吹浦漁港付近の様子
ようやく浜辺に人の気配が感じられるようになった。長く続いた庄内砂丘もここまでである。この先は鳥海山の溶岩による岸壁となる
相馬楼
江戸時代から酒田を代表した料亭「相馬屋」を修復し、平成12年「相馬楼」として開業。2階の大広間は演舞場として舞妓の踊りと食事を楽しめる
浄福寺唐門
寛政12年(1800)に完成。浄福寺は本間家の菩提寺で、三代光丘が寄進した。この唐門は京都の東本願寺大谷宗祖廟を模して造らせた
宮海橋より日向川河口方面を望む
河口の先に日本海を望むことができた。海と国道の間にも砂防林が植林されている
国道7号線と防風林
国道沿いに防風林が長く続いている。近くに「潮風を防ぎ、くらしを守る松林」という看板が立っていた
旧青山本邸
国道7号線をタンタンと歩いてゆくと、やがて道の脇に「旧青山本邸」の大きな案内板が見えてくる。案内板にしたがって左に曲がり、少し行くと「旧青山本邸」の大きな看板のかかった門が見える。この建物は、安政6年(1859)漁夫として北海道に出稼ぎ、翌年独立して差網漁家となり、のち、ニシン建網漁業で成功し、北海の漁業王と言われるようになった青山留吉翁が建築したものである。北海道で成功した後、ここ郷里青塚に明治20年着工、3年の歳月をかけて明治23年に竣工された。通称ニシン御殿といわれる豪邸であり、平成8年から一般公開されている。国指定重要文化財。なお、小樽市祝津には旧青山別邸(美術豪邸)等が現存し、こちらも一般公開されている。
旧青山本邸母屋(国指定文化財)
主要8室からなり、屋根は瓦葺の切妻造り。当時の青塚は茅葺などの屋根が連なる漁村だったので、集落内に出現した瓦葺の母屋の大屋根は、まさに「故郷に錦を飾る」ものだった
旧青山本邸入口
かつて北海の漁業王といわれた青山留吉の旧本邸。現在は、母屋、離れ、庭園などが一般公開されている。また、館内には留吉が生前に求めたさまざまな美術品が展示されている
しだいに砂浜が広くなり、砂浜の上を歩く。踏み跡のない砂浜を歩くのは気持ちがよい。振り返ると自分の足跡が一直線に続いている。やがて前方に吹浦漁港が見えてきた。長く続いた庄内砂丘は、このあたりで終わる。鳥海山を流れ下った溶岩流はここで砂浜を切り裂いて海に達し、沿岸を南北に分けた。ここまで約8Kmにも及ぶ庄内砂丘の「道なき道」のウォーキングは大変楽しかった。
庄内砂丘を行く
旧青山本邸の見学を終え、前の道を海の方向に歩いてゆくと、目の前に急に海が開けた。今回の歩き旅で、はじめて身近に見る日本海である。すぐそばに日本海があるということだけで、ただ何となく感激した。今日は空が青く、海の色も明るいブルーである。ここから先は、この海に沿って浜辺の道を歩くことになる。昔の羽州浜街道はこのような浜辺の道だったのだろう。砂浜は歩きにくいので、浜辺から少し離れた丘の上を歩く。丘からは海がよく見え芥川龍之介の「トロッコ」を連想とさせるような光景である。
庄内砂丘に沿った快適な道を進む。時々砂浜に下りて砂の上を歩く。時折、海岸に張り出したコンクリートの護岸設備がある。その一つに腰掛けて昼食にした。13時過ぎだった。そこから山の方向を眺めると、鳥海山が見えた。残念ながら頭の部分が雲に覆われ全貌は見えなかったが、その雄大さはよく分かる。300年前、芭蕉も同じような道を通ったが、このときは「雨朦朧(もうろう)として鳥海の山かくる」という状態だった。芭蕉はこの日、このような天候のためこの少し先の吹浦(ふくら)で1泊することになった。私も今日の宿泊地は吹浦だ。
吹浦(ふくら)
吹浦漁港の脇に月光川が流れており、この川が砂丘と溶岩の台地を分けている。川に沿った道を少し行くと一般道路に出る。この道を今までと逆の南方向にしばらく歩くと、今日の宿泊施設「鳥海自然文化館遊楽里(ゆらり)」がある。7階建ての建物で、この地域では目立つ建物である。到着は16時頃だった。1泊2食付で7500円、食事もよい。最上階に食堂があり、ここからの鳥海山の眺めはすばらしい。反対側には松林の先に日本海が見える。お勧めの宿である。
6月15日(陽暦7月31日)朝、芭蕉は酒田の不玉亭を出て、羽州浜街道を北に向かった。朝から雨で、右前方に見えるはずの鳥海山は見えなかった。芭蕉のこの日の予定としては、できれば象潟(きさがた)まで足をのばしたかったのだろうが天気が悪く、途中の吹浦(ふくら)で1泊している。
酒田市光が丘付近
この付近には市営の陸上競技場、球場、公園等があり、緑地帯になっている。道の両側には防風林が続く
