桔梗屋跡
建物はまったく残っていないが標識が立っている

市振宿の様子
古い建物はないが、街道沿いにはなんとなく古い宿場の雰囲気が感じられる

海道の松
目通り2.5mで、200年以上の風雪に耐えたといわれ、地元の人からも大切に守り育てられてきた

眼下に子不知海岸を望む
2階建て廃墟の付近から眼下に広がる子不知海岸の様子がよく見える。近くに海岸に下りてゆける階段がある
親不知・子不知県立自然公園看板付近
近くに勝山大雪崩遭難碑が建っている。私は近くで昼食にしたのだが、
ここで不振物を発見した
奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

親不知海岸
子不知海岸よりも侵食が進んでいるようで、歩ける範囲は狭い。ヒスイ海岸で見たような石がゴロゴロしている

親不知観光ホテル
親不知海岸の崖の上に位置するホテル。この近くから海岸に降りてゆく道がある

親不知

展望台から道は大きく山側に回りこみ、やがて親不知の断崖の上に出る。ここには親不知観光ホテルが建っている。この辺りでは大きなホテルで、日本海の眺めのよい場所に建っている。ここに到着したのが15:40頃。今日の予定ではこれから市振まで出て、そこから電車に乗って魚津のホテルに予約をしてある。予約を変更してこのホテルに泊まろうかとも考えたが、結局予定通り進むことにした。
ホテルの近くから親不知海岸に降りてゆく道がある。私はこの道を降りて海岸に出てみた。降りてみると、先ほどの子不知の海岸よりも歩ける範囲はずっと狭い。より侵食が進んでいる感じだ。

階段を上って国道8号線に戻り、、先を続ける。国道には崖崩れや降雪を防ぐための洞門がたくさん設けられている。この洞門には歩行者スペースはない。外側に保守点検用のスペースが設けられているところもあるが数は少ない。大型トラックなどの通行も多いので、洞門内はヒヤヒヤ・ウォークになる。

青海川
この川を過ぎると断崖が海岸まで迫り、昔は海との間のわずかなスペースを歩かなければならなかった

青海集落の旧道の様子
この辺りまでは糸魚川市街地の続きという感じで北国街道の旧道と町並みも残されている

駒返

姫川

大糸線

国道8号線

(子不知トンネル

北陸本線

市振

日本海

親不知

子不知

青海

糸魚川から市振

糸魚川

七月十二日(陽暦八月二十六日)朝、芭蕉は能生を旅立った。この日は「親不知、子不知、駒返など云う北国一の難所を越えて」と本文にあるように大変な一日だったようだが、曾良の旅日記では難所の様子についてはまったく触れていない。比較的すんなりと通過したのかもしれない。ともあれ、この日は市振の宿についてからのことも含めて、芭蕉の「おくのほそ道」のなかでも印象的な一日だった。

「天険断崖黎明」より親不知を望む
国道を登りきったところに展望台がある。眼下に親不知海岸の様子を望むことができる

歌集落付近の様子
駒返トンネルを抜けると海岸が近くなり、北陸自動車道の高架橋、JRの親不知駅、国道の道の駅などがある
このあたりは歌集落である

歌集落を経て親不知へ

国道はしだいに下り坂になり、やがて駒返トンネルに入る。トンネルを出ると海岸に近づき、北陸自動車道の高架橋、北陸線の線路などが現れる。このあたりは歌集落である。ここには北陸線の親不知駅、国道の道の駅、北陸自動車道の親不知インターチェンジなどがある。国道はしばらく海岸沿いを走るが、歌の西隣の外波集落を過ぎると再び登り坂となる。昔の道はそのまま海沿いを進み、親不知の難関を超えるのだが、現在の国道は崖の中腹を削り取って道を通している。先の子不知と同じ状況である。
国道をかなり登ったところに見晴台があった。「天険断崖黎明」という標識が立っていた。ここからは親不知の難関の様子がよく見える。遠くから見ても、現在ではこの海岸を徒歩で通行するのは不可能だとわかる。

