国道7号線から温海温泉への分岐点
温海温泉はここから県道44号線(右トンネル)に入り、約2.5Kmほど行った温海川沿いにある
温海町中心部(国道の温海川橋付近)
国道に並行して旧道が残っており、そちらのほうが繁華である。近くにJR温海温泉駅がある
10月27日に一旦帰京した私は、1ヵ月後の11月25日に続きを再開した。今回は三瀬から新潟の弥彦神社まで、4日かけて歩く予定である。
三瀬から笠取峠を経て小波渡(こばと)へ
前回と同じように、前日の23:09、新宿発の「ムーンライト・えちご」で、羽越線三瀬駅に着いたのは7:18だった。駅前をすぐ左に曲がる道があるのでこの道を行く。線路沿いの静かな道である。この道をまっすぐに進むと、そのまま笠取峠に続いている。途中から舗装はなくなるが、道幅は広く、車も通れる道である。現在はハイキングコースとして整備されており、途中には距離表示の案内板も立っている。三瀬駅から2.7Kmの標識がある付近で、これから進む方向の視界が開けた。眼下を国道7号線がまっすぐに延び、少し先でトンネルに入ってゆく。私が写真を撮っている場所も、国道のトンネルの上だろう。トンネルのできるまでは、この峠を越えなければならなかったのだ。
夕日ショーが終わると、急に寒くなってきた。急いで駅に戻り、やがて電車が来た。電車の中で温かい紅茶にウィスキーを入れて飲んだが、なかなか体は暖まらなかった。村上駅に着き、駅前の旅館に着いたのは18:30。旅館の部屋も寒く、風呂に入り、食事をしてようやく人心地がついた。
さらに峠道を登ってゆくと東屋が見えてくる。この東屋のあたりが峠の頂上で、ここからの眺めもすばらしい。。先ほどの場所よりもずっと高く、これまで進んできた方向を振り返ることができる。この辺からは東北の方向に鳥海山も見えるというが、残念ながらこの日は空が霞んで見えなかった。峠を下ってゆくと、途中にベンチがあった。ここまで三瀬駅から3.4Km、小波渡駅まで1.1Kmとある。ここからは、峠を越えた小波渡(こばと)集落、漁港の様子がよく見える。あとは下り一方で、JR小波渡駅までは近い。
標識付近から進行方向(西)を望む
トンネルを抜けた国道7号線が海岸沿いを走り、さらに次のトンネルに入る様子が分かる
笠取峠、三瀬駅から2.7Km標識付近
国道のトンネルができるまでは、この峠道が唯一の交通路だったのだろう。現在はハイキングコースとして整備されている
小波渡から温海(あつみ)へ
小波渡を過ぎると、国道の脇に「奥の細道 鬼かけ橋跡」という白い標柱が立っていた。曾良もその名を記しているが、今は周りには何もない。昔は大きな岩が張り出ていて旅人はその下を通ったというが、道路を整備するときに取り除かれたのかもしれない。さらに進むと波渡崎漁港が見えてくる。そこから少し先に「鳶ヶ坂トンネル」がある。旧道は峠に登ってこれを越えたが、峠道は荒れているようなので、私はすんなりとトンネルを抜けた。
久しぶりに国道から見る日本海
鶴岡市小波渡の道路標識が立っている。国道7号線、新潟から128Km地点
小波渡集落を通る国道7号線
右側は小波渡漁港、左側に集落が長く続いている
名勝 塩俵岩
三つの岩が注連縄で結ばれている。いわれについては説明がない
五十川から先の海岸風景
海岸にはこのような岩礁の景勝地が続く
温海(あつみ)
国道をなおも進むと、温海(あつみ)町の中心部に入ってゆく。このあたりは、いわゆる「浜温海」で、羽越線の温海温泉駅もここにある。国道と並行して旧道がとおっており、町の面影はそちらのほうに残っている。芭蕉は、先ほどの説明板にもあったように、この「浜温海」で1泊している。翌朝、芭蕉は馬で直に鼠ヶ関に向かい、曾良は芭蕉と別れて温泉の「湯本」を見物後、芭蕉のあとを追っている。「湯温海」といわれる温海温泉はここから約2.5Km離れた温海川沿いにある。現在は県道44号線が延びている。なお、温海町は、平成の大合併により鶴岡市に合併された。これから先の鼠ヶ関までが鶴岡市域となり、鶴岡市は全国でも指折りの広い面積の市となった。
旧道、宮名バス停付近
温海地域には旧道があちこちに残され、民家が続いている
鼠ヶ関
その後も国道は景色のよい海沿いを進む。ときどき旧道が山側に分かれて行き、しばらくすると国道に合流するということを何回かくりかえし、やがて鼠ヶ関の町に着いた。
