熊野神社
芭蕉が象潟に到着した日はちょうどこの神社の祭礼日で、参詣者でごった返していたようだ

きさかたさんぽみち・芭蕉動静絵図
芭蕉の滞在した3日間の様子が絵図として掲げられている。最低限これくらいは知った上で散歩したほうが興趣がわくだろう
奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

象潟から酒田へ

能因島付近を探索した後、私は象潟駅に向かった。国道7号線に出てまっすぐ行けば駅は近い。駅に着いたのは16時頃だった。象潟発16:16の酒田行きの電車がある。
象潟を出た電車は、はじめのうちは木々の間から時折鳥海山の姿が望める程度だったが、上浜駅を過ぎた辺りからしだいに左右の視界が開け、左に鳥海山、右に日本海の夕焼けと写真撮影に大忙しとなった。若い女性が一人、やはり同じように右に行ったり左に行ったりして写真を撮っていた。鳥海山は、今回の旅行ではじめて頂上まですっきりと姿を見せてくれた。電車は日本海の海岸線ぎりぎりを走り、車窓からの夕日はすばらしかった。

蚶満寺境内に残されている舟つなぎ石
蚶満寺は延暦年間慈覚大師が開山したと言われる。境内には象潟が海だった頃、この寺に渡るための舟をつなぐ石など、遺跡が多く残されている

旅姿の芭蕉像
蚶満寺参道の途中に建っている。台石裏には、平成元年8月1日付けの「奥の細道の旅三百年松尾芭蕉翁銅像建立趣意書」が記してある

蚶満寺(かんまんじ)、象潟九十九島

舟つなぎ石を見た後、蚶満寺(かんまんじ)に向かう。国道7号線に出て、案内表示にしたがって羽越線の踏切を渡ると蚶満寺門前の庭園がある。かつての水辺沿いに参道が続き、少し先に山門が見える。水辺の参道に立って沖の方向を眺めれば、九十九島といわれた島々の跡を認めることができる。眼を閉じれば、今でも潟に浮かぶ島々の姿がよみがえる。参道の途中に芭蕉の像が立っている。また、山門をくぐって蚶満寺に入ると、本堂の近くの小さな丘の上に宝暦年間に建てられた芭蕉句碑が建っている。境内の水辺には舟つなぎ石も残っている。当時、このお寺には舟で渡る必要があったのだ。
芭蕉は、象潟橋の近くから舟に乗った後、まず能因島を訪れ、そのあと蚶満寺に上陸した。そして、このお寺の中から潟の景色を眺めた。『此寺の方丈に座して簾(すだれ)を巻けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天をささえ、其陰うつりて江にあり。・・・』 という状況であった。また、松島の光景とも比べている。『江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひてまた異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂をなやますに似たり。

    象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花 

 (この象潟に来て雨に煙る風景を眺めやると、ねむの花の雨に打たれたような、哀れなやさしさがあって、あの美人の西施が物思わしげに目を閉じたさまとも見えることだ・・・・完訳日本の古典 芭蕉文集 小学館より) 』

芭蕉は、象潟(きさがた)の見物を楽しみにしていた。彼の敬愛する西行、能因が訪れている、この地への期待が非常に強かったのだ。象潟は「奥の細道」の旅の中でも最北の地である。芭蕉は、西行が行こうとして果たせなかった本州最北端の鰺ヶ沢辺りまで行きたいというひそかな願いを持っていたようだが、象潟に2泊した後、酒田に戻り、大垣への戻り道ともいえる日本海沿いの旅を続けるのである。

能因島方面を望む
現在の象潟小学校の東、約200mくらいのところにある小島。それらしい島がいくつかあり、はっきりと確認はできなかった。能因はこの島に庵を結び、3年間暮らしたという

能因島

私は蚶満寺を見学した後、国道7号線を駅の方向に戻り、能因島を目指した。象潟小学校のあたりで線路を渡り、田圃の方向に歩いてゆくと、やがていくつかの島の跡が見えてきた。あのうちのどれかが能因島だと思うのだが、はっきりと確認はできなかった。近くまで行けば頂上に「能因島」の標柱が立ててあるとのことだが、電車の時間が気になるので、遠くから眺めるだけにした。
能因は平安時代中期の歌人で、長くみちのくを旅し、象潟には3年間、小島の一つに庵を結んで暮らしたという。東南方向に鳥海山を望み、絶好の景観の中で暮らしたわけだが、日常の生活は船を使わなければならず、不便なものだっただろう。