県道222号線(北国街道旧道)をまっすぐに進むと、国道148号線と交差する。この道はフォッサマグナ(糸魚川・静岡構造線)に沿って信州松本に達する道で、「塩の道」とも千国(ちくに)街道とも呼ばれる。この塩の道の出発点と北国街道が交差する辺りが新屋町で、芭蕉はそこの左五左衛門の茶店で休憩した。ここで曾良は茶店の主人から頼まれごとをする。加賀の大聖寺に立ち寄ると聞いて、そこの僧への伝言を頼まれたのである。曾良も忘れないためにその内容を日記に記している。
「塩の道」を越えてさらにまっすぐ行くと、県道222号線は国道8号線と合流する。ここからはまた、国道の旅が始まる。国道を少し行くと姫川を渡る。姫川は白馬連峰に端を発し、糸魚川で日本海に注ぐ1級河川である。この川の流域にはヒスイの産地があり、現在でも、河口付近の海岸線や河原でまれにヒスイを拾うことができるという。先ほど見たヒスイ海岸はその一つである。

私は、このあとJRの市振駅に向かった。旧道が国道に合流し、その少し先の国道沿いに市振の駅はあった。駅に着いたのは16:50頃だった。
実は、今日の私の旅はこれで終わりではなかった。以下は付記として事実だけを簡単に記しておくこととする

(付記)
私が昼食を食べた場所、「親不知・子不知県立自然公園」の看板が立っていた付近で不審物を見つけたと先に記した。実は、これは自殺遺体だった。はじめ遠くからチラと見たとき、海を眺めながら食事でもしているのかと思った。しかし、やはり何かおかしいと感じ、食事が終わってから少し近づいて確認してみた。足をのばし金網の仕切りに寄りかかる形で海のほうを向いている。黒いズボンと黒い防風衣を着け、黒い帽子をかぶって顔だけが出ている。それは何かマネキン人形のようにも見えた。
私は、人形であってほしいと思いながらも、そのあと、どこで警察に通報しようかと考えながら歩いた。結局、本日の旅の最終地点、市振駅前で警察官に出会い、直接状況を伝えることができた。駅前に警察官駐在所があり、私が駅に着いてしばらくしてからお巡りさんがパトカーで帰ってきたのである。地図で大体の場所を説明したが、確認のために現地まで同行してくれといわれ、パトカーに同乗して現地に向かった。親不知駅付近で、連絡を受けた本署の刑事(課)の人たちと合流し、総勢10名くらいで現地に向かう。4時間以上かけて歩いた道も車ではすぐに到着した。現場を見て、刑事はすぐに「首吊りだな」といった。あとで聞いたところでは、履いてきた靴の紐を使ったという。
事件性は少ないということで、私と市振のお巡りさんは先に帰ることになった。私はパトカーで同じ道を戻り、市振の駅まで送ってもらった。帰りのパトカーの中で、お巡りさんは親不知・子不知、市振などのガイドをしてくれた。私が本文の中で、後で聞いた話ではと記したのはこのとき聞いた話である。このとき市振で宿泊できるところはないか聞いてみたのだが、少し前まで民宿が1軒あったのだが、経営者が高齢になり廃業してしまったといっていた。
市振発18:30の電車に間に合い、魚津駅前にあるビジネスホテルに着いたのは19時頃だった。いつものとおり風呂に入り、お酒も飲んだが、さすがにこの夜はなかなか寝付けなかった。
私が帰京してから10日くらいして、糸魚川警察署から一つの小包が届いた。香典返しのようなお茶のセットと、中に連絡文が入っていた。それによると、まだ遺体の身元はわからないということだった。


   


国道8号線勝山洞門付近の様子
洞門の中には歩行者スペースはない。大型トラックの通行も多いので歩行者は十分な注意が必要だ

洞門脇より眼下の子不知海岸を望む
このあたりは断崖が続き、洞門が長く続いている後で聞いたのだが、このあたりは自殺の名所だという

親不知・子不知県立自然公園

青海川を過ぎると、昔はそのまま海べりを進み親不知・子不知の難所に向かったのだが、現在は海まで迫る断崖の中腹を削り国道が通じている。国道の長い坂を登ってゆくとその頂上付近に「親不知・子不知県立自然公園」の看板が立っている。付近はちょっとした空き地になっており、海もよく見える。時計を見ると12:30頃なので、ここで昼食をとることにした。昼食が済んであたりを見回したとき不審なものを見つけたのだが、このことは最後に記すことにしよう。
国道をさらに進むと、勝山洞門があり、その先に白い建物が見える。近づいてみると2階建ての大きな建物だが、既に廃墟になっているようで人の気配はない。この建物の近くから海岸まで降りてゆける階段がある。

