車窓から望む赤川
当初の予定では、この川沿いに酒田まで歩く予定だったが悪天候のため断念した

内川の様子
内川は赤川に合流し、酒田への船運が開けていた。芭蕉はここから舟に乗り、酒田に向かった

酒田・最上川河口、日和山へ

鶴岡駅を出た羽越本線の列車は大きく内陸側に回りこみ、余目(あまるめ)駅で新庄からの陸羽西線をあわせて酒田に達する。酒田は日本海側に開けた一大商都である。
酒田駅に到着した私は、まず駅付近に予約済のビジネスホテルを探し、荷物を預けて身軽になった上で市内の散策をはじめた。半日ではとても回りきれないので、今日はとりあえず芭蕉縁の地を重点的に回ることにする。ホテルで市内観光マップをもらい、まず最上川の出羽大橋を目指した。この橋は最上川で最も河口に近い橋である。雨はようやく小降りになり、風もおさまってきた。
最上川の河口はさすがに川幅が広い。その広い川幅いっぱいにカモの大群がいたのにはびっくりした。もう渡り鳥がやってくる季節なのだ。最上川河口の様子を眺めた後、私は日和山へ向かった。鶴岡から舟に乗り、赤川、最上川を経て酒田に着いた芭蕉は、日和山の下で船を下りた。この下船地付近は、現在は酒田港の一部となっており、様相がまったく変わってしまった。
酒田は江戸時代に川村瑞賢が西廻り航路を開いてから、北前船の拠点として栄え、春になると大小の廻船が出入りし、諸国からの荷でにぎわった。日和山には船の道標として、常夜灯と方角石が置かれ、常夜灯には毎夜火がともされた。現在、日和山は公園となっており、公園の中に芭蕉像と芭蕉句碑が立っている。

日和山より酒田港、最上川河口方面を望む
手前が酒田港の一部となり、後方が最上川の河口となっている。芭蕉の時代とはまったく様相が変わっている

出羽大橋より最上川上流方向を望む
出羽大橋は海に最も近い長大な橋である。川面いっぱいにカモの大群がいたのにはびっくりした

不玉亭跡
現在は石標と説明板が立っているのみである。

奥の細道・不玉亭跡を示す標識
酒田市役所の前に大きな標識が立っている。不玉亭は前の大通りを渡って少し奥にある

奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

旧鐙(あぶみ)屋

本町通に戻ると、通りに面して市役所の向かい側に旧鐙(あぶみ)屋がある。この鐙屋は、酒田を代表する廻船問屋で、江戸時代を通じて繁栄し、日本海海運に大きな役割を果たした。その繁栄ぶりは井原西鶴の「日本永代蔵」にもその名が出てくるほどだった。現在保存、公開されている建物は、弘化2年(1845)に再建されたものという(国指定史跡)。芭蕉は、元禄2年6月23日夜に近江屋とこの鐙屋を訪れている。酒田は三十六人衆という町衆によって堺のような自治が行われ、商人同士も結束が固かった。鐙屋の主人も、芭蕉を招いた近江屋の主人もこの三十六人衆のメンバーだった。

風間家旧住宅(丙申堂・主屋)
明治29年に建築され、耐震性を考慮した三角形状の梁や屋根に小石を置いた石置屋根など特徴的な建築形態を持つ

丙申堂・薬医門および蔵
いずれも国の重要文化財に指定されている

鶴岡市街散策

鶴岡駅前の広い通りをまっすぐに進んでゆくと、アーケードの商店街になる。結構風雨が強いので、屋根がついていると助かる。朝もまだ早いので商店街は閑散としている。この通りの先に日枝神社があるので、まずそこに立ち寄った。そこから少し先に芭蕉が滞在した長山重行宅跡があるはずなので探したのだが、残念ながらどうしても見つからなかった。
今日の当初の予定では、この重行宅跡を確認した後、内川に沿って赤川に出、そこから赤川の土手沿いに酒田まで歩くつもりだった。しかし、この雨と風では無理だ。既に靴とズボンはびしょ濡れになっている。そこで、予定を変更し、鶴岡市街を散策した後、電車で酒田に向かうことにした。

