香林坊

武蔵ヶ辻

片町

願念寺

(南大通り)

国道157号線

北陸本線

寺院群

寺町

西茶屋街

野田へ

武家屋敷跡

長町

浅野川大橋

ひがし茶屋街

国道159号線
(城北大通り)

大樋口

旧北国街道

犀川

浅野川

兼六園

金沢城址

東金沢駅

金沢駅

金沢

奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

中屋薬舗の店の様子
一階には老舗の大店の様子が再現され、二階には市内各老舗の資料が展示されている

老舗記念館
大野庄用水沿いに建つ大きな建物。老舗の中屋薬舗を移築して老舗記念館としたもの

にし茶屋街の様子
道沿いに料亭、お茶屋などが建ち並んでいる。夕闇迫る頃には、より風情があるだろう

願念寺一笑塚

妙立寺の裏手に願念寺がある。お寺の前の道は狭く、道の入口に特に案内表示もないので知らないと探すのに苦労する。
芭蕉は、当時金沢で頭角を現していた一笑という俳人に会うのを楽しみにしていた。金沢に着いたとき、まず第一に到着したことを知らせたのは一笑と竹雀の二人だった。このとき一笑の兄・牧童がやってきて前年の11月に一笑は死亡したことを知らせた。芭蕉は驚き悲しみ、七月二十二日にここ願念寺で行われた一笑の追善会で、『塚も動け我泣(わがなく)声は秋の風』の句を手向けた。寺の境内に「一笑塚」がある。ここには一笑の、『心から雪うつくしや西の空』の句が刻まれている。

四高三人像
当時の人にとっては胸の熱くなる姿だろう

石川近代文学館(旧制四高跡)
旧制四高の建物で、重要文化財建造物になっている。現在はほぼ全館を利用して石川近代文学館になっている

百間堀通りより金沢城石垣を望む
堀の底から城の石垣を見上げる感じだが、ちょうどあの石垣の上に辰巳櫓があったはずだ

香林坊、武蔵ヶ辻を経てホテルに戻る

長町を見物した後、香林坊から大通りを通って武蔵ヶ辻に出た。これでお城と兼六園を中心にして一回りしたことになる。金沢という街はまとまりがよく、1日あれば主な見所は歩いて回ることができる。金沢で見ようと思っていたところは大体見ることができ満足した。ホテルに帰りついたのは16:30頃だった。

新家邸長屋門
加賀藩中級武士住宅の風格を見せている。金沢市指定保存建造物

土塀の続く武家屋敷街
現に住民が生活しており、中の様子はわからないが、土塀が続き静かな落ち着いた雰囲気だ

大野庄用水と武家屋敷土塀
大野庄用水は昔から生活用水として使われた金沢最古の用水だ

長町界隈武家屋敷の町並み

大野庄用水に沿って歩いてゆくと、黄土色の土塀が見えてくる。このあたり一帯は藩政時代にはすべて藩士たちの住居であった。加賀藩では中位の藩士が多く、二十余家を数えることができた。拝領する宅地は二百坪から六百坪まで知行高によって面積が決められていた。屋根の周囲は土塀をめぐらし、高禄になると長屋門、物見などが設けられ、邸内には小者部屋、厩のあるのが通例になっていた。
金沢は大きな都市としては珍しく戦災を受けなかった。このため、市内にはいたるところに旧跡が残されている。しかも、博物館などとして残されているのではなく、ほとんどの人たちがそこで生活している。この長町一帯もそうだ。付近の土塀に「中を覗き込んだり、大きな声での会話などご遠慮ください」という注意書きが掲げられていた。

にし茶屋街、老舗記念館(中屋薬舗復元建物)

願念寺を見物した後、にし茶屋街方面に向かう。先ほどの野町広小路交差点までもどり、寺町と反対方向を少し行くと左側に「にし茶屋街」の標石がある。やや狭いまっすぐな道沿いに古い建物が建ち並び、茶屋街となっている。ここもやはり夕闇せまる頃に風情があるのだろう。
茶屋街見物後、犀川を渡って片町まで戻り、長町武家屋敷方面に向かう。長町信号を右に曲がると、道に沿って大野庄用水が流れている。用水沿いには歩道が整備されており、少し行くと大きな古い建物が建っている。金沢市老舗記念館といい、金沢屈指の老舗、中屋薬舗の店舗を移築したものだという。中は当時の大店の様子がわかるようになっている。二階は金沢のいろいろな老舗の展示室になっている。