糸魚川から親不知(おやしらず)・子不知(こしらず)を経て市振へ

姫川を越えてさらに進むと青海(おうみ)集落になる。このあたりは国道に並行して旧道も残されているのでこちらの道を歩く。集落のはずれには青海川が流れている。この川も結構流れは早い。能生からこの青海集落までは北国街道は海沿いの穏やかな道であるが、ここを過ぎると断崖が海まで迫り、昔は海との間のわずかなスペースを歩かなければならなかった。いよいよ道は北国街道一の難所、親不知・子不知、駒返しなどにさしかかるのだ。

旧道沿いの古い構えの商店
「京屋」という店で、本店と分店が2軒並んで建っている

加賀の井酒造(糸魚川本陣跡)
加賀藩参勤交代の際の本陣となった。前田家の拝領品、町方文書などが保存され、一部展示されている

奴奈川姫(ぬながわひめ)像の前の道を左に曲がると、JR糸魚川駅は近い。ここを曲がって少し行くと、北国街道の旧道(県道222号線)が国道と並行して残っている。私は、ここからしばらくこの旧道を進む。旧道に入ってすぐのところに「加賀の井酒造」の大きな建物がある。ここは慶安3年(1650)創業の新潟で最古の酒蔵という。加賀藩の参勤交代の際の本陣としても使用された。加賀藩前田家の参勤交代といえば2000名にも及ぶ大名行列になったという。行列通過の際の町方や助郷(すけごう)の人々の苦労がしのばれる。この本陣跡の少し先には京屋という古い構えの店があり、大きな赤いローソクの看板が印象的だった。

能生から糸魚川まで

私は昨日、糸魚川に宿を取ってしまったので、まずは電車で能生に戻る。糸魚川発7:01で、能生に着いたのは7:13だった。今日の行程は約36Kmと長いので早めの行動を心がける。
駅前の道をまっすぐに海岸に向かって歩き国道8号線に出る。とりあえずは、海沿いの国道をタンタンと歩く。浦本駅辺りから久比岐自転車歩行者道が海岸沿いを通るようになるので、こちらの道を進む。この道は国道と並行して糸魚川市中心部まで続いている。
糸魚川までの間にはいくつかの川があり、昔は徒歩で渡った。そのうちの一つ早川で、芭蕉はつまずいて衣を濡らしてしまった。山が近いだけに流れは早く、石がごろごろしているのだ。やむなく河原でぬれた衣を乾かしながらしばらく休んだ。

早川の流れ (国道早川橋より)
芭蕉はここでつまずき、衣を濡らしてしまった(曾良旅日記より)

海岸沿いを走る自転車歩行者道
浦本駅辺りから久比岐自転車歩行者道は海岸沿いを通るようになる

糸魚川(いといがわ)

早川を過ぎ、海川を渡って少し行った海岸に「ヒスイ海岸」という大きな看板が立っている。私は海岸べりまでおりてみた。この付近は砂浜ではなく、玉砂利の浜辺である。この中にヒスイの原石が混じっているのだろう。この辺りから先の海岸にはこのような砂利の海岸があちこちに見られる。ヒスイ海岸の少し先の国道の脇に、奴奈川姫(ぬながわひめ)の像が建っている。このあたりで産出するヒスイと出雲の国との関係を物語る伝説が残されている。

奴奈川姫(ぬながわひめ)像の説明板より
「古事記」や「出雲国風土記」には高志(こし)の国の沼河比売命(ぬながわひめ)と出雲の国の八千矛神(大国主命)とのラブロマンス(通婚神話)がよまれており、その奴奈川姫はこの地方の古地名や姫を祭る神社の存在などからこの地方の女神とされています。
また、この地方では今より四,五千年前の縄文時代から、姫川から流れ出たヒスイを巧みに加工し、弥生・古墳時代には優美な勾玉(まがたま)を盛んに生産していました。そのようなことから通婚神話はヒスイの勾玉を作るこの地方と、それを求めた出雲との関係を物語っているようです。