国道112号線より酒田港貨物線を望む
通ったときには何の線路か分からなかったが、酒田港に向かう貨物線だった。貨物線にしては線路が光っていたのが印象に残る
国道7号線(旧羽州浜街道)を行く
国道112号線は、やがて国道7号線と合流する。ここまでの国道112号線、そしてこの合流点から先の国道7号線はかつての羽州浜街道の道筋である。この羽州浜街道は秋田から本荘、酒田、鼠ヶ関と南下し、越後村上までを結ぶが、砂丘地があったり、岩石が海岸に突き出たところが所々にあって険路、難所が多かった。この街道のもう一つの特徴は、砂丘地のため道の形跡のないところが多いこと、河川の流路変更で渡船場とともに街道の位置がしばしば変わっていることであろう。かつてこの道を通った文人、墨客の数は多く、その紀行文が豊かであるのもこの街道の特色といえよう。「おくのほそ道」の松尾芭蕉もその一人である。
この区間に国道7号線が完成したのは、昭和40年と比較的新しい。現在の国道は、海岸沿いの砂丘地を避けて、昔の街道よりは少し内陸寄りに建設されているようである。この国道沿いにもずっと防風林が植林されている。やがて、国道は日向(にっこう)川に架かる宮海橋を渡る。
酒田市街散策(昨日の続き)
私は、この日(10月25日)、7:40頃ホテルを出発した。今日は、吹浦まで約20Kmを歩く予定である。比較的行程に余裕があるので、まずは昨日の続きの酒田市街散策から始める。芭蕉縁の場所は昨日ほぼ回ったので、今日はそれ以外で、あまり本来のコースから外れない範囲をめぐる予定である。
今朝は雲が多いが青空も見え、雨の降る心配はなさそうだ。出羽大橋付近まで歩き、東北の方角を眺めると、昨日は見えなかった鳥海山の姿がはっきりと見えた。酒田市街から鳥海山がこんなに近くに望めるとは思わなかった。今日は1日、この鳥海山を右手に眺めながらの歩き旅となる。
象潟へ
吹浦
吹浦駅
国道7号線
国道345戦
国道345戦
十六羅漢岩
庄内砂丘
旧青山本邸
国道7号線
国道112号線
国道7号線
羽越本線
不玉宅跡
酒田駅
鶴岡より
最上川
日本海
酒田市街より鳥海山を望む
昨日は雲に覆われて気がつかなかったが、酒田市街から鳥海山が意外に近く望める。(山居倉庫先の国道112号線より)
山居(さんきょ)倉庫
駅前通りを左に曲がり、出羽大橋方面に歩いてゆくと途中に新井田川が流れている。この川の左岸のほとりに趣のある倉庫群が建ち並んでいる。これは山居(さんきょ)倉庫といい、明治26年に建設された米の保管倉庫で、現在も農業倉庫として使用されている。新井田川沿いに全部で12棟建っているが、1棟は庄内米歴史資料館として開放されているほか、平成16年には2棟が観光物産館としてオープンした。私が訪れたときは朝まだ早く、倉庫裏手の遊歩道は人通りもなく、ちょうどケヤキの黄葉が色づき絶好の被写体となっていた。私は、露にぬれた落葉を踏みしめ、写真を撮りながらゆっくりと歩いた。
出羽大橋
日和山
倉庫裏手の遊歩道
倉庫群に沿って大きなケヤキが並び、ちょうど黄葉の時期を迎えていた。
山居倉庫(前面)
同じような倉庫が全部で12棟建っている。二重構造の屋根などを利用した低温倉庫で、現在も使われている。
浄福寺唐門、相馬楼など
酒田市役所方面に戻り、さて次はどこへ行こうかと道路脇の案内標識を見ていたら、通りがかりの人がいろいろと町の見所を教えてくれた。土門拳記念館も勧めてくれたが、今日のコースと逆方向で少し距離があるので残念ながら省略した。そのほか、まだ行っていない所では浄福寺唐門、相馬楼などを教えてくれた。いずれもこれから進もうとする方向なので、これらを見てゆくことにした。主な街角には標識が立っており、迷わずに目的地に行くことができる。
庄内砂丘の道
海岸沿いに砂丘が続いている。砂地を外れると歩きやすい土の道となる。昔の羽州浜街道はこのような道だったのだろう
青塚集落先の日本海
青山本邸前の道を海に向かって歩くと、やがて海岸に出る。今回の旅で初めて身近に見る日本海だった
鳥海自然文化館遊楽里(ゆらり)
国道7号線、345号線分岐点付近、羽越線吹浦駅より徒歩15分くらい。海岸から続く松林の脇に建っている。 TEL:0234-77-3711
海辺から鳥海山を望む
残念ながら頭が雲に隠れているが、その雄大さは分かる。海岸線に沿って防風林が続いている
十里塚海水浴場付近
海浜には海水浴場として整備されている場所もある。ここはその一つ十里塚海水浴場。季節外れの海辺に人影はまったくない