大深沢
かつては歩渡(かちわたり)であったが、現在は小さな橋がかけられている
大深沢への下り道
大深沢は出羽街道の中で最も険しい沢で、深い谷底へ下りて越さねばならない九十九折(つづらおり)の道である
国道47号線、中山宿駅跡
大深沢からは、また急な山道を登りなおす。やがて平坦な道になって、ほどなく国道47号線に合流する。ここからしばらくの間は、国道を歩くことになる。国道に出てしばらく行くと、食堂、ラーメン屋などがいくつか並んでいるところに出た。ちょうど12時近いので、ここでラーメンの昼食にした。このラーメンはなかなかおいしかった。歩いているときの昼食といえば、最近は携帯食のアンパンとか菓子パン類が多い。コンビニなどの店がないことも多いので、いつも携行しているのだ。同じものばかりで味気ないが、これは私の旅の知恵だ。それだけに、たまに食堂で食べる機会があると、大変うれしく、おいしく感じる。
おなかもいっぱいになり、また元気に歩きはじめる。少し行くとJRの中山平温泉駅に出る道が左に分かれてゆく。さらに国道を20分くらい歩くと、国道の脇に「中山宿駅跡」の標識と説明板が立っている。ここには検断(宿役人)がおかれ、幕末には個数10戸、人口46の規模だったという。
旧有路(ありじ)家住宅 通称「封人(ほうじん)の家」
国道に出て少し行くと、旧有路家住宅、通称「封人(ほうじん)の家」といわれる建物が残っている。国道のすぐ脇なので訪れる人も多い。中は一般公開されている。
5月15日(陽暦7月1日)、山道に夕闇が迫る中、芭蕉はようやく堺田で、国境の役人をかねた庄屋の家を見つけ宿泊する。この家が、現在も残っている旧有路家とされる。現在一般公開されている母屋は江戸時代初期の建物と推定され、まさしく芭蕉が泊まった家となる。芭蕉が泊まった家がそのまま残っているのは、「おくのほそ道」の行程でここだけである。
堺田は名馬の産地でもあり、大事な馬は母屋の中で飼われていた。入口の脇に馬が飼われていた一角がある。
『日既に暮れければ、封人(ほうじん)の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留(とうりゅう)す。
蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと 』
(おくのほそ道本文より)
句の中の「尿」は、「しと」と振り仮名をふられることも多いが、「ばり」と読むともされる(最近発見された「芭蕉自筆本」では「ばり」となっている)。そう読んだほうが、句におかしみが感じられる。三日間も雨に降り込められ、「参った、参った」なのである。
旧有路家住宅(「封人の家」)
最上町堺田にある保存住居兼資料館。「封人」とは国境を守る役人のこと。この地では庄屋の有路家が務めていた。建造年代は江戸時代初期といわれる。職務上、住宅・役場・旅館を兼ねていたため建物の規模は約250uとかなり広い
出羽街道中山越
で最大の難所
憩いの森
小深沢から登った後、しばらく平坦な気持ちのよい道が続く。この辺りは「憩いの森」と名づけられている
小深沢
道はいったんここまで下り、また登りなおさなければならない。沢には橋がかけられている
国道から尿前の関への分岐
尿前の関跡はここから少し下ったところにある。
鳴子峡風景
大谷川の渓谷がすばらしい景観を見せてくれる。特に紅葉の時期はすばらしいだろう。遊歩道が設けられ、中山平駅まで出られるようだ。
尿前(しとまえ)の関跡
国道から分かれた道を下ってゆくと、関所を模した門と柵が見えてくる。この門を入ると小さな公園になっており、奥に芭蕉の旅姿像や説明板が立っている。門を挟んで反対側には古い芭蕉句碑が建っており、その奥に小さな祠が見える。関所の柵の先に尿前の関跡への案内板があるので、それにしたがって進む。坂を下って少し行くと、「尿前(しとまえ)の関跡」の標識と説明板があった。ここには特に復元した構築物などはない。
