両国から船に乗り千住大橋へ

芭蕉は深川から舟に乗って千住まで上っている。私もできれば千住まで船で行きたいなと思って探したところ、ちょうどよい便があった。東京水辺ラインの「隅田川散策の旅」というコースで、両国発9:00で、千住に9:20に着く。日曜、祝日運航なのでちょうどよい。
船は9:00ちょうどに両国を出航。私は客室内には入らず、後ろのデッキから隅田川にかかる橋の写真をとりつづけた。両国を出ると、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋、桜橋、白髭橋、水神大橋と次から次に形の違う橋が現れて楽しい。しかし、芭蕉の時代にはここにあげた橋は、いずれもまだ架かっていない。葦の茂る川辺を眺めながらゆっくりと上って行ったのだろう。
現代の船は、両国から千住まで約7Kmの区間を20分で結ぶ。千住の発着所には9時20分頃着いた。千住大橋のかなり手前である。少し先に日比谷線とJRの鉄橋が見えるが、千住大橋の姿は見えない。
千住発着所で船を降り階段で堤防を越えると、まっすぐに道がのびている。これを進むと広い都道にぶつかり、左に曲がってしばらく行くと国道4号線に出る。この国道を左に曲がり日本橋方向に少しゆくと千住大橋がある。

いよいよ旅の始まりである。2005年5月3日、風薫るさわやかな休日である。芭蕉が旅に出立したのは、元禄2年(1689)の「弥生も末の7日」(3月27日、陽暦5月16日)だった。

千住宿

大橋公園を後に、いざ出発である。まずは国道4号線を進むが、150mくらい先で日光道中旧道が右に分かれてゆく。この分岐点の道路わきに「千住宿奥の細道プチテラス」というのがある。ここに芭蕉が矢立を持ってなにやら書き付けている像が立っている。この像は芭蕉生誕360年に当たる平成16年に建てられたもので、できたてのほやほやだが、旧道の入口というなかなかよい位置にある。

千住宿は品川・板橋・内藤新宿とともに江戸四宿として知られ、奥州街道・日光街道の初宿で、東北や北関東の大名65藩が参勤交代の往復に利用した。
旧道を少し進むと、「千住宿歴史プチテラス」というのがある。奥のほうに白い土蔵が建っており、入口に新しい芭蕉句碑も立っている。このあたりは「やっちゃば」とよぶ江戸時代から続く青果物問屋街で、関連する商家が建ち並んでいたという。今でも屋号が伝わっていて、付近の店には屋号を記した木札がかけられている.。周りの商店は皆新しくなっているが、宿場町の街道の雰囲気が残る道筋である。
広い都道を渡ると、その先に宿場町通りという大きな横看板がかかっている。少し先に古い立派な建物がある。この建物は江戸時代から紙問屋を営んでいた横山家の住宅で、宿場町の名残として伝馬屋敷の面影を伝える商家である。さらに旧道を進むと、宿場のはずれ近くに、江戸時代から名高い接骨医・名倉医院の長屋門がある。この名倉医院は、明和年間(1764〜72)に開業したという接骨の名医で、駕籠や大八車などで運ばれてくる骨折患者が門前にひしめいていたという。
名倉医院の少し先で旧道は荒川土手にぶつかり途切れる。

千住発着所を離れる水上バス
この発着所は千住大橋よりも700mくらい手前にあるので、やや不便だ

白髭橋を通過する水上バス
このあたりではフルスピード運航で豪快な水しぶきがあがる

水上バス両国発着所
JR両国駅にも近く、天気のよい休日なのでお客の数もそれなりに多い

千住大橋は隅田川で一番最初にかけられた橋である。文禄3年(1594)のことで、芭蕉が出立したときには既に存在した。大橋付近に船着場があり、芭蕉たちはここで舟をあがった。
現在、橋の北詰め右側に大橋公園があり、ここに芭蕉矢立初の碑が建っている。私の今回の旅もここをスタート地点としよう。

