五智国分寺

国道8号線

(頸城トンネル)

北陸本線

能生

国道8号線

日本海

糸魚川

直江津

高田

名立川河口付近の様子
川沿いに空間が開けるので、北陸自動車道、北陸線などが姿を見せる
手前は国道8号線後方は北陸自動車道

名立(なだち)の町並み
かつては宿場だった名立の町は、旧道沿いには現在でも幾分かは面影が残っている

旧道を一通り歩いた後、私は海岸に出て国道8号線を少し戻ってみた。少し行くと能生海水浴場があり、その先に弁天島が見え、さらにその先に能生漁港が見える。かなり距離がありそうなので、私は弁天島の手前で引き返し、JR能生駅に向かった。今日は糸魚川に宿を取ってあるのだ。能生にも立派な旅館があるのに、事前準備の段階で糸魚川に宿をとってしまっていた。能生駅発17:58、糸魚川のビジネスホテル(ルートイン糸魚川)に着いたのは18:30頃だった。

奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木
筒石(つついし)

名立を出ると再び海沿いの快適な道が続く。この道を約5Kmほど進むと筒石集落に入る。自転車歩行者道は、やや高い位置を通っているので、海と山地に挟まれた狭い地域に家が密集している様子が見える。北陸本線の筒石駅はトンネルの中にあるというくらい平地の少ない土地なのだ。坂道を下って海岸まで出てみたが、細い急な坂道の途中に郵便局やお寺が建っているのには驚いた。海辺は漁港となっており、漁業関係の施設も整っている。筒石は漁業の町である。

能生(のう)

筒石漁港から再び自転車歩行者道に戻り、先を続ける。藤崎、百川、小泊などの小集落を過ぎやがて能生(のう)町に入ってゆく。能生は日本海の魚介類が水揚げされる漁業の町であり、加賀藩参勤交代の宿場町でもあった。旧街道沿いには宿場町の面影が残っている。
芭蕉が能生に着いたのは夕暮れ近くなっていた。宿は玉や五郎兵衛方。場所は当時は旧道沿いにあった。能生には現在も子孫が経営する玉屋という旅館があるが、旧道沿いではなく少し引っ込んだところにある。

居多ヶ浜から「久比岐(くびき)自転車歩行者道」を通って能生へ

居多ヶ浜から海岸に沿った県道をしばらく進むと国道8号線に合流する。国道は市街地を過ぎると海岸沿いの快適な道になる。しかも、国道とほぼ並行して歩道者、自転車用に独立した道が設けられ、随所に専用のトンネルまで掘られている。これは「久比岐(くびき)自転車歩行者道」といい、直江津から糸魚川まで約45Km続いている
(注)。この間、車に悩まされることもなく快適なウォーキングやサイクリングを楽しむことができる。快適な歩行者用道路をタンタンと進んでゆく。今日は日曜日なので時々サイクリングの自転車が通り過ぎるが、歩いている人はほとんどいない。
 (注) この道は、旧北陸本線の軌道跡だということを後に鉄道愛好家の方から教えていただいた。

五智国分寺
越後国分寺の寺号を継いだ名刹で、親鸞聖人は越後配流後、一時期この寺の境内にあった草庵に住んでいた

五智国分寺三重塔
何回か火災にあって焼失し、現在の姿で再建されたのは安政3年(1856)である

芭蕉は直江津、高田で七夕の前後5日間を過ごした。暑さに耐える旅の途中で、しばしの休養となった。7月11日(陽暦8月25日)、高田を出発し、五智国分寺と近くの居多(こた)神社に参拝して名立に向かった。この日は能生まで約九里歩いている。

名立(なだち)

快適な歩行者専用道をタンタンと歩いてゆくと、やがて、道は名立(なだち)集落に入ってゆく。ここには名立川が流れており、海沿いの山槐が途切れるので、ここまでトンネルの中を通ってきた鉄道や北陸自動車道などが顔を出す。時計を見ると13時近いので、海岸沿いに出て海の見える場所で昼食にした。
名立は漁業の町だが、かつては宿場であった。芭蕉はここでの紹介状(おそらく低耳のものとおもわれる)を持っていたが、使わずにさっさと三里先の能生まで進んでしまう。旅程を短縮するために先を急いだようだ。