一笑塚
芭蕉は一笑と会うことを楽しみにしていたが、前年に36歳で死去していた。『心から雪うつくしや西の空』(一笑)の句が刻まれている

願念寺本堂
小杉家の菩提寺で、元禄二年七月二十二日、芭蕉も参加して一笑の追善会が行われた

願念寺前の小路
細い道で入口がわかりにくい。門の前に芭蕉の、『塚もうごけ我泣声は秋の風』の句碑が立っている

妙立寺(忍者寺)
人気が高く、拝観はガイドつきで予約が必要だという。

「らくがんや」の諸江屋
古い「落雁」の絵入りの看板が掲げられている

「のむらや」みやげ物店
「金沢金箔・あぶらとり紙
の看板が出ているみやげ物店

寺町界隈

犀川大橋を渡り、まっすぐに進む。この道は国道157号線で、南大通ともいわれる。少し行った交差点(野町広小路)を左に曲がり、さらに少し行って右に曲がる。この道は古い商店や寺院の建ち並ぶ風情のある町並みが残っている。らくがんなどを売るお菓子屋、油取紙などを売る土産屋など昔ながらの古い店があちこちに見られる。建ち並ぶ寺院群の中でもっとも人気があるのは妙立寺・別名忍者寺で、加賀藩の出城ともいわれ、四階建ての建物の中には敵を欺くいろいろな仕掛けが隠されているという。この辺りの観光拠点として人が集まる目玉になっているようだ。

犀川の様子(犀川大橋より上流を望む)
犀川は浅野川と並んで金沢市内を流れる大きな川である。芭蕉の滞在した片町からも近い

片町交差点付近の様子
芭蕉は、この近くの宮竹屋に9日間滞在した。現在は繁華街となっており、昔の面影はまったく残っていない

片町界隈、犀川河畔

石川近代文学館を見学した後、片町、犀川方面に向かう。文学館の前の道を少し行くと、香林坊という金沢の中でも最もにぎやかな場所に出る。ここを左に曲がれば芭蕉が宿泊した片町はすぐ近くである。時計を見ると12時を過ぎている。目抜き通りというのは食べ物屋は少なく、結局松屋で牛めしにありついた。とりあえずおなかががいっぱいになり、元気に先を続ける。
芭蕉は片町の宮竹屋に9日間滞在した。ここには金沢の俳人たちが次々に挨拶にやってきた。金沢は芸事が盛んな土地で、俳諧も盛んだった。現在、このあたりは大きなビルの建ち並ぶ繁華な商店街となっており、昔の面影はまったく残っていない。片町の大通りを歩いてゆくと犀川にぶつかる。川のかたちは変わっているかもしれないが、この川のほとりを芭蕉も何度となく歩いたことだろう。

石川近代文学館(旧制第四高等学校記念館)

兼六園を見物した後、真弓坂口から出て香林坊、片町方面に向かう。百間堀通りを行くと、お城の石垣の様子がよくわかる。かつてあの石垣の上に辰巳櫓があったのだ。
旧石川県庁の先に古い赤レンガの建物が建っている。旧制第四高等学校の建物で、現在は石川近代文学館になっている。金沢にかかわりのある文学者はどのような人がいるのだろうと興味があったので入ってみた。文学館はかつての四高の教室を利用し11展示室まである。金沢近代の代表的文学者といえば、泉鏡花、徳田秋声、室生犀星があげられる。思想界では鈴木大拙、西田幾多郎なども金沢にかかわりがある。最近私がよく読んでいる五木寛之も金沢に住んでいたことがある。テーマごとに整理された展示は興味深く、なかなか見ごたえがあった。四高記念室も3室あり、記念の品々が展示されていた。

