奥の細道歩き旅 第2回

小松駅前
本日のゴール小松駅に無事到着したときは本当にホッとした。雨中の歩き旅お疲れ様でした。(右は宿泊したハイパー・ホテル小松)

県道4号線能美市三道山町付近
ゴールの小松まであと1時間半くらいの地点。雨の中、二人ともタンタンと歩く。左は合羽姿の大西さん

奥の細道歩き旅 白石〜槻木

手取川橋より白山方面を望む
手取川は霊峰白山に源を発する大河である。手取橋から残雪の白山を望むことができた

手取川橋
かつて「粟生の渡し」のあったこの場所に明治21年はじめて木橋がかけられた

街道から望む白山
6月でもまだかなり雪が残っている。さすが白山だ

旧北国街道水島付近
水島はかつて宿場だった。水島郵便局のポストの脇に「一里山跡」という石標が立っていた

国道8号線福留西信号付近
この信号で県道157号線(旧北国街道)が左に分かれてゆく

聖興寺本堂と境内の様子
本堂に向かって左側横に千代尼塚がある。遺芳館は右手である

山門横の石標
「千代尼塚在此境内」と記されている

聖興寺山門
山門の右横に千代尼塚が境内にあることを示す石標が建っている。境内の千代尼塚とともに千代の25回忌に当たる寛政11年(1799)に建てられた

通りに面した古い商店(木村屋麹店)
建物の脇に「松任御傳馬所跡」の石標が立っている

「右京都道」標石
復元されたものだが、元々ここに立っていたのだろう

松任中心部(四日市信号付近)
道のかどに「右京都道」の標石が立っている。少し先には高札場跡などの標石もありこの辺が宿場の中心だったのだろう

松任から小松へ、正規ルートへの再チャレンジ

私は次の日は小松から山中温泉まで歩き、その次の日は山中温泉から大聖寺まで歩く予定だった。しかし、松任から小松までの正規ルートを歩きたいので、山中温泉〜大聖寺間はバスを利用し、それで捻出した時間で小松〜松任間を再び歩くことにした。この日は金沢から夜行バスで東京に帰る予定なので、ちょうど帰り道の一部を歩くという形で小松から松任まで逆コースで歩くことにした。
以下に、この間のコースガイドとして主な道順と道中の風物を記しておこう。ただし、この道順が本当に旧街道として正解かどうかはわからない。あくまでも私の持っている大雑把な地図に基づく推定である。


宿場町・松任(まっとう)の中心部

野々市を出てから国道157号線、県道291号線を通り松任市街に入ってゆく。松任はかつて北国街道の宿場町だった。松任警察署の次の東三番町信号を左に曲がり400mくらい先の四日市信号を右に曲がる。この曲がり角に「右京都道」の道標が建っている。その少し先に木村麹店の古い構えの店がある。この建物の脇に松任御傳馬所跡の石標が建っている。近くに高札場跡などの標石も見える。このあたりが宿場町・松任の中心部だったのだろう。

(付記)
私は帰ってから撮影した写真をもとに歩いた経路を推定し、距離を計測したところ、出発地点から小松まで約35Km歩いたことがわかった。また、道を間違えないですんなり歩いたときには約31Kmということもわかった。約1時間近く余計に歩いたことになるが、それはそれで貴重な経験だ。このようなことでもなければ絶対に歩かないような道を歩くことができたのだ。このときのことはこれからも忘れることはないだろう。

野々市にて

国道を30分くらい歩き、横宮信号で左に曲がる。これからしばらくの間、大西さんに導かれるままに歩いたので道順には少々自信がないのだが、撮った写真から類推してみる。少し行くと白山神社があり、その先には「旧一日市通」の石標が立っていた。さらにまっすぐに行くと信号があり、これを右に曲がる。ここには道の脇に旧北国街道の案内表示が立っていた。このあたりは野々市だから、芭蕉と別れを惜しんだ人々がこの辺まで送ってきたのだろう。ここから先は芭蕉、曾良、北枝、竹意の四人となる。このあたりの道は少々わかりにくい。
この近くで、大西さんは和菓子屋さんに入った。10時頃だったが、大西さんにとっては遅い朝食だったのかもしれない。買ったお菓子を店のテーブルで食べ、私もお相伴した。ここで、大西さんは自らの経歴を紹介してくれた。このとき北国新聞の「歩いた 参勤交代480キロ」という記事のコピーをもらったので、少し紹介してみよう。

