旧北国街道の標識
この山道は、おそらく昔のままの北国街道だろう。旅人たちが行き交った昔がしのばれる

青海川集落と米山大橋の橋脚
青海川駅前からは集落の方向に真っ直ぐな道が伸びている。北国街道旧道は右手の山道を登ってゆく



奥の細道歩き旅 第2回

青海川から鉢崎まで

柏崎駅発7時ちょうどの電車で、青海川駅には7:15に着いた。今日はここからのスタートである。駅前の道をまっすぐに進んでゆくと、「笠島(北国街道)」という矢印の案内標識が立っており、それにしたがって右手の細い山道に入る。かなり急な坂道で、駅や海がどんどん小さくなる。途中に「旧北国街道」の標識が立っていた。

高田の見学はそこそこにして電車で直江津に戻り、本日の宿泊ホテル(ルートイン上越)に到着したのは17:30頃だった。

県道に戻り、さらに先を続ける。少し先の道の脇に古い井戸と小さな池があり、説明板が立っている。
『どんどの石井戸 1660年 潟町に北国街道の宿場がつくられたが、宿場の東端に清水が湧き出して水車のある酒店があったと、越後頸城郡誌稿に記されています。今でも一部利用していますが、昭和25年ごろまでは、村人の飲料水として多く利用され、夕刻には水運びの人で賑わったものです』

さらに少し先に「明治天皇潟町行在所」の石標の立った古い構えの家があった。明治天皇の巡幸の折にここで休息されたのだろう。それにしても明治天皇の足跡というものは全国の街道のいたるところに残されている。当時の人々にとって、天皇が全国を巡幸されるということは画期的なことだったのだ。

今日は青海川から直江津まで歩き、できれば高田まで足をのばしたいと思っている。直江津から高田までは電車を使う予定だが、それにしても結構距離がある。昨日は柏崎駅前のビジネスホテルに泊まった。朝食は用意のパンで済ませ、6:45にはホテルを出発した。

高田

直江津駅には15:40頃到着した。15:59発の長野行きがあったのでそれに乗り、高田に着いたのは16:10頃だった。雨は一時止んでいたのだが、電車に乗っている頃からまた降り出し、高田に着いたときには激しい雷雨になった。しばらく様子を見ていたが止みそうもないので雨の中を歩き出した。当初は高田城跡の高田公園まで歩こうと思っていたのだが、風雨が激しいのであきらめて駅の周辺をぐるりと回るだけにとどめた。
高田は大きな町である。高田駅の建物は、何かを模しているのだろうが大変面白い。駅前の通りも広く、両側の商店街は賑やかで華やかである。
高田は名にしおう豪雪地帯である。昔から雁木(がんぎ)造りといわれる町造りが行われていた。雁木は家の軒から庇(ひさし)をせり出し、雪深い冬の道を少しでも確保しようとする雪国独特の街づくりのことで、駅の周辺には昔ながらの雁木造りの町並みが見られる。
芭蕉は直江津(今町)で二晩を過ごした後、わずか一里半はなれたところにある城下町高田に案内される。高田の医者で俳人の細川春庵に招かれたのである。直江津、高田での5日間はいずれも句会を開いている。この間に「荒海や」の句が「文月や六日も常の夜には似ず」とともに披露されたようだ。

直江津駅前商店街
大きな駅の割には駅の周りはなんとなくさびしい雰囲気だ

旧街道風景 (黒井バス停付近)
この辺りまでは旧街道の面影は残っている。この少し先から直江津の市街地になり雰囲気はなくなる

直江津 (今町)