噴水
日本最古といわれる噴水。霞が池との落差を利用して自然に噴水する

兼六園霞ヶ池
兼六園の中央にある広大な池で、琵琶湖を模したといわれる。中央には蓬莱島が浮かび、池周辺の松の雪吊り風景は兼六園の冬の風物詩ともなっている

芭蕉句碑
『あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風』。書は江戸後期金沢の俳人梅室の筆による

金沢城公園

石川橋を渡った先に石川門がある。この門は金沢城の搦手門(からめてもん、裏門)として重要な位置にあり、河北門、橋爪門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれたという。門を入ると広い三の丸広場があり、南、西面に内堀が残されている。堀に面して新しい橋爪橋、橋爪門続櫓(つづきやぐら)、菱櫓(ひしやぐら)、五十間長屋などが建っている。これらの建物は古絵図などにより2001年に復元されたものである。橋爪門続櫓の先から坂道を登って行くと三十間長屋、乾櫓跡などがある。ここからは先ほどの再建された櫓などをはじめ、市内の眺めがよい。さらに少し先に本丸跡があるが、現在は林の中の園地になっている。

金沢城址、兼六園へ

茶屋街を見物した後、再び大橋を渡り金沢城址、兼六園方面に向かう。まっすぐ行けば案内標識が出てくるので、それにしたがって進めばよい。途中に大樋(おおひ)焼の窯元がある。屋敷の隣が美術館になっているので興味のある人は寄ってみるとよい。金沢城址、兼六園へは紺屋坂という坂を登る。私はまずお城のほうから見物することにした。城の入口は石川橋という橋を渡った先にある。橋の下は広い通りになっているが、これは金沢城の堀跡である。堀をはさんで右にお城、左に兼六園がある。

七月十五日(陽暦八月二十二日)、芭蕉は金沢に着いた。この日は浅野川近くの京屋吉兵衛方に宿を借り、次の日からは片町の宮竹屋喜左衛門方に移った。以後、最後までここに泊っている。金沢には七月二十四日まで10日間滞在した。この間、招かれて句会を行ったり、市内の見物をしている。信奉者に囲まれ、芭蕉にとっては大変居心地のよい日々だっただろう。一方、曾良にとっては憂鬱な日々が続いた。これまでの過労のせいか、とうとう病気になってしまったのだ。医者の往診を受けたり薬をもらったりしている。新進気鋭の人たちに囲まれて嬉々としている芭蕉を見て、曾良は一抹の寂しさを感じていたのだろう。あるいは、この旅での自分の役割はもう終わったと感じたかもしれない。

金沢での芭蕉、曾良の動向(曾良旅日記より)
七月十五日(陽暦八月二十三日)
 高岡を立ち午後3時頃金沢に到着。京屋吉兵衛に宿を借りた。知人に連絡すると、すぐに竹雀、牧童の二人がやってきた。
七月十六日
 竹雀が駕籠で迎えに来て、片町の宮竹屋に移る
七月十七日

 芭蕉は源意庵に遊ぶ。曾良は病気のため随行せず
七月十八日、十九日・・・特に記事なし
七月二十日
 犀川ほとりの松幻庵にて句会。夕方、野畑(現在の野田)に遊ぶ
七月二十一日
 曾良は高徹(医者)に会い薬をもらう。芭蕉は北枝、一水を同道して寺に遊ぶ
七月二十二日
 願念寺にて一笑の追善会実施。曾良は医者に見てもらった後、夕方から参加
七月二十三日
 芭蕉は宮ノ腰に遊ぶ。曾良は病気のため行かず
七月二十四日
 金沢を立つ。途中、野々市まで餅、酒持参で多くの人が見送ってくれた。小松には午後4時頃到着した
 

金沢駅前から尾張町を経て浅野川大橋へ

今日の私の金沢散策は、金沢駅に近いビジネスホテルからはじまる。今日はこのホテルに連泊の予定なので、身軽ないでたちで歩くことができる。ホテルで朝食をとった後、8時頃出発する。まずは、昨日のゴールである浅野川大橋に向かう。金沢駅前の大きな道をまっすぐに進むと、武蔵ヶ辻という大きな四ツ辻がある。これをさらにまっすぐ行くと、広い交通量の多い道にもかかわらず道の脇にはいかにも老舗という感じの商店が多く見られる。このあたりは尾張町といい、付近に「老舗交流館」などもあり、ゆっくり散策すれば見所も多いのだろうが、まだ朝も早いのでとりあえずさっと通り過ぎた。
浅野川河畔、ひがし茶屋街

