奥の細道歩き旅 第2回

酒田から羽州浜街道を大山へ

10月27日、私は酒田を出発した。今日は帰京の予定である。後の行程を考えると、できれば今日のうちに三瀬(さんぜ)まで行きたい。酒田から三瀬までは約36Kmある。早めに簡単な朝食をとり、7時にはホテルを出発した。酒田駅前からの通りを少し行き、左に曲がってまっすぐ行けば出羽大橋に出る。出羽大橋からの最上川は3日前にも見たが、今日も川面いっぱいにカモの大群と白鳥が群れていた。出羽大橋を越えれば、あとは国道112号線をまっすぐに進めばよい。この国道は旧羽州浜街道とほぼ重なっている。酒田市郊外の住宅地を抜けると、両側に防風林の続く静かな道が続く。

奥の細道歩き旅 白石〜槻木

国道112号線(旧羽州浜街道)の様子
海は見えないが、「庄内海浜県立自然公園」という看板が立っていた

出羽大橋から眺める最上川
3日前にも眺めたが、今日も川面いっぱいにカモの大群と白鳥が群れていた
もう、渡り鳥の季節だ

三瀬発15:22、途中、中条で特急に乗り換え新潟へ。新潟発18:13のMAXときで、自宅に帰りついたのは20:40頃だった。

国道7号線

旧出羽街道
芭蕉はこちらの道を通ったとする説もある

旧中村宿

笠取峠

笹川流れ

善宝寺

勝木

葡萄峠

温海温泉

鼠ヶ関跡

大山

三瀬

国道7号線

国道112号線

国道7号線
(出羽街道)

象潟へ

羽黒へ

羽越本線

羽越本線

鶴岡

酒田

酒田駅

鶴岡駅

日本海

村上

村上駅

日本海

6月18日(陽暦8月3日)、象潟から酒田に戻った芭蕉は豪商たちの歓待を受けた。6月25日まで滞在し、この間に近江屋三郎兵衛に招かれるなど、くつろいだ日々を送っている。出発のときには、酒田で世話になった不玉、近江屋など多くの人が見送ってくれた。


酒田から越後路に向かう芭蕉

芭蕉は、「おくのほそ道」本文で象潟についての思い入れたっぷりな文章を書き連ねた後、これから先の越後路については次のようにたった数行ですませている。

『酒田の余波日(なごり)を重ねて、北陸道の雲に望む。遥々(ようよう)のおもひむねをいたましめて、加賀の府までは百三十里と聞く。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改めて越中の国一振(いちぶり)の関に到る。此間九日、暑湿(しょしつ)の労に神(しん)をなやまし、病おこりてことを記さず。』

江戸を出発以来、既に3ヶ月近くなる。ここまでの旅はどちらかというと歌枕の地を訪ね歩く旅でもあった。象潟という一つのピークを過ぎ、これから先の越後路には、取り立てて歌枕の地や名所旧跡もない。芭蕉の旅心に多少の変化が現れてもおかしくはないだろう。巡るべきところは巡って、そろそろ帰り道にかかったなという気持ちも感じられる。越後路は、そういう意味で、ふっと力が抜けた時期だったのかもしれない。
その点、同行者曾良は実務の人だった。今までどおり、律儀に旅の記録を残してくれている。我々はそのおかげでその後の芭蕉一行の動静を知ることができる。

右の地図は、酒田から村上までの概略図である。酒田から鼠ヶ関までは旧羽州浜街道。ここまでは日本海沿いの平坦な道である。鼠ヶ関から先は越後に入る。道は旧出羽街道となる。この道は海岸沿いの難所を避けて内陸の道となっている。なお、芭蕉は鼠ヶ関から中村宿までは、出羽街道を行ったという説と勝木まで海沿いを行き、勝木から間道をつかって出羽街道に出たという二つの説があるようだ。現在は、この間道のほうが国道7号線になっており、私はこの道を通った。
国道をさらに進むと、大きな川が見えてきた。赤川である。この川は芭蕉の時代には酒田の町で最上川と合流していた。芭蕉も鶴岡から酒田までこの川を船で下ったものだが、昭和初期に砂丘を切り開いて現在のこの流れに付け替えられた。なおも国道を進むと、砂防林を抜け、浜中の集落に入ってゆく。浜中は曾良の旅日記にも出てくる地名である。浜中の少し先に庄内空港がある。国道は空港の下をトンネルで抜ける。空港の周りが小公園になっており、ベンチがあったので小休憩した。10時頃だった。