県道をさらに進む。犀潟、八千浦と過ぎ、やがて黒井に着いた。ここから直江津まではもう近い。黒井から先は直江津の市街地になり旧道筋はよくわからなくなるので、とりあえず関川を渡って直江津駅を目指すことにした。今日はこの後、直江津駅から電車で高田まで行く予定である。
直江津は、かつては今町と呼ばれた。曾良の旅日記によると、今町での芭蕉の行状は次のとおりである。今町の聴信寺の眠鷗あてに低耳がまたも紹介状を書いてくれていた。早速、聴信寺を訪ねると、忌中だとすげない扱いをされたので出てきてしまった。ここでも低耳の紹介状は効き目がなかったわけだ。それを知った石井善次良というものが芭蕉の名を知っていたらしく、使いのものを走らせて引止めにかかった。使いのものと押し問答をしているうちに雨が降り出し、結局、その日は古川市左衛門方に宿泊することになった。晩にはここで句会が開かれているが、芭蕉が江戸の高名な俳諧師だということがわかって、聴信寺の眠鷗も出席している。

柿崎漁港から県道に戻り先を続ける。県道はいかにも旧道らしい雰囲気で、民家がほとんど途切れることなく続いている。やがて、右手に人魚塚公園という案内標識が見えたので寄ってみた。右に曲がって少し行くと海岸で、その手前に小さな公園があり、「人魚塚之碑」と大きな常夜灯が建っている。ここ雁子浜の人魚塚には昔から人魚伝説があり、その話をヒントに小川未明が童話「赤いローソクと人魚」を書いた。小川未明は上越市に生まれ、多くの童話を発表して「童話の父」と呼ばれている。

「赤いローソクと人魚」の書き出し (説明板より)
『人魚は、南のほうの海にばかり住んでいるのではありません。北の海にも住んでいたのです。北方の海の色は、青うございました。あるとき、岩の上に女の人魚があがってあたりの景色を眺めながら休んでいました。・・・』


公園に着いたのが12:30頃。ベンチもあり、ちょうどよいのでここで昼食にした。今にも雨が降り出しそうな空模様だったが、食事が終わった頃ポツポツと降り出した。

県道129号線柿崎駅付近
県道沿いには商店や民家が建ち並び、それなりの賑わいがある

国道8号線と県道129号線分岐点
鉢崎を過ぎた後、国道は海岸沿いを走り、上越市に入ると県道129号線(旧国道)が右に分かれてゆく

鉢崎から直江津へ

曾良の旅日記によると、次の日(7月6日、陽暦8月20日)の様子は次のようだった。『雨晴。鉢崎ヲ昼時、黒井ヨリスグニ浜ヲ通テ、今町ヘ渡ス。』 いつもと違って昼時に出発したというのだから、前日の疲れが相当たまっていたに違いない。次の宿場、今町(直江津)までは約六里だから、そのくらいの時間に出ても夕方には目的地に到着したのだろう。
私は国道8号線にもどり、先に進む。。国道は海岸沿いを走るようになり、やがて上越市に入ってゆく。上越市境の標識から少し行くと、県道129号線が右に分かれてゆく。こちらが北国街道の旧道なので、これから先、直江津付近まではこの県道129号線を行くことになる。県道をしばらく進むとJR柿崎駅がある。

国道はやがて胞姫橋を渡る。橋の下には上輪(あげわ)集落が見える。旧道は下の集落内を通り、その先の亀割坂で米山峠を越える。私は国道ルートを歩いてしまったので旧道の様子はよくはわからない。国道は胞姫橋の少し先で米山トンネルに入り、米山峠を越える。

峠の頂上、旧道が国道8号線と接するところに「酒の新茶屋」という店があった。場所的には昔の街道にもこのあたりに茶屋があってもおかしくないところだ。店の横から旧道らしい道がしばらく続いている。少し先の空き地に「明治天皇青海川行在所」という石標が立てられていた。あたりには説明板もそれらしい遺構も見当たらなかった。

「明治天皇青海川行在所」石標
峠を登ってきた天皇がここで休憩されたのだと思うが、何も説明はなかった

峠の頂上にある「酒の新茶屋」
ここで旧道は大橋をわたってきた国道8号線と接続するが、旧道はもう少し先まで残っている

旧道はやがて国道に合流する。このあたりは高台になっており、海はかなり下のほうに見える。国道を進むと笠島集落に下ってゆく旧道が右に分かれる。旧道を下ってゆくと笠島集落の様子が見えてくる。海岸には漁港施設があり、近くに笠島駅も見える。青海川よりは規模の大きな集落だ。駅の近くまで下ってゆくと、途中には旅館や民宿などもある。私は昨日は青海川から電車で柏崎まで戻ったが、ここまで足をのばせば宿泊場所を見つけることはできる。青海川からは2Kmくらいの距離である。