尾張町の大通りをまっすぐ行き、突き当りを左に曲がると昨日のゴール浅野川大橋はすぐである。昨日は夕暮れ時の到着だったが、今日の大橋は朝日に輝いている。橋の上から上流を眺めると風情のある木橋が見えたので、川沿いの道を上流に向かって歩く。木橋は梅の橋といい、歩行者専用橋である。この橋を渡ってさらにまっすぐ行くと、古い趣のある家が建ち並ぶエリアに出る。この辺りが「ひがし茶屋街」だ。通りに並ぶ茶屋は、屋号を入れた行灯が玄関に掲げられていて、夕闇せまる頃などにはさらに風情が感じられるだろう。

ひがし茶屋街の様子
風情のある建物が建ち並んでいる

浅野川上流方面を望む
大橋の上流に梅の橋という木橋がかかっている。

朝日に映える浅野川大橋
江戸期には金沢城下への玄関口であり、橋を渡ると番所があった。現在の橋は大正9年にかけられた

芭蕉宿泊地

小松へ

兼六園

再び石川橋を渡って兼六園の入口に向かう。園内に入り道なりに歩いてゆくと、小さな池と噴水がある。これは日本で最古の噴水で、上にある霞が池との高低差により自然の水圧で噴水しているのだという。坂を登って水源である霞が池に行く。この池は兼六園の中で中心的な位置にあり、周りにはいろいろな見所があるので一巡りしてみる。池の中には蓬莱島という小さな島が浮かんでいる。池を一巡りしたあと、芭蕉句碑を探した。それは庭園の東南奥の山崎山という小さな丘の登り口付近にあった。
もともと兼六園は金沢城の外郭として城に属した庭であった。庭としての歴史は、城に面した傾斜地が古い。加賀藩五代藩主前田綱紀が1676年、この地にあった作事所を城内に移し、蓮池御亭を建て、その周辺を作庭したのが始まりである。芭蕉が付近を通った頃には、現在のような広大な兼六園という庭園はまだ存在しなかったわけだ。
現在、兼六園は国の「特別名勝」の指定を受けている。園内を巡ってみて、韓国、中国系の団体客の多いのに驚いた。有名な観光地は最近どこでもそうだが時代は変わった。
兼六園に隣接して同一敷地内に石川県立伝統産業工芸館というのがあったので寄ってみた。加賀、能登地方が藩政時代から産業の育成に力を入れていたことがよくわかった。

尾張町に残る古い商店(石黒薬局)
この辺りには古い老舗の商店が多く見られる。通りを一つ入ったところに老舗交流館というのがある

武蔵ヶ辻
駅方面から来てまっすぐ行くと尾張町を経て浅野川大橋方面へ、右に曲がると香林坊方面に出る。昔から繁華な場所だった

三十間長屋
1858(安政5年)に再建された建物。藩政時代は武器や兵糧などを保管する倉庫として使用されていた。国の重要文化財指定

内堀と橋爪橋、橋爪門続櫓
橋爪橋で内堀を渡ると橋爪門があり、櫓(やぐら)が建っている。この櫓は五十間長屋で菱櫓とつながっている
いずれも2001年に復元されたものである

石川門
櫓と櫓を長屋でつないだ重厚な枡形門となっている。宝暦の大火(1759)の後、天明8年(1788)に再建され、現在に伝わっている。国の重要文化財指定

石川橋より堀跡を望む
堀跡は「百間堀通り」という広い道路となっている。右側がお城で、石垣が残っている。左側が兼六園である

大樋焼窯元
大樋焼の窯元があり、建物は金沢市指定建造物となっている。隣接して大樋美術館があり歴代大樋長左衛門の作品などが展示されている