奥の細道 矢立初芭蕉像
プチテラスの一隅に建てられている石像で、芭蕉が矢立を取り出してなにやら書き付けているポーズである

旧日光道中の入口付近
ここから千住宿に入ってゆく。この地点に「奥の細道プチテラス」が平成16年に設けられた

荒川を渡り草加へ

荒川土手に登ると、これまでとはちがう風景が広がっている。さわやかな5月の休日とあって、川辺にはたくさんの人が出て、それぞれにスポーツなどを楽しんでいる。この土手の道は、私も荒川歩きのときに歩いた記憶がある。今日みたいな日は、街道歩きよりも本当は川辺を歩きたいなと思ったりする。ところで、江戸時代にはこの荒川(放水路)はまだない。この川ができたのは大正時代である。芭蕉が歩いたときには普通の道が続いていた。
現代の我々は、国道4号線の千住新橋でこの川を渡る。橋を渡った少し先で、旧道は左に分かれてゆく。旧道を進むと、東武伊勢崎線の梅島駅前を通過する。これからしばらくは、この東武線に沿って旧道が続いている。。やがて環七を横断する。ここからは西新井大師が近い。さらに進むと竹ノ塚駅の近くを通過し、最近起きた痛ましい踏切事故のことを思い出した。

東武線梅島駅前付近の旧道風景
日光街道旧道はこれからしばらくは東武伊勢崎線に沿って進む

荒川土手から千住新橋方面を望む
さわやかな休日とあって、たくさんの人が川辺でスポーツなどを楽しんでいた

やがて旧道は草加市に入る。草加宿は、天明、明治と二度の大火があり古い建物は残っていない。東武線草加駅付近からは街道沿いに草加煎餅の店が多く目につくようになる。途中のスーパーで弁当と菓子類を買ったのだが、その中に揚げ煎餅があった。草加煎餅の老舗の前を揚げ煎餅をぼりぼりと食べながら歩く姿は我ながらおかしくなった。菓子類は食べ始めると止まらなくなる。少しおなかがすいてきたようだ。
やがて右手に緑の公園が現れ、昔風の高い展望塔が見えてくる。ここは札場河岸公園といい、ここにはかつて綾瀬川の河岸があったという。公園の入口付近に芭蕉の像が建っている。千住で見送りに来てくれた人たちを振り返り別れを惜しみながら先に進むというポーズである。
展望塔の近くにベンチがあったので、ここで弁当にする。12:40だった。

公園入口付近に建つ芭蕉像
見送りに来てくれた人々を振り返りながら旅に向かう芭蕉

札場河岸公園の展望塔
この塔は街道からよく見え、はじめは何かと思ったが、公園の一施設である。中の階段を上ると展望台になっている

おなかもいっぱいになり、元気に歩き始める。旧道には立派な松並木が続いている。この松は、天和3年(1683)に伊奈氏が綾瀬川改修の折に植えたもので、延長は1.5Kmあるという。現在植えられている木は若いものが多いが、本数はかなりある。もう少し年数が経てば風格が出てくるだろう。少し先に「日本の道100選 日光街道」の大きな碑が建てられている。この周辺の整備の力の入れ方を感じさせる大きなものだ。その少し先に矢立橋、さらにその少し先に百代橋という昔風の長大な橋がある。いずれも道路に沿って設けられた観光用の橋で、芭蕉の「おくのほそ道」にちなんだ命名である。

越谷より粕壁へ

やがて松並木は途切れる。車の多い日光街道を歩いてもよいが、私はそのまま川沿いの一般道を歩いた。歩道は桜並木が続いており静かな道だ。川沿いの道は東京外環道の下をとおり、やがて綾瀬橋のところで日光街道に合流する。
綾瀬橋を渡ると越谷市である。ここからは日光街道(県道49号線)を坦々と進む。街道は蒲生駅前をとおり、やがてJR武蔵野線のガードをくぐる。近くに武蔵野線の南越谷駅、東武線の新越谷駅がある。