子不知海岸A
このあたりは完全に通行不能である。漁港の整備などにより潮の流れが変わり、侵食が激しいのだという

子不知海岸@
このあたりはまだ歩くことができる。30年以上前には広いところでは20m以上はあったという砂浜の現在の姿だ

市振(いちぶり)

元の道を戻ってホテルの前に出る。ここからしばらくの間、コミュニティロードと呼ばれる旧国道が残されているのでそちらを進むが、やがてトンネルを越えてきた現国道と合流する。これから先の国道にも洞門が多く、歩行者にとっては危険な道が続く。後で聞いた話だが、この道はシーズンになると徒歩旅行者や自転車旅行者が結構多く見られるのだという。人も車も十分な注意が必要だ。3Kmくらいこのような道が続いた後、市振集落へ通じる旧国道が右に分かれてゆく。旧国道を下ってゆくと、街道の脇に大きな「海道の松」が立っている。10Km以上にわたる親不知・子不知の難所を半ば命がけで通り抜けてきた旅人たちは、この大木を目にしてようやく安堵の表情を見せ、市振の宿に入ったという。
芭蕉はこの宿場の桔梗屋という宿に泊まった。「おくのほそ道」本文で、ここでの出来事として二人の遊女との出会いを記している。

「おくのほそ道」本文より
『今日は親しらず・子知らず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越えて、つかれ侍れば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて面(おもて)の方に、若き女の声二人計(ばかり)ときこゆ。年老たるおのこの声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟というところの遊女なりし。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは故郷にかへす文をしたためて、はかなき言伝(ことづて)などしやる也。・・・・』

芭蕉は遊女たちの話を聞きながらいつしか寝入ってしまうが、翌朝この遊女たちにこれから先の旅の同道を求められた。しかし、芭蕉は『我々は所々にてとどまる方おほし』という理由で断っている。この後に芭蕉は、『 一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月 』 の句を残している。文学作品としての「おくのほそ道」のなかで、最もあでやかな部分といえるだろう。
「海道の松」の先に市振宿跡の町並みが残っている。建物はみな新しくなり、古い遺構なども見られないがなんとなく宿場の雰囲気が感じられる。少し先の街道脇に桔梗屋跡の標識が立てられていた。

姫川の様子(姫川大橋より上流方向)
姫川の上流にはヒスイの産出地があり、日本全国の縄文遺跡から発掘された勾玉は、すべてこの川の流域で採取されたヒスイで作られているという

塩の道と北国街道の交わる付近
塩の道(国道148号線)と北国街道の交わる辺りには牛の背に荷を積み込む問屋が並んでいたという。芭蕉は近くの茶屋で休憩している

子不知海岸

私は階段を下りて海辺まで出てみた。階段の近くは少し広くなっていて、海辺沿いに歩いてゆける。歩けるところまで行ってみようと思い浜辺を進む。少しゆくと断崖がすぐ近くまで迫り、砂浜がかろうじて残っている場所に出た。このくらいなら難なく通れる。さらに進むと、波が直接断崖にぶつかり、人の歩く余地がまったくなくなってしまう箇所に出た。これは多少足を濡らせば通れるというレベルではない。これ以上先は危険だ。私は写真を撮って引き返した。
現在はまったく通行不能なこの海岸も、30年くらい前にはまだ青海から市振までなんとか歩けたという。後で聞いた話によると、新しい港の工事などで潮の流れが変わり、海岸が侵食されたため現在のような姿になったという。

奴奈川姫(ぬながわひめ)の像
国道から糸魚川駅に向かう道の分岐点に建てられている。出雲の大国主命との通婚神話がある

ヒスイ海岸
この辺りから先の海岸には、このような玉砂利の海岸がよく見られる。近くの姫川から流れ出したもので、姫川の上流は古代からヒスイの産出地として知られていた
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