「尿前(しとまえ)の関跡」 説明板より: 伊達藩の尿前境目番所であった。・・・周囲には切石垣の上に土塀をめぐらし、屋敷内に長屋門・役宅・厩・土蔵等10棟が建っていた。この関を中心に尿前宿もあった。元禄2年、芭蕉と曾良が行脚の途「関守にあやしめられて漸(ようよう)として関をこす」と「奥の細道」に書かれているように、取調べの厳しい番所であった。
『義経記』に、奥州平泉へ逃れる源義経一行が、亀割山で生まれた亀若丸を伴い、出羽街道を東へ向かう記述がある。尿前には、その伝承の流れがあり、幼児がはじめて尿をしたのが地名となったといわれている。・・・
赤倉温泉
山刀伐(なたぎり)峠手前の温泉。最寄り駅は赤倉温泉駅だが、駅から歩くと40分くらいかかるだろう。「あべ旅館」がお勧め(TEL0233-45-2001)
県道28号線
堺田から国道47号線と分かれ、尾花沢に向かう。前方に山刀伐(なたぎり)峠の山が見える
小深沢
再び国道が見えてきて、これを渡ると、ここからは本格的な山道がはじまる。しばらくは平坦な気持ちのよい道が続くが、やがて急な下り坂になってゆく。坂の最低部に沢があり、小さな橋が架かっている。ここが小深沢である。道はここからまた登りになる。登りきるとまた少し平坦な道が続く。この辺りは「憩いの森」と名づけられ、ベンチなども置いてある。ここで少し休憩したが、涼しくて気持ちがよかった。
堺田から赤倉温泉へ
堺田の「封人の家」を過ぎると、後はずっと国道歩きとなる。少し先で陸羽東線の線路を跨ぎ、さらに国道を行くと県道28号線が左に分かれてゆく。国道47号線(出羽街道)をこのまま行けば、10里ほどで新庄に出るのだが、芭蕉は尾花沢に知人がいるため、ここを左に曲がって尾花沢を目指した。この道には「山刀伐(なたぎり)峠」という難所が控えている。私は、この峠を越すのは明日のこととして、今日はその手前の赤倉温泉に泊まることにしている。
国道から分かれ、30分くらい県道を歩いて赤倉温泉に着いた。芭蕉が歩いた当時は、この温泉はまだ開かれていなかったようだ。あまり規模は大きくないが、山刀伐峠を越える前のちょうどよい場所にある。私は「あべ旅館」に泊まったが、設備、サービスともになかなかよかった。旅館に到着したのは16時頃だった。
江合川
陸羽東線
国道47号線
赤倉温泉駅
三界萬霊碑
甘酒地蔵尊
中山宿跡
旧有路家住宅・
「封人の家」
大深沢
国道47号線
尿前の関跡
陸羽東線
鳴子トンネル
鳴子峡
堺田駅
中山平温泉駅
鳴子温泉駅
東北地方を貫く主要街道といえば奥州街道と羽州街道だが、これを東西に結ぶローカル街道がいくつかあった。そのひとつがこれから通る「出羽街道中山越」である。現在では、この道とほぼ並行してJR陸羽東線が走っており、東北本線の小牛田と奥羽本線の新庄を結んでいる。この街道の通行を難しくしているのが、尿前(しとまえ)の関から堺田に至る10Kmほどの山道である。芭蕉が漸(ようよう)のことで通った関所の先には、険しい山道が待っていた。
鳴子温泉
今日は、鳴子温泉から出羽街道中山越の旧道を経て、赤倉温泉まで行く予定である。行程としては約20Kmと比較的短いので、ゆっくり朝食をとった後、8時半頃にホテルを出発した。
鳴子温泉は古い歴史のある温泉である。鳴子温泉駅から続く温泉街の道は、土産物屋や老舗の旅館が続き、古い温泉街独特の雰囲気である。私の泊まったホテルは、この温泉街のはずれ近くにあった。温泉街を進み、駅前を過ぎてさらに道なりに行くと国道47号線に出る。
