御幸橋から見た中川の様子
埼玉県南部には、かつての利根川や荒川の流露跡と思われる川筋があちこちに見られる。これもそのひとつである
国道4号線、日本橋〜50Km標識付近
幸手から先の国道は、利根川まで約7Km続く
旧道脇の一里塚跡と弁天堂
国道下に並行して旧道が残っており、一里塚跡も古い弁天堂とともに保存されていた
旅の2日目である。連休中の5月5日、今日もさわやかな晴天である。芭蕉は2日目には粕壁宿から間々田宿まで約37Km歩いているが、私は途中の古河まで約28Kmを歩くことにした。
JR古河駅
古河市内の繁華街を通る旧道
古河に向かう日光街道旧道
明治天皇御少休所跡碑
明治天皇東北巡幸の折に一休みされた場所
杉戸宿の看板
よく見たら清酒の銘柄の名前だった。でも、この辺はもう杉戸宿だ
旧道と国道の合流点
「左 日光道」の道標
幸手一里塚跡
明治初めまで両側に塚があったという
粕壁宿
春日部駅前の通りをまっすぐに行くと日光街道旧道に出る。私が前回粕壁宿に着いたときには、近道して駅に急いでしまい旧道を歩いていない。そこで、今回は宿場の入口から改めて旧道を歩きなおすことにした。旧道を戻ってゆくと国道4号線との分岐点に達する。ちょうどこの辺が宿場の入口になる。この地点に東陽寺というお寺がある。このお寺には、芭蕉がここに泊まったという言い伝えがあるという。はじめての宿場で一夜の宿を探すのは、同行者・曾良(そら)の重要な役割だっただろう。ようようのことでたどり着いた粕壁の宿で、彼がこのお寺と宿泊の交渉をしたということは十分に考えられる。
お寺をスタート地点として少し進むと、「東 江戸、西南 いわつき」と書いた古い大きな石の道標が立っている。さらに進むと日光道中粕壁宿の説明板が立っている。これによると「粕壁宿は、元和2年(1616)に日光道中千住宿より数えて4番目の宿場に定められた。寛永13年(1636)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場は賑わい一段と発展した。・・・」とある。江戸末期の粕壁宿には本陣1軒、旅籠45軒をはじめとして商店など159軒の家並が続いていたというが、現在この通りには昔の面影はほとんどない。
(総行程 約28Km)
ところで、そろそろおなかがすいてきたので、食事の場所を探しながら歩いているのだが、適当な公園や神社も見当たらない。そのうちに現代風のホテルの脇のスペースにベンチが置かれているのを見つけた。時計を見ると12:40、ちょうどよい時間なので、この場所を借りて昼食にした。となりのホテルは「旅館 あさよろず」という。ネーミングがいかにも古風で、宿場の中心部でもあり、かつての旅籠の流れを汲んでいるのかもしれないと思った。
おなかもいっぱいになり、また元気に歩き始める。少し先に幸手の一里塚跡がある。現在では説明板が立っているだけだが、明治の初めまではここの両側に塚があったという。道は少し先で再び国道に合流する。
幸手宿風景2
明治天皇行在所跡記念碑
幸手宿風景1
幸手宿
幸手宿は日光街道と日光御成街道との合流点にあたっていたためかなりにぎわったという。宿場の中心部付近に、明治天皇行在所(あんざいしょ)跡碑が建っている。明治天皇は明治9年、14年、29年と東北巡幸をされ、いずれも幸手に宿泊されている。このあたりには、古い家もいくつか残っている。
日光街道旧道と日光御成街道との分岐点付近の様子
杉戸、幸手間の国道の様子
杉戸〜幸手間の国道歩きは約4Km
杉戸から幸手へ
やがて、旧道は国道4号線に合流する。国道を4Kmくらい歩くと再び旧道が左に分かれ、幸手市街に入ってゆく。幸手の旧道には日光街道の統一したデザインの標識が立てられており、少し先に御成街道の分岐を示す標識があった。
黒い蔵のある家
立派な門のある古い家
街道沿いの質店
杉戸宿
杉戸宿に近づくと、旧道が国道4号線から左に分岐してゆく。やがて大きく杉戸宿と書いた看板が見えてきた。よく見ると清酒の銘柄の看板だったが、古い家なので昔からの造り酒屋かもしれない。さらに少しゆくと明治天皇御少休所跡碑が建っていた。このあとも、旧道沿いに古い構えの家がいくつか続く。このあたりが宿場の中心だったのかもしれない。
旧道沿いの古風な構えの商店
旧道沿いには、建物は新しいが古風な構えの商店がいくつかあった
旧道脇の古い石の道標
右側に「東 江戸」、正面に「西南 いわつき」 、また左側には「天保5年2月・・」とある
芭蕉が宿泊したと伝えられる東陽寺
粕壁宿の入口に位置し、旧道に面した山門の脇には「伝芭蕉宿泊の寺」という新しい石標が建てられている
新町橋から見た古利根川
かつては利根川の本流だったこともある。左側に見える細い川が古隅田川。有名な在原業平説話の隅田川はこの川が本当だという
幕末に建築されたという古い商店
日光街道と岩槻街道の分岐点に建てられている山田商店。日光街道は右に曲がり、岩槻街道はまっすぐ行って少し先で左に曲がる
旧道をさらに進むと新町橋(西)信号に出る。日光街道はここで右に曲がるが、ちょうどこの場所に古い大きな家が建っている。これは、享保(1716〜36)頃から営業を続けている山田商店で、建物は幕末の建築だという。
信号で右に曲がると、少し先に古利根川が流れている。江戸時代以前にはこの川が利根川本流だったらしいが、利根川の東遷により江戸時代には本流ではなくなっている。日光街道は新町橋でこの川を渡り、少し先で左に曲がる。
栗橋、利根川へ
国道をしばらく行くと、日本橋からちょうど50Kmの道路標識があった。その少し先に新しい橋がある。中川にかかる御幸橋である。この川もかつては古利根川の分流の一つだったのだろう。埼玉県南部には古利根川とか元荒川とか、かつての流路を示すような川筋がそこかしこにある。このあたりの中川もその一つである。
利根川を渡り古河宿へ
利根川を渡ると、対岸にはかつて中田宿があった。しかし、明治末年からの利根川の改修工事により、かつての宿場は利根川の河原になってしまったという。それほどに利根川は広いということだ。
国道を進むと、左に県道228号線が分かれてゆく。これが日光街道旧道だ。比較的静かな雰囲気の道を約6Kmほど行くと、賑わいのある古河市内に入ってゆく。芭蕉はここからさらに10Kmくらい先の間々田宿まで歩いているが、私はここで今日の旅を終える。JR古河駅に着いたのは16:30だった。
国道沿いには農村風景が広がり始め、そのうち国道は自動車専用道路となる。旧道は自動車道路の下にほぼ並行して続いている。そんな旧道の脇に一里塚跡があった。このような道をしばらく歩くと、ようやく道は利根川の土手にぶつかる。土手に登ると、これまでとはちがう景色が広がっている。やはり利根川は広い。眺めていると気持ちまで広々ととしてくる。
利根川橋の上流約50mほどのところに、かつて栗橋の関所があった。この関所は曾良の旅日記にも「手形も断りもいらず」とあり、あまり厳しくなかったらしい。関所を出て堤を降りたところが渡船場になっていた。現代の旅人は国道の利根川橋で川を渡る。