入善

北陸本線

滑川

魚津

 県道2号線

国道8号線

黒部川

境関所跡

市振

市振から滑川

日本海

街道に戻り先を続ける。しばらくの間古い町並みが続き、その中に「明治天皇宮崎御小休所」の説明板が立っていた。明治天皇は明治11年9月28日北陸巡幸の途中、この場所で御小休されたという。その後建物は焼失してしまったので、玉座跡を石羽取で囲い遺跡として保存する、というようなことが書かれている。この道が旧街道であることはたしかなようだ。

奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

魚津市街

県道2号線はさらに海沿いに延びているが、今日の私の宿は魚津駅前にあるので、海沿いを離れて駅方面に向かう。もう少し県道を進み、魚津漁港まで行くと条件がよければ富山湾の蜃気楼(しんきろう)が見えるのだという。3月下旬から6月上旬に発生しやすく、晴天が2,3日続き、気温18度以上、微風の日に多く見られるという。これは北アルプスからの大量の雪解け水が冷たい空気の層を作り、光の屈折を生むために生じる現象だという。見には行かなかったけれど、ここ数日の天候では発生は望めなかっただろう。私はまっすぐに宿(アパホテル魚津駅前)に向かい、到着したのは17時頃だった。ちなみに、芭蕉はこの日は次の滑川(なめりかわ)まで足をのばしている。魚津から約二里ほど先である。

片貝川上流方向を望む
道と並行して富山地鉄本線が走っている。この電車は黒部峡谷への玄関口となる宇奈月温泉まで行く

県道2号線生地付近
生地付近にはYKKの大きな工場がいくつかある。県道から海側に少し入ると湧水群が見られるが、私は気がつかないで通過してしまった

黒部から魚津

黒部川を越えると黒部市に入る。県道2号線をしばらく進むと北陸線の生地(いくじ)駅前を通る。駅前には大きなYKKの工場がある。朝、魚津から市振に向かったとき、この駅でほとんどの人が降りてしまったのでびっくりしたが、この工場があるために通勤客が多いようだ。
生地の辺りには海岸付近を中心に湧水が多い。北アルプスの急峻な山地を駆け下りた水が地下水となり、このあたりで湧水として地上に現れるのだ。この湧水はさらに富山湾の海の中にも湧き出し、富山湾の豊富な生態系をはぐくんでいるという。県道2号線はやがて片貝川を渡る。比較的小さな川だが、これも増水時には流れが早く、渡りにくい川だったという。

黒部川(下黒部橋より下流方向を望む)
北アルプスの鷲羽岳(わしばだけ)に源を発した黒部川は黒部峡谷を通り抜けた後、黒部市宇奈月町で平野に入り、大きな扇状地を形成する

黒部川架かる下黒部橋(県道2号線)
昔は下流には橋はなく、橋を渡るためには一里半の遠回りをしなければならなかったが、そちらを回る人も多かったようだ

境から越中宮崎、泊へ

境関所跡を過ぎると旧道は再び国道8号線と合流し、少し進むと国道脇に北陸線の越中宮崎駅がある。その少し先で県道60号線が右に分かれてゆく。これが旧北国街道と思われるのでこちらの道を進む。しばらくすると「宮崎ヒスイ海岸」への案内が出ていたので、ちょっと寄り道してみた。糸魚川でみた海岸と同じように玉砂利の海岸である。糸魚川のヒスイがこの辺りまで広がっているのだろうか。

七月十三日(陽暦八月二十七日)、市振を出発した芭蕉は、まもなく1本の川に差し掛かった。川の名前は境川。文字通り越後と越中の国境、現在も新潟県と富山県の県境となる川である。江戸時代には川を渡ると加賀藩の関所が置かれていた。厳しい関所だったが、芭蕉たちはすんなりと通過したようである。ここを抜ければ前田家の領地に入る。芭蕉は、この日は「黒部四十八ヶ瀬」といわれるたくさんの川を渡って滑川まで歩いている。

ホテルの部屋より立山方面を望む

魚津駅前付近の様子

黒部川を渡る

昼食も終わり、元の県道に戻り先を続ける。やがて道は黒部川にさしかかる。県道2号線に架けられている橋は下黒部橋である。芭蕉の時代、黒部川の下流には橋はなかった。曾良は旅日記に『入善に至りて馬なし。人雇て荷を持せ黒部川を越す。』と記している。また『雨続くときは山のほうへ回るべし。橋あり。一里半の回り坂あり。』とも記している。この橋は先に記した上道の愛本橋のことである。