「歩いた 参勤交代480キロ」(北国新聞記事より抜粋)
『加賀藩がかつて、金沢と江戸を往復した参勤交代の道のり約480キロを、金沢市並木町の元小学校長大西三郎さん(85)が29日間かけ踏破した。定年退職からの歩行距離は地球一周4万キロを越え、歩くことをライフワークとする大西さんは、長期間の旅に疲れを見せず、「来年は江戸から金沢を目指したい」と次の目標を見定めている。・・・・』
大西さんが歩いたのは、金沢から富山、高田、長野を通り、信州追分で中山道に入る約480Kmの道のりである。記事によると、大西さんは1日の歩行を終えるといったん電車で自宅や宿へ帰り、日を改めて前の場所から歩き始める方法を取ったという。まさに私と同じ方法である。この方法で今年の4月5日に金沢を出発し、東京・日本橋に到着したのが6月2日。この間、実際に歩き進めたのが29日間だった。
私はこの記事を読み、本人のお話を聞いて、人生の先輩としてまた同じ趣味の先達として感嘆の情を惜しまない。私もこの方のようにこれからの人生が過ごせたら幸せだと心から思った。

金沢で10日間を過ごした芭蕉は、七月二十四日(陽暦九月七日)金沢を立ち小松に向かった。小松を経て山中温泉に湯治に行くつもりである。片町の宮竹屋には、別れを惜しむ金沢の俳人たちが集まっていた。皆で犀川を渡り、金沢の南のはずれ泉町で小春、牧童、乙州が別れの挨拶をし、雲口、一泉たちとは野々市で別れた。金沢でその才能を認められた北枝(ほくし)がその後も随行した。体調のすぐれない曾良を補佐し、加賀藩領内の案内をするためである。

小松天満宮、小松の町並み

北陸本線明峰駅の近くで線路を越え、さらに少し行くと天神町信号に出る。ここで左に曲がると少し先に小松天満宮がある。この道をさらに1Kmほど進めば街道沿いにはかつての小松宿の町並みが見られる。小松は加賀藩三代藩主前田利常が隠居城を築いて住んだ町である。越中の高岡と並ぶ金沢の衛星都市のような存在として、加賀南部の中核の町となった。芭蕉は午後4時頃小松に着いた。小松では竹意が懇意にしている近江屋というところに泊まった。

小松駅前通り
駅前通りは現代の小松市の顔をのぞかせている

小松宿の町並み
歴史を感じさせる木造家屋が通り沿いに今も散見される

小松天満宮社殿
明暦3年(1657)加賀藩三代藩主前田利常が小松城に隠居中、加賀蕃の守護神として創建した。社殿、神門などが重要文化財に指定

街道沿いの古い家(寺井)
南天橋信号付近には街道沿いに古いつくりの家も見られる

南天橋信号付近
ここで右に曲がる。この付近にはかつて寺井宿があった

粟生信号付近
ここで右に曲がり県道169号線にはいる。この付近にかつて粟生宿があった

粟生(あお)から寺井を経て小松へ

手取川を越えるとかつて粟生の宿駅があった。粟生の信号で右に曲がり、県道169号線に入る。以後、小松までこの県道を行くことになる。粟生の先に「吉光の一里塚」があるということで注意深く歩いたのだが、見つけることはできなかった。県道からは外れているのかもしれない。まっすぐ進み、南天橋信号を右に曲がる。このあたりには寺井宿があったようだ。街道沿いに古いつくりの家が見えた。県道は少し先で国道8号線と立体交差し、さらにまっすぐに進むと北陸本線の線路が見えてくる。

手取川

やがて街道は手取川にさしかかる。手取川は白山に源を発する石川県下最大の河川である。その豊かな水は人々の生活を潤してきたが、「暴れ川」の異名の通り、過去に大洪水を何度も繰り返していた。藩政時代、ここには「粟生(あお)の渡し」と呼ばれる綱繰り渡船があり、明治21年にはじめて木橋が架けられるまで北国街道の交通に重要な役割を果たしていた。

松任から手取川まで

松任中心部の道をまっすぐに進むと成町南信号に出る。ここを左に曲がりまっすぐに進むと国道8号線に出る。国道に出てからは、しばらくの間(約3Kmくらい)国道を歩く。前回は左に早く曲がりすぎてしまい、そのあとがメタメタになってしまった。上柏野、下柏野を過ぎ、福留西信号で県道157号線が左に分かれてゆく。これが旧北国街道である。この道はまっすぐな一本道でわかりやすい道である。途中の水島にはかつて宿場があった。水島郵便局のポストの脇に「一里山跡」という標石が立っていた。街道沿いの家並みが途切れると左に白山の姿を望むことができた。

加賀千代ゆかりの寺・聖興寺

松任の町には、女流俳人の草分け加賀千代(千代女、後に剃髪してからは千代尼)が生まれた。千代は12歳ころから俳諧を学び、繊細な感覚で情緒的にすぐれた句を多く詠んだ。
広小路の交差点の先に聖興寺がある。寺のすぐそばで生まれ育った加賀千代ゆかりの寺である。境内には千代の遺墨などを納めた遺芳館や、辞世の句 『月も見て我はこの世をかしく哉』 が刻まれた千代尼塚が建つ。通りに面した山門の脇には、この塚があることを示す標石が立てられている。また、近くの歩道の脇に投句箱が設けられ、ここには次の句が刻んであった。 『 初雁や山へくばれば野にたらず 千代尼 』。 千代ファンにとっては松任はメッカのような地なのかもしれない。松任駅の近くには「千代女の里俳句館」という新しい立派な建物も建っている。

