行くにはこのまままっすぐ壬生道を進めばよいのだが、芭蕉のあとを追って私も室の八島のある大神(おおみわ)神社に立ち寄るため、ここを左に曲がる。この道は栃木市方面へ至る県道である。

しばらく行くと、思川の流れにぶつかる。芭蕉はこの河原を歩き、川を渡っている。現在は大光寺橋で川を渡る。室の八島のある大神(おおみわ)神社までの道筋は詳細な地図がないので、たどるのに大変苦労した。
橋を渡りきり、右岸の川沿いの道を上流に向かってしばらく行くと、左に曲がるまっすぐな道がある。これを曲がって少し行くと、「惣社河岸」の碑がある。さらにまっすぐに行くと醤油工場が見え、その前のT字路を左に曲がる。少し先で自動車道路にぶつかるのでこれをわたり、さらに細い道をまっすぐ進む。しばらくすると道はまたT字路になるので右に曲がる。このあたりで人に道を尋ねたら、前方に見える大きな森のあたりがその神社だという。まっすぐに進んで行くとどれが神社の森だか分からなくなり、再び人に尋ね、ようやく神社の裏参道に到達した。あとで地図を調べると、最初に道を聞いた地点から二つ目の道を左に曲がるのが正解のようだ。それを道なりに進めば神社の表参道に出られるようだ。
曾良は旅日記の中で、「小倉川の川原を通り、川を越え、惣社河岸についた。そこから室の八島のある毛武(けぶ)村まで乾(北西)の方向に五町(約545m)ばかり」、ということを記しているが、惣社河岸の碑のあるところから現在の「室の八島」のある神社までは1.5Kmくらいある。曾良が記しているのはあくまでも村までの距離だということらしい。この村は葵生(けぶ)村といい、そこに「室の八島」があるということを村人が教えてくれたのだ。

惣社河岸の碑
奥の細道紀行300年記念に立てられた石碑
芭蕉は、ここを通っていった

思川右岸沿いの道
川沿いの道を上流方向にしばらく歩くと、左に曲がる道がある

大光寺橋から上流方向を望む
橋の上流には大きな堰が設けられ、川の様子は昔とは一変している

大神(おおみわ)神社室の八島

ようようのことで大神神社に着いた。途中、道に迷ったので、神社に着いたのは17:10頃だった。だいぶ日が延びているのでまだまだ明るいが、冬だったらもう暗くなっている時間だ。私は、結果として裏参道から入ったが、電車で訪れるときはこの裏参道から入ることになる。最寄駅は、東武宇都宮線の野州大塚駅である。時間も遅いので、野州大塚駅に出ようかとも思ったが、次の行程を考えるとやはり今日のうちに壬生駅まで行っておきたい。壬生まではここから3Kmくらいだろうか。

飯塚の一里塚(道の両側に残っている)

かつての宿場、飯塚の様子

古河市内の旧道の様子
旧道の周辺に宿場の遺構らしきものは、まったく見られない

野木神社本殿
古くから野木の鎮守として尊崇された
野木集落はこの神社の周りに発達したが、のちに街道沿いに中心が移っ

国道脇にある満願寺
野木宿内にあった古いお寺。国道沿いに建っている

野木宿説明板のあるあたり
国道沿いのこのあたりが宿場の中心だったのだろうが、その名残はまったくない

奥の細道歩き旅 第2回

室の八島入口に建つ芭蕉句碑
「糸遊に結びつきたるけぶりかな」の句碑。糸遊とはかげろうのことである

室の八島
池の中に八つの島があり、それぞれに小さな社が祀られている。島と島は橋で結ばれている