不玉(ふぎょく)亭跡

日和山をあとにした私は、芭蕉が8泊した不玉亭跡を訪ねた。地図上では少々分かりにくかったが、酒田市役所の前に大きな標識が出ていたので、迷うことなくたどり着くことができた。
不玉は、本名伊東玄順といい、医者であるが当地方俳壇の中心的人物であった。芭蕉はこの家に6月13日に到着し、6月15日から18日までは象潟方面に旅行したが18日には戻り、24日まで滞在している。結局ここには8泊したことになる。酒田は商人の町であり、俳句をたしなむ人の数も多く、不玉宅などでたびたび句会が開かれた。「おくのほそ道」では、酒田での句として次の二句がのせられている。

      『  あつみ山や吹浦(ふくうら)かけて夕すずみ

        暑き日を海に入れたり最上川      』

本間家旧本邸

旧鐙屋の少し先に本間家旧本邸がある。本間家は商売を営み、地主としても酒田市の田畑の半分の面積にも及ぶ土地を所有したといわれ、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と俗謡に唄われた。ただ、芭蕉が訪れた元禄2年は、初代原光が「新潟屋」を開業したばかりであった。中興の祖といわれる三代光丘は千石船による商いを始める一方、農業振興のため土地改良、水利事業を行い、また、長年にわたる風害軽減のため砂防林の植林に心血を注ぎ、今のような庄内平野の基礎を作った。

JR羽越本線

JR羽越本線

庄内砂丘

芭蕉の時代、赤川は最上川に合流していたが、昭和初期に庄内砂丘を開削し日本海に流した、

芭蕉は赤川を舟で下った

国道112号線

羽黒へ

鶴岡

鶴岡駅

酒田

酒田駅

国道7号線

国道7号線

内川

赤川

最上川

日本海

出羽三山の参拝を終えた芭蕉は、6月10日(陽暦7月26日)、羽黒山で世話をしてくれた呂丸(ろがん)の案内で鶴岡へと向かった。鶴岡では中堅の庄内藩士長山重行(じゅうこう)宅に世話になる。重行は江戸勤番の折には芭蕉のもとを訪ねたこともあるという旧知の仲であった。芭蕉はここに3泊したが、山行の疲れからか体調が悪く、家から出歩くことはほとんどなく、6月13日には酒田に向かう。酒田に着いた芭蕉は、伊東玄順(不玉)を訪ね、ここに8泊した。

武家中心の町鶴岡で、藩の御用商人として呉服、太物屋を営み、幕末には鶴岡一の豪商となった風間家の旧住宅・店舗が残されている。丙申(へいしん)堂と名づけられたこの建物は明治29年に建てられたが、その前々年に起きた大地震を教訓に、さまざまな工夫が見られるという。現在、主屋、藥医門、蔵などが国の重要文化財に指定されている。

庄内藩校・致道館跡
庄内藩9代の洒井忠徳が文化2年(1805)建てた藩の学校。国の史跡に指定

鶴ヶ岡城址(鶴岡公園)
現在は濠と石垣の一部が残るのみである
鶴岡は、かつては鶴ヶ岡と呼ばれ、洒井家14万石の城下町であった。庄内藩は別に商都酒田があり、鶴岡は主として武士中心の政治の町であった。鶴ヶ岡城址は現在、鶴岡公園として整備され、市民の憩いの場となっている。雨の中、公園を少し歩いてみた。濠や石垣の一部は残されているが、そのほか特に目立った城の遺構はないようだ。公園のはずれに致道館という建物があったので入ってみた。これは文化2年(1805)に建てられた庄内藩の学校である。明治6年に廃校されてからは鶴岡県庁、鶴岡警察署などにも使われたこともあったという。現在は国指定の史跡となっている。