やがて道は越谷宿の中心部に入ってゆく。越谷本町付近には街道沿いに古い建物がいくつか残っている。越谷宿は江戸にも近く、ここを訪れる江戸の文人墨客も多かったという。越谷本町と元荒川をはさんだ大沢町を含めた地域をいい、本陣・脇本陣などはむしろ大沢町に多かった。

蔵と用水槽のある古い家
現在は商売は営んでいないようだが、古い商家のようである

「鍛冶忠」の暖簾のある店
古い店構えの商店。かつては鍛冶屋だったのだろうか

街道沿いの古い旅館
「白屋旅館」という古い旅館があった。宿場時代の名残だろうか
元荒川を渡ると大沢町となる。かつてはこちらのほうが本陣、脇本陣などが多かったそうだが、現在では何も残っていない。越谷宿を過ぎ、日光街道(県道49号線)は国道4号線に合流する。ここからは見るべきものもない国道を坦々と歩く。久しぶりの長距離ウォーキングでこの国道区間の約7Kmは歩き始めのころの元気はどこへやら、何となくトボトボ歩きになってしまった。芭蕉の第1日目も粕壁宿に泊まっている。ようようのことで宿に着いたという気持ちはよくわかる。東武線春日部駅に着いたのは17時頃だった。


(総行程 約30Km)

  


橋上から松並木を望む
両橋とも長大で高さも高いので、橋を渡るのは観光客か元気な子供たちで、ほとんどの人は下を通っているようだ

百代橋
芭蕉の『月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり』からの命名である。この橋は自動車道路を越える陸橋の役を果たしている

矢立橋
歴史上にこのような橋は存在しなかったと思われるが、この場所にあって違和感を感じない。少し先に同様な百代橋がある

東武春日部駅
伊勢崎線、野田線の交差する駅で、特急も停車する大きな駅だ

春日部市内の国道4号線
日本橋から35Km標識付近。日も傾きかけ、ようようのことで粕壁宿に着いたという感じだ

越谷宿を流れる元荒川
荒川が熊谷付近で瀬替えされる前は、荒川本流がここを流れていた。瀬替えは寛永年間(1624〜44)に行われた

「日本の道100選 日光街道」の石標
松並木の脇に建てられている。周辺の整備の力の入れ方を感じさせる大きな石標だ

草加松並木
旧道には立派な松並木が続いている。左には旧国道4号線、右には綾瀬川が並行している

南越谷付近の武蔵野線ガード

東武蒲生駅付近の日光街道

日光街道の綾瀬橋

名倉医院長屋門
名倉医院は江戸時代から名高い接骨医で、関東一円に知られ、門前には骨折患者がひしめいていたという

横山家住宅
江戸時代から続く紙問屋・横山家の住宅で、江戸時代後期に建てられ、昭和になってから改修されたが、昔の面影を伝えている

千住宿歴史プチテラス
奥の白い土蔵は、紙問屋横山家から寄贈されたもの。入口前に「鮎の子の白魚送る別れかな」の芭蕉句碑がある

宿場町通り
広い都道を渡った先には、「宿場町通り」の大きな横看板がかかげられてあり、
旧道らしい雰囲気が続いている

矢立初の碑
昭和49年に建てられたもので、次の「おくのほそ道」の一節が刻まれている
千じゅというところより舟をあがれば
前途三千里のおもひむねふさがりて
まぼろしのちまたに離別の泪をそそぐ
行春や鳥啼(なき)魚の目は泪

千住大橋
旅のスタート地点。現在の橋は昭和2年にかけられたもので、その後交通量の増大に対処するため自動車専用橋が架けられた。橋の北詰め右側には大橋公園があり、芭蕉ゆかりの碑、説明板などがある
奥の細道歩き旅 第2回
千住〜粕壁