空港を過ぎてしばらくすると、国道112号線は右方向に曲がって行く。大山方面はここを左に曲がりさらにその少し先で右に曲がってゆく。この辺は少々分かりにくい道だ。大雑把な地図を頼りに進んで行ったが、何とか善宝寺に出ることができた。湯の浜ゴルフ場のために古い道筋が分断されているようだ。善宝寺は曹洞宗の名刹で、海の守護神・龍神さまの寺院として、北海道、東北、北陸をはじめ全国の漁業関係者に絶大な信頼があるという。
善宝寺の先で県道38号線に出、これをまっすぐに進むと大山に出る。大山は江戸時代には一万石の天領だった。庄内平野の酒造地でもあり、最盛期の明治時代には40軒ほどの造酒屋が軒を並べていた。現在も歴史をしのばせる酒蔵や古い町並みが残っている。芭蕉は、ここの丸や義左衛門方に宿泊している。

大山から矢引峠を越えて三瀬(さんぜ)へ

県道38号線は、大山で途中で分かれた国道112号線と再び出会う。この国道は、湯の浜温泉、加茂漁港など海岸沿いを通って、ここ大山を経て鶴岡方面に延びている。旧羽州浜街道は県道38号線である。大山で国道に出たら右に曲がり、少し先で左に曲がれば、あとはまたまっすぐな一本道になる。途中の適当な場所で昼食にした。13時頃だった。稲を刈り取ったあとの田圃に白鳥がたくさんいた。近くに沼などは見えないが、一山越えれば向こうは日本海である。

県道38号線を進むと、やがて国道7号線にぶつかる。この国道をまっすぐに行けば比較的楽に日本海側に出られるようだが、旧羽州浜街道はこのルートではない。旧道は国道を少し行ったあと左に曲がり、矢引峠、三瀬宿を経て小波渡漁港に出る。私はこのルートを進むことにした。しかし、大雑把な地図しか持っていないので、どこから矢引峠方面に入るのか分からない。国道を15分くらい進むと、左にまっすぐ延びている道が見えた。道を尋ねる人も見当たらないので、矢引峠はこの方角だろうと見当をつけて、この道を進むことにした。
多少不安に思いながらこの道を進んでゆくと、私の歩いている4,5m先に軽ライトバンがとまった。ドアが開き、中から若いお母さんが、声をかけてくれた。
「どちらまで行くのですか」
「矢引峠を越えて三瀬まで行こうと思っているのですが」
「私はこれから途中の中山まで行くのですが、よかったら乗って行きませんか。子供が小さいので、きたなくしていますが。それでよければ」
「それはうれしい、助かります」
ということで、この車に乗せてもらうことになった。私も長いこと街道歩きを続けているが、こんなことは初めてだ。
「私は、奥の細道を東京からずっと歩いているのですよ」
「それでは、かえって迷惑でしたか」
「いえ、そんなことはありません」と答えた私は、本当にうれしかった。ザックをかついて歩く見知らぬ旅人に声をかけてくれた、その気持ちに感じ入ったのだ。
車は峠道にかかる。それほど厳しい登りではないようだが、昔は街道の難所の一つだったという。
「昔、この峠道を義経の一行が通ったという話を聞いています。私は他所から中山に嫁に来たのであまり詳しくは知りませんが」
「芭蕉がこの道を通ったという話は聞いたことありませんか」
「さあ、そういう話は聞いたことがないですね」
途中、高速道路の工事をやっているところがあった。
「この辺は、今あちこちで高速道路の工事をやっているんですよ。いろいろと遺跡が出てきていると聞いています」
まだ、地図の計画道路にも載っていないが、日本海縦貫道路の先行工事部分かもしれない。現在、新潟、鶴岡、酒田、秋田などを結ぶ日本海高速道路はない。この工事が本格的にあちこちで始まれば、それこそ遺跡の発見が相次ぐだろう。日本海側は手付かずのところも多いはずだ。
そんな会話を交わしているうちに、三瀬の駅に着いた。丁重にお礼を言って、お母さんと別れた。爽やかな気持ちだった。あとで地図で調べると、矢引峠を越えて三瀬に至る道は県道334号線で、私が車に乗せてもらったのは約7Kmの区間だった。