日枝神社
本殿の正面には「正一位日吉社」の大きな額が掲げられていた

鶴岡駅前通先の商店街
雨降りの朝で、人通りは閑散としていた

新宿から鶴岡へ

私が鶴岡を訪れたのは、10月23日のことだった。もう、「青春18きっぷ」の時期は過ぎているので、この切符は使えないが、「ムーンライトえちご」という夜行快速列車の存在を知った。接続列車を調べてみると、鶴岡には翌朝の7:37着となり、歩き始めるにもちょうどよい時間である。新宿〜鶴岡が普通乗車券(7350円)のみで行けるというのも大変うれしい。この列車は全車指定席で、指定料金510円が別にかかるが、特急の車両を使用しており長時間乗車でも快適である。

新宿発23:09〜新潟着4:51  「ムーンライトえちご」
新潟発4:56〜村上着5:49 
待ち時間5分、乗車時間53分
村上発5:59〜鶴岡着7:37 
待ち時間10分 乗車時間1時間38分

村上駅で普通列車に乗り換えると、しだいに日本海が見えてくる。今日はあいにくの雨で、風も強い。薄暗い海に砕け散る白い波が印象的だった。この時間帯の普通列車はだんだんと高校生が多くなる。乗り込んできてはまたいなくなるということを何回か繰り返し、ようやく鶴岡駅に着いた。

朝の鶴岡駅ホーム

村上へ

象潟へ

今日は一日、鶴岡、酒田とピンポイントだったが、雨の中盛りだくさんな見学だった。ホテルに戻る途中で夕食と明日の朝食を仕入れ、ホテルに帰りついたのは17時すぎ。風呂に入ったあと、買ってきたビールとつまみで旅の初日を祝って一人で乾杯した。

日和山

不玉宅



本間美術館(本間家旧別荘)

本間家旧本邸から駅の方向に1.2Kmくらい戻ったところに本間美術館がある。本間家四代の光道が文化10年(1813)に建造した別荘である。明治末に一部二階建てに改装され、大正14年に皇太子(昭和天皇)が宿泊されて以来、酒田の迎賓館として利用された。昭和22年からは美術館として、諸大名からの拝領品、書画などを展示している。本館の「清遠閣」、庭園の「鶴舞園」、新館がある。展示品には、芭蕉直筆という「玉志亭唱和懐紙」があったが、室内はすべて撮影禁止であった。なお、酒田は昭和51年、大火で市街中心部のほとんどを焼失したが、本間家旧本邸、旧別荘である本間美術館、お店などはほとんど被害を受けなかった。

庭園より本館を望む
左側は喫茶室となっている。また、二階部分は明治末に増築されたもの

二階室内より庭園を望む
室内の撮影禁止だが庭を撮るならいいですよとのことだった。窓ガラスはすべて手漉きのものだという

三の間から見る上の間

旧鐙屋入口付近

町の中を内川が流れている。この川は鶴ヶ岡城を囲むように流れており、城の外堀の役目も持っていたようだ。川のところどころに川辺に下りる石段が設けられている。今でも遊覧船が発着するのかもしれない。芭蕉もこのような発着場の一つから舟に乗った。ここから少し先で赤川に合流し、赤川を下って酒田まで約七里の船旅だった。芭蕉の時代、赤川は酒田で最上川に合流していたが、現在では途中で進行方向を変え、直接日本海に注いでいるので当時の跡をたどることはできない。(地図参照)
内川の芭蕉乗船場付近を確認した後、私は鶴岡駅に向かった。12:11発の酒田行き普通列車に間に合い、酒田には12:47に着いた。途中、車窓からは歩く予定だった赤川を望むことができた。風雨にかすみ寒々しかった。

芭蕉句碑
芭蕉像の隣に建てられている。
「暑き日を海に入れたり最上川」

日和山公園にある芭蕉像

本間家旧本邸は、三代光丘が幕府巡検使一行の本陣宿として明和5年(1768)新築し、庄内藩主洒井家に献上し、その後拝領し昭和20年まで本間家住宅として使用していた。建物は瓦葺平屋書院造で、表から見れば長屋門構えの武家屋敷造りで、奥のほうは商家造りとなっている。武家屋敷は普段は使わず、商家造りのほうで生活していた。
また、通りをはさんだ向側には、事業を営むお店(たな)があり、現在も中でみやげ物などを販売している

本間家旧本邸長屋門

通りの向かい側にあるお店(たな)

本間家旧本邸玄関