園家山キャンプ場
海岸べりにあるキャンプ場。ここで昼食にした

県道2号線の様子
入善市街地を過ぎると田園風景となる

入善中町付近の様子
入善駅も近く賑やかな町並みだこの先で県道60号線は2号線になる

入善町から黒部川へ

赤川を渡り、田園風景の広がる県道60号線をタンタンと進む。やがて道は入善町の中心部に入ってゆく。JR入善駅の少し先で県道60号線は終わるので、その先は同じような感じで続いている県道2号線を進むことにする。雨は朝のうちにあがったので、田園風景の続く県道をさらにタンタンと進む。既に12時を過ぎているので適当な場所があれば食事にしようと思うのだが、なかなか適当な場所が見つからない。やがて、園家山(そのけやま)キャンプ場の案内標識が見えたので、そちらに寄り道することにした。海岸のすぐそばにあるキャンプ場で、食事にはちょうどよい場所だ。13時を過ぎてようやく昼食にありつけた。

黒部四十八ヶ瀬の一つ赤川

泊集落(朝日町)東草野付近(県道60号線)

泊から黒部四十八ヶ瀬へ。上道・下道・浜道のこと

県道60号線は海岸線を進んだ後、泊集落に入ってゆく(現在は朝日町)。町を通り抜けると赤川にぶつかる。この付近から先は黒部川扇状地となっており、昔から「黒部四十八ヶ瀬」と呼ばれ、小さな川がいく筋も流れていた。これらの川を渡るわずらわしさを避けるため、後に黒部川の上流を迂回する道が開かれた。この道を上道といい、従来の北国街道は下道と呼ばれた。上道のほうが下道よりも一里半長いのだが、渡る川は黒部川だけでここには橋(愛本橋)がかけられており、参勤交代などにもこちらが使われた。また、下道よりもさらに海側に浜道といわれる道もあり、一般にもよく使われていたようだ。芭蕉は本文で、『くろべ四十八ヶ瀬とかや、数しらぬ川をわたりて・・』と記しているので、下道か浜道を通ったと思われるが、どちらを通ったのかは明確ではない。ちなみに、現在の道では国道8号線が下道、県道60号線、2号線が浜道に相当するようだ。

明治天皇宮崎御小休所跡

旧北国街道宮崎付近の様子

宮崎ヒスイ海岸
糸魚川で見たのと同じような玉砂利の海岸が広がっている。糸魚川の姫川の石がここまで到達しているのだろう

旧北国街道県道60号線)分岐点付近
旧北国街道(県道60号線)は越中宮崎駅の先で右に分かれ踏切を渡って海岸方面に出る

市振から境川まで

私は昨日は魚津のホテルに泊まったので、今日は電車で市振まで戻りここから魚津まで歩く予定である。魚津のホテルに連泊することになるので、今日はショルダーバッグだけの軽装で歩くことができる。
8:03に市振駅に到着した。市振駅前には警察官駐在所があるくらいで、ほかには何もない。すぐ前に国道8号線が走り、国道沿いには民家が並んでいる。私はすぐに国道に出て歩き始めた。今日はあいにく朝からシトシトと雨が降っている。
国道をしばらく行くと、「道の駅 越後市振の関」の道路標識が現れた。かつてここには幕府の関所が設けられていたというが、現在は遺構は何もない。現在は広い駐車場と、道の駅の商業施設が建っている。 

「道の駅 越後市振の関」付近
国道のすぐ脇に広い駐車場と商業施設がある
関の遺構や説明板などは見られない

市振駅前の様子
駅舎近くの線路脇に警察官駐在所が建っている。駅のすぐ前を国道8号線が通っている

境川を渡り境関跡へ

市振の関跡を過ぎてしばらくすると境川にぶつかる。この川は現在も新潟県と富山県の県境となっている。鼠ヶ関からはじまった新潟県の旅もようやく終わり、富山県に入ろうとしている。主に海岸線を中心に、10日間に及ぶ越後の旅だった。境橋を渡ると富山県の道路標識が建っている。いよいよ富山県に入ったのだ。この標識の少し先で、旧道が右に分かれてゆくのでそちらに進む。

富山県の道路標識
いよいよ富山県に入る。少し先で旧道が右に分かれてゆく

越後、越中の国境を流れる境川
現在も新潟県と富山県の県境となっている。昔は歩渡りだった

旧道沿いに古いつくりの家が残っていた。造り酒屋のようで古い看板がかかっているが、商売はやっていないようだ。少し先のグラウンドに境関所跡の標識があり、近くに説明板が立っていた。

(境関跡説明板より)
ここ境地区は、越中(富山県)と越後(新潟県)との国境に位置するため、中世頃には国境警備のために関所が設けられていた。近世に入り幕藩体制が整えられると、加賀藩では慶長19年(1614)に国境の治安維持と通行管理のため、奉行と多くの警備役人を置き「口留番所」を「関所」とした。関所には、岡番所と浜番所があり陸上と海上の警備を行った。・・・
明治2年に関所が廃止されると、跡地は境小学校などの敷地となった。小学校閉校後に建てられた「関の館」には、「境関所」の歴史を物語る各種の資料が展示されている。

境関所跡
関所跡は小学校となり、その小学校も閉校になり、そのあとに新しい「関の館」が建てられている

旧道沿いの古い看板のある建物
建物脇の立派な門、古い大きな看板、軒に杉玉が吊るされているので造り酒屋だろうが、営業はしていないようだ

県道60号線

宮崎