道というものは正しいと思って進んでいると、なかなか間違いに気がつかないものだ。しかし、歩き進むうちに大西さんも少々自信がなくなってきたらしく、地図を確かめることになった。大西さんが5万分の一地図のコピーを持ってきているので現在地を地図の上で確認したところ、西南に歩くべきところを東南に向かっていることがわかった。手取川を予定より上流の川北大橋で渡ったが、後で調べるとこの橋は当初渡るはずだった手取川橋よりも約6Km上流の橋だった。
ようやく先の道のめどがついたので、途中の小さな神社で雨宿りし、昼食と雨でぬれた衣服の着替えをした。14:30頃だった。雨はけっこう強く降っており、私は雨と汗でびしょぬれ状態だった。大西さんは雨合羽を着ているので、それほどぬれてはいないようだ。休憩後も雨は降り続いているが、小松までの道のりが大体わかってきたので気が楽になり、以後タンタンと進む。大西さんもはじめの頃よりはややペースは落ちたが、元気に歩き続けている。
国道8号線に合流し、国道を歩いてJRの小松駅前に着いたのは18時頃だった。朝8時に出発して10時間の行程だった。85歳というお年にもかかわらず、大西さんは元気に歩ききった。これから電車で金沢まで帰る大西さんを駅で見送って、私の本日の宿、小松駅前のハイパーホテル小松に着いたのは18:20頃だった。

松任市街道路標示版(成町付近)
この写真のおかげで松任市街地での歩いた道筋がほぼ推定できる。ほかにほとんど写真がないので貴重な写真だ

野々市から松任を経て小松へ。同行二人、雨中の歩き旅

野々市の店で和菓子とお茶をご馳走になり、30分くらい歓談して外に出ると雨が降り始めていた。ここから松任(まっとう)に向かう。これから先、大西さんに導かれるままに歩いたので道順がよくわからないのだが、旧道らしくない県道をかなり歩いて松任市街に入った。この頃は雨が本降りで写真をほとんど撮っていないので道順が明確ではないのだが、松任の中心部を通り抜けたあと南に向きを変え、国道8号線に出た。国道を少し歩いた後、左に曲がり県道に入った。結果的にはここで曲がってしまったのが誤りで、以後、当初予定のコースを大きく外れてしまった。後で地図で確認したところでは、国道をあと2Kmくらい歩いてから左に曲がるべきだった。

旧道脇の国造神社と古い家
旧道沿いに国造神社があり、その横に大きな古い家屋が残されている

旧道に残る古い酒店
国道にほぼ並行して約1Kmほど旧道が残っており、古い商店も見られる

寺町から野々市へ

寺町界隈は前日に見物しているので、大体の様子はわかる。妙立寺(忍者寺)は朝早いのにもう見学の人が多かった。妙立寺の境内に入り、裏口から出ると願念寺の門がすぐそばにあり、この道が近道だということがわかった。願念寺の写真を撮った後、国道157号線に出た。国道を少し行くと旧道が右に分かれてゆくのでこちらを進む。この旧道はそれほど長い距離ではないが、古いつくりの商店、国造神社などがあり昔の面影がよく残っている。旧道は約1Kmくらい続いた後、再び国道157号線に合流する。国道脇に「有松町」の古い石標が立っていた。ここからしばらくの間国道を歩く。

枯木橋(尾張町)から寺町まで

今日(2007年6月14日)は金沢から小松まで歩く予定である。二日前にお会いした大西さんが同行してくれることになっている。待ち合わせ場所になっている尾張町の枯木橋公園に8時頃着いた。大西さんは既に到着していて笑顔で迎えてくれた。ここは石川県里程元標が立っており、今日の旅のスタート地点としては格好の場所だ。
早速歩き始めたが、さすが大西さんは大通りは通らず、金沢城公園、中央公園などの静かな道を通って犀川べりまで出た。この間の道順は後で思い返してもよくわからない。犀川を桜橋で渡り、W坂を登り寺町方面に出た。

W坂(ダブルざか)
犀川を桜橋で渡った少し先にあるW字形になったジグザグの坂で、旧制四高生が名付け親だという

枯木橋付近
尾張町のはずれに枯木橋という小さな橋があり、ここに石川県の里程元標が立てられている。ここが大西さんとの待ち合わせの場所である

川北大橋

手取川橋

野々市

手取川

国道157号線
国道8号線
国道8号線

犀川

(旧北国街道)

国道157号線

国道8号線

北陸本線

小松

小松駅

松任

松任駅

金沢

金沢駅

金沢から小松

野々市の旧北国街道
「旧北国街道」の案内標識が立っている。野々市は宿場町で、この辺りが町の中心だったのかもしれない。芭蕉は、このあたりで送ってきた人達と最後の別れをしたのだろう

「旧一日市通」石標に見入る大西さん
この付近に一日市が立ったのだろう。石標に見入る大西さんの表情も真剣だ