国道をしばらく行くと、道の脇に岩下こけし資料館という大きな店があったので入ってみた。ここでは、鳴子こけしの製作実演をやっていた。私は旅先ではあまりお土産は買わないのだが、ここでこけしを一つ買い求めた。これは、今も机の横で私を見守っている。
道はだんだん急坂になり、石段となる。この先で国道と再び交わる。ここには駐車スペースがあるので、ここから下って尿前の関跡を訪れる人も多く、私も途中で何人かに出会った。国道を渡ってからも石段の急坂はなおも続く。この坂は尿前坂とも薬師坂ともいっている。この坂を上りきったところに薬師堂跡がある。この後はしばらく平坦な道が続き、途中に斉藤茂吉の歌碑なども建っている。
鳴子こけし
鳴子こけしの特徴は、肩のところに段がつき胴が太く、中央部分がややくびれており、頭は胴と均整が取れ、全体に安定感がある。頭を胴にはめ込む方式で、頭を回すとキイキイと音がする
鳴子温泉街の様子
岩下こけし資料館
山神社
歴史の道の様子
この辺りは国道から近いので、車で来た人が関所跡に立ち寄ることも多いようだ。道も広く休憩設備も整っている
「歴史の道 出羽街道中山越」出発点
尿前の関の門付近が出発点になる。ここには説明板も立っている
中山宿駅跡
玉造五宿駅(岩出山、下宮、鍛冶谷澤、尿前、中山宿)のひとつで、寛永2年(1625)に設けられ、検断がおかれた
国道47号線の様子
この辺りからJR中山平温泉駅までは近い。天候や体調によってはここから電車に乗ることもできる
甘酒地蔵(義経伝説)
義経一行はこの地で日が暮れ、野宿することになった。北の方はお産をして間もなかったので、近くの山猿に事情を話すと、山猿はお堂を立て、甘酒で接行した。弁慶はお礼に猿の安全を祈りこの地に地蔵尊を祀ったといわれている
中山宿の山神社(義経伝説)
中山宿の近くに義経伝説の残る山神社がある。一行が村を通りかかったとき、難産で難渋している女があると聞き、弁慶が栗の木で錫杖を作り観世音菩薩に祈ったところ無事に出産した。後に、村人たちは弁慶の作った錫杖を本尊として山神社を建立したと伝えられる。
薬師坂
国道を渡った後も、さらに急な石段の道が続く。上りきったところは平坦になり、薬師堂跡の標識と説明板がある
尿前坂
石段を登ったところに国道が通り、駐車スペースもあるので、ここから関所跡まで下ってゆく人も多い
大深沢
ベンチの置いてある少し先から、大深沢に向かって再び急な坂道を下ってゆく。大深沢は安永風土記(1773)に出羽街道中最大の難所と記されている。なお、出羽街道は軍用街道としても大きな意義を持ち、中世の奥羽騒乱の際には大深沢に陣地が設けられていたという。また、戊辰の役(1868)の際には、岩出山領主伊達氏をはじめ、仙台藩士や家中が、尿前に本陣を置き、小深沢、大深沢などにも詰番所を構え警備を行った。そのような歴史を思い、沢のそばに立ってミンミンゼミ、ツクツクホウシの合唱を聞いていると、そよ風が心地よい。
義経伝説の残る道(山神社、甘酒地蔵尊など)
中山宿跡の少し先から「歴史の道」が再び始まる。これから先にもiいくつか沢があるが、大深沢、小深沢のような大きなアップダウンはなく、比較的平坦な気持ちのよい道が続く。
この出羽街道中山越には、あちこちに義経伝説が残されている。頼朝に追われた義経主従が、この道を芭蕉とは反対に平泉を目指して歩いているのだ。
途中、義経伝説の残る山神社、甘酒地蔵尊、そして、庚申碑、三界萬霊碑などの古い石碑を見やりながら、のんびりと進んでゆく。このような道を1時間半くらい歩くと、また国道47号線に合流する。
尿前の関跡
石畳の道を少し下ると、標識と説明板が立っている。この場所には特に遺構は残っていない
芭蕉句碑と小さな祠
句碑前面には「芭蕉翁」裏面中央に「蚤虱馬の尿する枕もと」」の句が記されている。建立は明和5年とある。
尿前の関を模した門と柵
門を入ると小さな公園になっており、芭蕉の旅姿像、説明板などが立っている