瀬波温泉街風景
県道3号線沿いに大きな温泉旅館が建ち並んでいる

築地

国道
116号線

越後線

羽越線

上越新幹線

燕三条駅

国道7号線

胎内川
胎内市という名称はこの川にちなんでつけられたものだろうか。それにしても部外者にはなじみのない市の名称だ

湧水の里自然ふれあい公園
付近には湧水が多く、水芭蕉が群生し、イバラトミヨという湧水特有の貴重な魚が生息している
県道から400mほど入ったところにある

弥彦駅

弥彦山

弥彦神社

新潟駅

新潟

新発田駅

中条駅

村上駅

芭蕉はここから船に乗った

新潟

信濃川

阿賀野川

福島潟

鳥見前潟

塩津潟

日本海

(参考)築地から新潟までの水路の様子

現在の地形では、築地から新潟まで水路が通じていたことなどは想像できないのだが、「正保越後国絵図」にその様子が描かれている。
築地には塩津潟があり、その先に鳥見前潟、福島潟などがあり、それらを結んで水路が開かれている。新潟付近では阿賀野川と信濃川が合流し、大きな河口を形成している。これらの水路をたどってゆけば築地から新潟まで船便で到達することができた。

(右図は「奥の細道の旅」杉原恭男、杉田美登著より転載)

お幕場(まくば)公園

県道3号線は岩船集落を過ぎると、トンネルを抜けてきた国道345線と合流する。これからしばらくの間はこの国道を歩くことになる。国道をしばらく歩くと、道の右側に大きな池が見えてくる。冬場には白鳥の飛来地として知られる「お幕場大池」である。私が通った11月27日には、たくさんの白鳥とカモの群れが既に飛来していた。池には餌付け設備や観察施設などが整備されている。この大池を含む一帯は、「お幕場森林公園」として整備されている。岩船から塩谷にいたる国道345号線と日本海に挟まれた地域をかつて「お幕場」といい、村上藩当時、お殿様や奥方、奥女中の人々の遊園、行楽の場として使われていたという。現在も国道沿いに長く林が続いており、晴れていれば気持ちのよい道なのだろうが、私が歩いたこの日、雨が激しく降り、びしょぬれになりながらの歩行だった。

村上

村上から出雲崎

日本海

奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石~槻木

旧街道の面影を残す金屋集落
街道沿いに民家が長く続いており、昔の街道の面影がある(金屋信号付近)

荒川にかかる旭橋
河口に近いので川幅が広く、橋の長さも長大である。橋を渡ったところで道はT字路になる

羽越線中条駅
中条町という名前は消えたが、中条駅は胎内市の中心の駅であることは変わらない

中条駅前通り
道路標示版ではこの先が胎内市街となっている

芭蕉が村上に着いたのは、6月28日(陽暦8月13日)の午後4時頃である。当時の村上は、榊原家十五万石の城下町であった。芭蕉たちは宿を取ると早速、村上城中に家老の榊原帯刀(たてわき)を訪ねた。帯刀は、曾良がかつて仕えていた主家筋に当たり、挨拶に伺ったのだ。翌日、帯刀から金百疋(現在の10万円程度)が届けられた。この日の午後には宿の主人の案内で瀬波海岸に出かけた。翌7月1日の朝、芭蕉と曾良は世話になった人たちに見送られて、次の宿泊地築地(ついじ)に向けて出発した。

築地から中条へ

私は築地の交差点を左に曲がり、JRの中条駅に向かった。芭蕉は築地から船で新潟に向かったが、私は中条駅から電車で新潟に向かうのだ。築地から中条までは約4Km、駅に着いたのは15時頃。15:20発の電車に乗り、新潟駅前のビジネスホテルに到着したのは16:30頃だった。今日は一日中、雨が降り続いていた。

塩津潟の名残?
芭蕉は築地から塩津潟の水路を使って新潟に出た。現在塩津潟は残っていないが、築地付近には潟の名残のような風景が見られる

県道3号線築地交差点付近
芭蕉はこの築地村で1泊している。この交差点を左に曲がって道なりに行くと羽越線中条駅に出る

築地(ついじ)村

県道はやがて築地(ついじ)の交差点にさしかかる。この辺がかつての築地村の中心部だろうか。芭蕉はこの村の次市郎宅に夕方到着し、1泊している。翌7月2日は昼頃から晴れて「アイの風」が吹き始めた。曾良が風について記しているのは、築地から船を使ったことを示している。築地は塩津潟の北の端にあった。当時、塩津潟から加治川、阿賀野川、信濃川などを経て新潟湊にいたる船運が開けていた。芭蕉もこの水路を使って新潟へ出たようだ。「アイの風」は、この地方では北の風で、築地から新潟へは順風で、新潟には午後4時頃到着した。

乙宝寺三重塔
三重塔は慶長19年(1614)から6年の歳月をかけて建立。素木(しらき)造りで装飾彫刻の類はなく、杮葺(こけらぶき)。国重要文化財

乙宝寺本堂(大日堂)

乙宝寺仁王門

乙宝寺(おっぽうじ)