かつての象潟九十九島
現在でも田圃の中にかつての島が小さな丘として残っている。文化元年(1804)の大地震により陸が隆起し、現在見るような状態になった

象潟の水辺を通る蚶満寺参道
かつてこの参道の左側は潟だった。前方に山門が見え、潟の中に張り出す形で寺があった。寺の本堂をはじめ境内の様子は大きな変化はないようだ

曾良の旅日記によると、6月18日は久しぶりに晴天になった。早起きをした芭蕉は、象潟橋まで行き、鳥海山の晴嵐をながめた。朝食を済ますと、塩越を発った。曾良は、「アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着」と記している。アイの風というのは、当時の北前船にとって順風だった。おそらくこの船に乗って酒田に戻ったのだろうと考えられている。



欄干橋(象潟橋)・舟つなぎ石

熊野神社の少し先に赤い欄干の「欄干橋」が架かっている。芭蕉の時代には象潟橋といった。この橋を渡ったところから象潟めぐりの舟が出ていた。現在橋下には象潟川という川が流れている。上流を見ると、すぐ先で水路が二股に分かれているが、その先は陸で普通の家が建ち並んでいる。芭蕉の時代、この橋から上流方面は潟になっていた。今見る風景とはまったく異なっていたのである。まず、この風景を見て、我々は芭蕉や曾良の記している「象潟」の世界と、現実に目の前にある「象潟」の違いをはっきりと認識しなければならない。芭蕉が訪れた後、115年を経過した文化元年(1804)6月4日の大地震で湖底が隆起し、潟が一変して陸となってしまったのである。このことを知らないで芭蕉の文章だけをイメージしてこの地を訪れる人がもしいれば、「えっ!なにこれー。うっそー」と言うことになってしまう。
橋を渡って左側に黒い石があり、そばに「史跡 舟つなぎ石」という標識と説明板が立っている。ここは、象潟八十八潟九十九島を巡る舟が発着した場所で、この黒い石は当時の舟をつないだ石だという。芭蕉と曾良は、6月17日夕方、ここから象潟めぐりの舟に乗った。嘉兵衛が、茶、酒、菓子などを持参して案内してくれた。

きさかたさんぽみち・芭蕉の歩いた道

芭蕉が宿泊した能登屋、向屋跡の前の道は、「きさかたさんぽみち」という案内標識と説明板が要所に立っている。能登屋跡の少し先には、芭蕉が象潟に滞在した6月16日から18日までの3日間の動静を示す大きな絵図が掲げてある。この道を案内標識にしたがって道なりに進んでゆくと、途中には芭蕉が象潟滞在中に世話になった庄屋、今野又左衛門、その弟で実際にいろいろ案内してくれた嘉兵衛の家跡などがある。ただし、建物自体には昔の面影が感じられるものはほとんどない。あくまでも、芭蕉の動静を知った上で、いろいろと想像しながら歩いて、はじめて興趣がわいてくる道だ。嘉兵衛の家跡の少し先に熊野神社がある。曾良が「所ノ祭」と記しているのはこの熊野神社の祭のことである。芭蕉が到着した日がちょうど、この神社の祭礼の日で、お客が多く、当初予定した宿(能登屋)に泊まれず、近くの別の宿(向屋)に移ったのだ。

車窓から眺める日本海の夕日
列車は日本海の海岸線ぎりぎりを走る。今まさに夕日が沈もうとしている。ローカル列車も、気分は「トワイライト・エクスプレス」だ

車窓から眺める鳥海山
鳥海山は頂上まですっきりと姿を見せ、ちょうど夕日が当たり始めた

史跡 船つなぎ石
昔、象潟川を遡ってきた和船が綱をかけて、船を停めるのに利用したことから「船つなぎ石」と呼ばれるようになった。象潟を巡る遊覧船はこのあたりの岸から出た

欄干橋(象潟橋)より昔の象潟方向を望む
芭蕉の時代、ここから上流は九十九島の浮かぶ潟になっていた
文化元年(1804)の大地震により陸が隆起し潟は消滅した