自転車歩行者道より鍋ケ浦方面を望む
このあたりは山が迫り、旧道は山の上を通っていたというが、現在は平坦で快適な道である

有間川漁港
国道のすぐ近くに漁港がある。北陸線の有間川駅も国道沿いにある

能生海水浴場、弁天島方面を望む

国道8号線能生信号付近

居多ヶ浜
親鸞聖人上陸地点付近の海岸は居多ヶ浜と呼ばれている。、現在、付近は海水浴場となっている

親鸞聖人上陸の地
海浜から一段高くなった場所に碑と説明板が建てられている

居多ヶ浜(こたがはま)・親鸞聖人上陸の地

五智国分寺を出た後、海岸方面に向かって歩いてゆくと「親鸞聖人上陸の地」に着く。海浜から一段高くなったところに碑と説明板が立っている。

(親鸞聖人上陸の地・説明板より)
浄土真宗の開祖親鸞聖人は、はじめ比叡山で天台宗を学んだが、後に法然上人の門下に入って専修念仏(浄土宗)の信仰に帰依した。承元元年(1207)浄土宗の教えが旧来の仏教による弾圧を受け、法然に連座して京を追放された親鸞は越後国府に流されることになった。聖人は、北陸道を下って木浦(能生町)から船で国府にいたり、この地に上陸したと伝えられている。

次に、五智国分寺に立ち寄った。国分寺は、聖武天皇が天平13年(741)、一国一寺の建立を命じたのが始まりである。当時の越後国分寺の所在については諸説があり、わかっていない。現在の国分寺は、永禄5年(1562)廃寺のようになっていたものを上杉謙信が再興したものである。しかし、その後本堂、三重塔ともに何回か火災にあっている。

直江津市街から居多ヶ浜まで

国道8号線沿いにあるホテル(ルートイン上越)を出発したのは7:30頃だった。国道をまっすぐに行くと道路標識に五智国分寺の名が見えるので右に曲がり、案内標識にしたがってゆくとやがて「親鸞聖人配所御旧跡 本願寺国府別院」という大きな看板が見えてくる。まずは、ここに立ち寄る。

筒石漁港

急坂の途中に建つ筒石郵便局

自転車歩道より筒石集落を望む

本願寺国府別院入口付近

国道8号線国府信号付近

親鸞聖人は、承元元年(1207)35歳のとき、朝廷の念仏停止によって、越後国府に配流になった。その後7年間この地にとどまり、念仏の教えを広めるとともに恵信尼との結婚生活を営んでいる。江戸時代に入るとこの配所跡に参拝者が多くなり、文化2年(1805)現在の本願寺別院が建立された。
このあたりには神社仏閣が多い。本願寺国府別院を出た後、居多(こた)神社に立ち寄った。この神社は越後国司、越後守護上杉家・上杉謙信の厚い保護を受け越後一の宮として、崇敬されてきた。

居多(こた)神社
延喜式に記載された式内社。上杉家の厚い保護のもと越後一の宮として崇敬された

本願寺国府別院
現本堂は、親鸞聖人の配所跡に江戸時代(文化2年)に建立された

名立

筒石

有間川

信越本線

やがて有間川漁港が見えてくる。国道沿いに北陸線の有間川駅があるが、これから先は鉄道は長いトンネルに入り、海岸沿いは国道と並行した自転車歩行者道のみとなる。 現在は快適なこの海岸沿いの道も昔は難所で、海の状況によってしばしば通れなくなり、山のきびしい道を迂回しなければならなかったという。現在、山の旧道も一部残っているようだが、あえてたどることはしなかった。

大糸線

長浜トンネル
自転車歩行者専用のトンネルである。国道にはほとんどトンネルはないが、この歩行者道路には随所に小規模なトンネルが掘られている

久比岐(くびき)自転車歩行者道
国道とほぼ並行に独立した自転車歩行者道が設けられている。直江津から糸魚川まで約45Kmも続いている立派なものだ

能生の旧街道風景
旧道沿いには、かなり長い距離にわたりこのような町並みが続いている

自転車歩行者道より能生の町並みを望む
海岸には漁港の設備が見える能生は漁業の町である