奥の細道歩き旅 白石~槻木

雁木の町並み
駅の周辺には昔ながらの雁木造りの町並みが見られる

高田駅前大通り
高田駅前の商店街には賑わいと華やかさがある

高田駅正面
昔風の面影を残す高田駅正面の様子

明治天皇潟町行在所
旧北国街道にも明治天皇巡幸の足跡はいろいろと残されている。ここもその一つだ

どんどの石井戸
北国街道の宿場、潟町の東端に古くからあった井戸、湧水。昔から土地の人に共同で利用されてきたという

柿崎漁港
護岸に囲まれた小さな漁港だが、小さな漁船が何艘も待機していた

柿崎漁港付近から望む米山
それほど高い山ではないが、独立峰で大変美しい
信仰の山にふさわしい姿だ

柿崎駅を過ぎて少し行くと、「柿崎漁港(はまなす群生地)」という案内標識があったので立ち寄った。まだ、はまなすは咲いていないが、この海岸から眺める米山はすばらしかった。標高は993mとそれほど高い山ではないが、独立峰で姿がよい。信仰の山になる条件を備えている。自然に「三階節」の歌と文句が浮かんだ。『♪米山さんから雲が出た いまに夕立が来るやら ピッカラ シャンカラ ドンガラリンと音がする・・』

米山の様子
高架を走る北陸自動車道、その下を走る国道8号線。その先に雪を戴いた米山がどっしりと控えている(県道と国道の合流点付近

名勝 牛ヶ首
このあたりは「佐渡弥彦米山国定公園」の一部で、米山福浦八景の一つとなっている

笠島集落の様子
漁港施設の近くにJR笠島駅がある。青海川よりは規模の大きな集落で、駅近辺には旅館、民宿などもある

国道8号線笠島付近
付近に北陸自動車道米山ICがあり、交通量も幾分多いようだ。この少し先で旧道が笠島集落に下ってゆく

笠島集落内の県道は、海岸沿いの見晴らしのよい高台を進み、米山福浦八景の一つ、「牛ヶ首」を望むことができる。この県道はやがて国道8号線に合流する。合流点付近からは米山(よねやま)を間近に望むことができた。米山は標高993mの信仰の山で、三階節、米山甚句などでも有名である。

胞姫橋の下に広がる上輪集落
北国街道の旧道は下を通っているのだろう。信越本線の線路も見える

国道8号線胞姫橋
旧道の通る集落が下に広がっているが、私はこの橋でバイパスした

鉢崎(はつさき)

米山トンネルを抜けた国道はゆるい下り道となり、やがて柏崎市米山町に入ってゆく。このあたりは、かつて鉢崎(はつさき)と呼ばれる宿場となっていた。芭蕉はここに夕方到着し、俵屋六兵衛方に宿泊した。柏崎から青海川、笠島、そしてこの鉢崎手前の峠とアップダウンを繰り返す四里の道のりは、かなりきつかったはずである。折々雨の降る道中を芭蕉はどのような気持ちで歩いたのだろうか。
宿場町としての鉢崎は、明治30年の信越本線の開通で役目を終えた。現在は地名も米山町と変わり、信越線の駅名も米山駅である。国道から駅前まで歩いてみたが、途中の郵便局名は「鉢崎(HASSAKI)郵便局」だった。

鉢崎郵便局付近
郵便局の名前に鉢崎(HASSAKI)の地名が残っていた。この辺りが宿場の中心だったのだろうか

国道8号線から米山駅方面を望む
このあたりはかつて鉢崎という宿場町だった。現在は米山町となり、信越線の米山駅がある

人魚塚公園,
ここに伝わる人魚伝説をヒントに小川未明は童話「赤いローソクと人魚」を書いた
人魚塚之碑と大きな常夜灯が建っている

県道129号線風景(潟町)
いかにも旧道という感じである。上越市大潟区、人魚塚公園付近