農道から国道7号線方向を望む
農道を進むと峠方向に延びる道があり、それを進む。振り返ると国道が陸橋で羽越線を越えているのが見える
この少し先で車に乗せてもらった

矢引峠方面に向かう道
農道のような感じだが、「新奥の細道」という案内標識があったのでこの道を進んだ。突き当りで高速道路の工事をやっていたので途中で右に曲がる

三瀬(さんぜ)

三瀬駅に着いたのは14:40頃。車に乗せてもらったおかげで、予定よりずいぶん早く着いた。次の電車まではまだ時間があるので、三瀬の町の中を散策することにした。駅の前に「新奥の細道」の大きなガイドマップが掲示されている。ここには笠取峠を経て小波渡(こばと)に抜けるコースが記されている。次回はこのコースで笠取峠を越える予定だ。今日はその方向には行かず、町の中を少し歩いてみる。
三瀬は、かつて羽州浜街道の宿場だった。芭蕉も通り、古くは義経一行もここを通ったという。現在の町並みは昔の面影は残っていない。通りを歩いてゆくと、町の中ほどに「藤沢周平著『三年目』当時の江戸時代三瀬宿場町絵図」という大きな絵図が掲げられていた。
私はこれまで、藤沢周平という作家をあまりよく知らなかった。今回、庄内地方を旅してみて、藤沢周平の名前を目にすることが多かった。彼は鶴岡市出身で、庄内地方を舞台にした時代物の小説が多い。その一つに、ここ三瀬の宿場町を舞台にした「三年目」という短編がある。この宿場の常盤屋という店に奉公する「おはる」という女中が、三年目にきっと迎えにくるという男の言葉を信じてずっと待っていた。今日がその三年目という日に、その男は現れた。しかし、男は「あと三年待ってくれ」という。おはるは一晩考えた後、男のあとを追う、というごく短い話だ。この絵図には、この話に出てくる店の名前などがみな載っている。鶴ヶ岡から矢引峠を越えてやってきた男とか、これから向かう小波渡、温海など、私が今回の旅で知ることとなった地名がいろいろと出てきて楽しくなった。
この作品と一緒に、「龍を見た男」という作品も読んだ。これも短編だが、油戸に住む漁師、源四郎が海で絶体絶命のピンチに善宝寺の龍神を見たという話である。この話も善宝寺やその周辺を訪れた後で読むと大変興味深かった。作品のモデルの場所を知っているということは、興味を倍加させるものだ。これからしばらくの間、藤沢周平作品を読み続けることになるかもしれない。

藤沢周平著「三年目」当時の江戸時代三瀬宿場町絵図
町並みの中ほどに掲げられている大きな絵図。この絵図と見比べながら短編「三年目」を読むと面白い

三瀬の現在の町並み
三瀬はかつて宿場町だった。写真左の建物は「坂本屋」の看板があり、右写真の絵図によるとすぐ先に木戸が設けられていたようだ

国道112号線(羽州浜街道)浜中付近
曾良は浜中から大山まで三里と記している
現在はここから少し先に庄内空港がある

赤川河口風景
国道112号線は赤川を渡る。橋から日本海はすぐ近くである。赤川はかつて最上川に合流していたが、昭和初期にこの位置に付け替えられた

大山の古い造酒屋
大山は庄内平野の酒造地であった。明治時代には40軒もの酒造家が並んでいたという。現在もその面影が残っている

善宝寺五重塔
明治時代、漁業関係者の発願により「魚鱗一切の供養」として建立された。銅瓦葺、高さ36m

県道からの風景
山の向こう側は日本海だ。田圃に白鳥の群れがいた。はじめ鶴かと思ったが、体つきや嘴を見ると白鳥だ

大山から先の旧羽州街道(県道38号線)
大山から先、のどかな田園地帯を県道38号線が通っている。この道は旧羽州浜街道と重なっているのだろう