鼠ヶ関(ねずがせき)は出羽と越後の国境で、白河の関、勿来(なこそ)の関と並ぶ奥羽三関のひとつである。芭蕉の頃も庄内藩と村上藩の藩境であり、関所が置かれていた。かつて、源頼朝に追われた義経が平泉への逃避行の途中、船でこの地に上陸。その際、弁慶が関所の役人の前で嘘の勧進帳を読み上げ、一行の危機を救ったという「義経記」の逸話は有名である。ただし、この話は歌舞伎では加賀の安宅関でのことになっている。
鼠ヶ関跡は国道のすぐ脇にある。説明板や大きく「勧進帳の本家」と書いた木の標識が立っている。江戸時代の関所の建物は払い下げられ、現在は整備された小庭園に柱と石垣の一部が残されている。なお、義経の時代の関所はここから南に1Kmほどのところにあり、慶長年間(1596〜1614)にこの地に移された。
ベンチ付近から小波渡方面を望む
ここまでくれば、小波渡駅まではもう近い
東屋付近より歩いてきた方向(東)を望む
先ほどの風景を逆方向から眺める。空がもっとすっきりしていれば、東南方向に鳥海山が見えるはずだが、残念ながら見えなかった
鼠ヶ関から勝木(がつぎ)へ
鼠ヶ関を越えると越後路に入る。ここからは山間の道として出羽街道が始まり、海沿いの浜街道も続いている。浜街道はこの先に「笹川流れ」という難所がある。芭蕉はこれを避けるため、この日は出羽街道の中村宿に泊まっている。ただ、、鼠ヶ関からすぐに出羽街道に入ったのか、羽州浜街道をそのまま海岸沿いに進み、勝木から間道を通って中村宿に向かったのか曾良の日記では記していない。中村宿へ出るには、当時としては出羽街道を通るほうがメインだったのだろうが、現在は勝木を経てかつての間道を通るルートが国道7号線となっている。私も、この国道7号線ルートを行くことにする。
鼠ヶ関跡から私は国道を少しそれて海岸沿いを歩いた。マリンパーク公園には「源義経上陸地」という昭和60年に建てられた碑が建っていた。鼠ヶ関アリーナ前を経て再び国道7号線に出、後は国道をタンタンと歩く。府屋駅前を過ぎ、やがて山側に向かう国道7号線と海岸線を「笹川流れ」方面に進む国道345号線の分岐点につく。ここから勝木駅までは近い。駅までかなりのスピードで歩いたのだが、わずかの差で15:59発の電車に乗り遅れてしまった。この後の電車は17:27まで待たなければならない。
羽越線・勝木(がつぎ)駅
駅名は「がつぎ」と読む。わずかの差で一つ前の電車に乗り損ねた。次まで1時間半待たねばならない
国道7号線と345号線分岐点付近(勝木)
国道7号線はまっすぐに山に向かって進み、国道345号線は右に曲がって海岸線を「笹川流れ」方面に進む
勝木(がつぎ)海岸の夕日
次の電車までかなりの時間があるので、私は海岸に出て夕日を見ることにした。海岸で夕日を見て駅に戻って、ちょうど電車が到着するくらいだろう。海側に向かって歩くと、国道345号線にぶつかり、これを少し行くと勝木川が流れている。この川の河口が砂浜になり、すこし高いところが小さな公園になっている。防潮堤の内側で、あまり広大な海の風景は望めないが、日はもう傾き始めている。ここで夕日の沈むのを待つことにした。前回の旅で吹浦付近から見た日没よりもさらに時間が早くなっている。16:20頃には太陽はもう水平線に近づいている。完全に日が水平線に隠れるまで約10分間、私は夢中でシャッターを押し続けた。
「立岩」
国道脇に、この岩だけが取り残されたようにぽつんと立っている。曾良の旅日記にも名前は出てくる
「あつみ山や吹浦かけて夕涼み」句碑
海の眺めがよい公園の一角に建てられている
夕日が水平線に隠れる寸前の様子
勝木海岸に沈む夕日(16:25頃)
勝木川の河口で、砂浜になっている。近くに防潮堤があるので、あまり雄大な景色にはならなかったが、夕日の沈む様はやはり感動的だった
近世鼠ヶ関跡
江戸時代の関所はこの場所にあり、慶長年間から明治まで存続した。古代の鼠ヶ関跡は昭和43年の発掘調査により、ここから南に1Kmの地点で確認された
鼠ヶ関跡付近の国道7号線
江戸時代の関所はこの街道に柵を設け、関所としていた。このあたりは海と山が迫り、狭い場所だった
国道「鳶ヶ坂トンネル」付近
旧道はこの手前から山に登って越えた。旧道も残っているらしいが私はすんなりとトンネルを抜けた
波渡崎漁港付近の国道
国道沿いに小波渡、中波渡と続き、このあたりは大波渡である