乙宝寺は古い由緒を持つお寺である。門前に説明板が立っていたので、引用させていただく。


(乙宝寺)
乙宝寺の創建は、天平8年(736年)聖武天皇の勅願により、行基菩薩と婆羅門僧正の二人が開山したと伝えられる。「今昔物語」「古今著聞集」などにこの寺にまつわることが記されている。
本堂に向かって右手前に立つ三重塔は、村上城主・村上義明が願主となり、慶長19年起工、元和6年(1614~1620)に完成した。昭和26~28年解体修理し、往時の姿に復元された塔は純和風で、歳月を重ねた木肌の美しさと荘重かつ均整の取れた構えは周囲の老杉と調和して、国の重要文化財としての風格を示している。

乙宝寺付近の道沿いに建つ立派な蔵
芭蕉を歓待した次作の家もこのような立派な蔵を持つ家だったかもしれない

乙村、乙宝寺参道
県道3号線から一本それた静かな道である。突き当りが乙宝寺山門となる

乙(きのと)集落

田園地帯を過ぎると、街道沿いに民家が続く乙(きのと)集落になる。芭蕉は乙村の庄屋・次作を訪ね、大変な歓待を受けた。芭蕉が歩いた日も朝から小雨が降り、乙村に着いたときには一時大雨が降ったがすぐに止んだので、次作の案内で乙宝寺に参詣した。
乙宝寺へは県道から一本それた参道を行く。古い門前町の様相を残す道である。道沿いに趣のある古い立派な蔵が建っていた。

林の続く雨の国道を3Kmくらい進むと大きな川に出た。荒川という川で、長い旭橋で川を渡ると道はT字路になる。北国浜街道(現国道345号線)はここを右に曲がって海岸沿いを進むが、芭蕉はここを左に曲がって乙(きのと)村に向かった。私もこちらの道(県道3号線)を進む。やがて道は金屋集落に入ってゆく。街道沿いに民家が続き、昔の街道の面影を残している。しばらくの間民家が続いた後、道は再び田園地帯を通るようになる。

国道345号線とお幕場森林公園(右側)
国道と日本海に挟まれた地域は公園として整備されている。このあたりで最も風雨が激しくびしょぬれになった

白鳥の飛来地「お幕場大池」
お幕場森林公園の一部で、冬場には白鳥の飛来地として知られている。私が通ったときにはたくさんの白鳥とカモが既に飛来していた

乙宝寺

北国浜街道

村上から出雲崎へ、芭蕉がたどった越後路

ここで、村上から出雲崎にいたる、芭蕉がたどった越後路の概略をながめておこう。前にも記したように、芭蕉はこの間の出来事を本文にはまったく記していないので、この間の行動はすべて曾良の日記によるものである。(右の地図参照)
7月1日、村上を出発した芭蕉は、乙(きのと)村を経て築地に至り、ここに宿泊した。次の日、築地を出発したが、築地から新潟までは当時水路が通じており、芭蕉たちは舟を使ったようだ。新潟には1泊して、次の日には弥彦に到着している。弥彦神社に参詣後1泊し、次の日は寺泊を経て出雲崎に到着している。


村上から瀬波温泉へ


11月27日7:20頃、私は村上駅前の旅館を出発した。今日は朝から雨模様で、出発時にも結構強く降っていた。天気がよければ少し村上市街の芭蕉縁の地を訪ねてみようと思ったのだが、これはやめて直に瀬波温泉方面に向かう。
村上駅前の旅館から鉄道線路に沿って勝木方面に少し戻ると国道345号線に出る。この国道を海岸方面に向かって歩く。10分くらいで国道は左に分かれてゆくが、そのまままっすぐに進むとやがて瀬波温泉の旅館街になる。

瀬波海岸から乙(きのと)村へ

温泉旅館街をさらに進むと、道は海岸にぶつかる。海岸は瀬波海水浴場となっている。海岸べりにも大きな温泉旅館が建っている。この辺も海に沈む夕日がすばらしいのだろう。海岸沿いの道を行くと、やがて川を渡り、岩船の集落に入る。ここは昔からの漁港である。岩船集落を通る道は、かつて村上から高田に通じる街道で、北国浜街道と呼ばれていた。現在はこの道筋は県道3号線となっている。岩船周辺には、現在でも古い街道の面影が残っている。

岩船あたりの北国浜街道
近くに岩船漁港があり、かつての北国浜街道の面影が残っている

瀬波海水浴場
温泉街のすぐ近くに瀬波海水浴場がある。雨の海辺はさびしかった

国道116号線

出雲崎

寺泊

寺泊駅

日本海

乙宝寺から築地(ついじ)村へ

乙宝寺を見学した後、門前の道を道なりに進めば県道3号線に合流する。県道は田園地帯を進む。途中に水芭蕉群生地の案内が出ていたので寄ってみた。もちろん今は水芭蕉の時期ではないが、このような市街地に近いところに群生しているというので興味を持ったのだ。周囲は「湧水の里自然ふれあい公園」となっていて、湧き水が豊富なようだ。
やがて胎内川を渡り、しだいに道沿いの民家も増えてくる。このあたりは平成の大合併により胎内市という名称に変わっている。平成17年に中条町と黒川村が合併してできた市である。