中尊寺金色堂
金色堂は天治元年(1124)、藤原清衡により造立された。、全盛期には寺塔四十余、禅坊三百余の規模であったと伝わるが、度重なる火災により創立当初の建物で残っているのは金色堂のみである。現在は周りをコンクリートとガラスにより保護されている。これは2代目の鞘堂である

奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

大泉が池
毛越寺庭園の中心に広がる大きな池。周囲に散策路が設けられ、平安時代の遺跡、遺構を巡ることができる

毛越寺本堂
毛越寺一山十八坊の本坊。本尊薬師如来(平安時代作)、脇士日光・月光両菩薩を安置。建物は平成元年に完成した

観自在王院跡、復元された舞鶴が池
毛越寺に隣接して基衡の妻が建てた寺院の跡。建物はすべて失われたが発掘調査により「舞鶴が池」が復元された

車宿跡
説明板によれば、池に隣接したこの地に車宿が建ち並んでいたという。毛越寺周辺は平泉の町への入口に当たり、人や物の往来が激しかったのだろう

遣水(やりみず)
遣水は山水を池に取り込むための水路であるが、水底には玉石を敷き詰め、蛇行する流れに石組を配し、水辺に咲く四季の草花とあいまってすばらしい景観を作っている。平安時代の完全な遺構としては日本唯一のものである。毎年5月の第4日曜日に、ここで「曲水の宴(ごくすいのえん)」が催される

常行堂(じょうぎょうどう)
本尊は宝冠阿弥陀如来。毎年正月二十日には、国指定の重要無形民俗文化財である「越年の舞」が奉納される。現在の建物は、享保17年(1732)に伊達吉村により再建されたもの

毛越寺(もうつじ)、観自在王院跡

毛越寺(もうつじ)は平泉駅まで戻り、さらに駅前から「毛越寺通り」といわれる道をまっすぐに10分くらい歩いた場所にある。曾良の旅日記には、毛越寺に立ち寄ったという記述はない。素通りしたようで、未練たっぷりな曾良の顔が浮かぶようだ。
毛越寺は嘉祥3年(850)の開基と伝えられ、その後、藤原氏二代目の基衡が七堂伽藍を建立、さらに三代目の秀衡が社殿や坊舎を造り完成させた。度重なる災禍にあい建造物のほとんどは失われているが、寺塔の礎石、遺構はよく残り当時の面影を偲ぶことができる。入口を入って正面に見えるのは、平成元年に再建された本堂。庭園の中心には「大泉が池」が広がり、池の周りには開山堂、遣水(やりみず)、常行堂などが並び平安の世界を満喫できる散策の場となっている。国の特別史跡、特別名勝。
毛越寺に隣接して観自在王院跡がある。基衡の妻の建立で、大小の阿弥陀堂が池に臨んで建てられていた。建物は皆失われたが、発掘調査に基づいて舞鶴が池が復元されている。
また、付近に「車宿跡」という説明板が立っている。当時、この辺りに牛車を止めておく車宿が並んでいたという。毛越寺周辺は平泉の町への入口に当たり、倉庫や車庫、背の高い建物などが建ち並び、町のメインストリートをなしていたと考えられている。

柳之御所遺跡全景(資料館より遺跡方面を望む)
近年になって大規模な発掘調査が行われ、平泉の政庁(平泉館)の跡と見られている。発掘の主な地点には説明板が立てられている。また、隣接した場所に資料館が建てられ発掘の成果などが展示されている

無量光院跡
中尊寺通りの道の脇に遺跡が広がっている。藤原秀衡が宇治平等院を模して建立した。国の特別史跡に指定

無量光院跡、柳之御所遺跡 (よみがえる中世都市・平泉)

中尊寺の見学を終わり、同じ道を駅の方向に引き返す。来るときにさっと通り過ぎたところをもう少し丁寧に見ていこう。芭蕉が『秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。』と記している辺りである。芭蕉の時代には田野になっていた場所も、現在では発掘調査が進み、どこにどのようなものがあったか推定できるようになった。
まず、中尊寺通りを駅から歩いてきて左側の道の脇に無量光院跡が広がっている。これは藤原秀衡が、宇治平等院を模して建立したもので、発掘調査によれば中心になるお堂もそこから伸びる翼廊も平等院の鳳凰堂よりもひとまわり大きく建てられていた。
無量光院跡の手前を右に曲がり、北上川方面に少し進むと「柳之御所遺跡」がある。昔からこの場所には藤原氏の居館跡である「柳の御所」があったとの言い伝えがあったが、近年まで大規模な発掘調査は行われていなかった。1989年に至り、北上川の大規模な改修工事と国道4号線平泉バイパスの建設工事が計画され、それに伴いこの地域の大規模な発掘調査が行われた。この調査により「中世都市・平泉」の姿がかなり明らかになってきた。以下に柳之御所遺跡パンフレット(岩手県教育委員会作成)より、少々長くなるが解説文を引用させていただく。


「昭和63年から延べ6年間行われた緊急発掘調査は、地中に眠っていた12世紀の栄華を現代に甦らせました。巨大な堀跡、橋桁跡、大規模な建物跡、池跡など、次々とその姿が明らかにされました。
出土した大量の土器(かわらけ)、常滑や渥美産の国産陶器、中国から輸入された白磁四耳壷・黄釉褐彩四耳壷などの高級な陶磁器は奥州藤原氏の文化と経済力の高さを改めて印象付けました。
これにより柳之御所遺跡は、都市平泉の中心的な役割を担っていたことが明らかにされ、「吾妻鏡」(あずまかがみ)に記された、奥州藤原氏の政庁跡「平泉館」(ひらいずみのたち)と考えられるようになっています。
平成5年には、その歴史的価値から、建設省の工事計画変更により遺跡は破壊をまぬかれ、平成9年には歴史上重要な遺跡として国の史跡に指定されました。
平成10年からは遺跡の整備・活用を目的として発掘調査が再開され、大型建物跡や銅印「磐前村印」(いわきむらいん)、初代清衡時代の一群の土器(かわらけ)など、重要な発見が相次いでいます。」
                                          (岩手県教育委員会作成パンフレットより)


なお、この遺跡から少し離れて「加羅之御所跡」があるが、こちらは秀衡の「常の居館」となっていたといわれる。こちらの場所にも説明板などが建てられているが、現在では民家が建ち並び、大規模な発掘調査は難しいのだろう。

経蔵
元は二階建ての建物だったが、二階部分を焼失し、一階部分のみを残していたが旧材を用いて平屋で再建された。芭蕉はこの再建されたお堂を見ている
「中尊寺経」が納められていたが、現在は資料館に移されている

義経堂に安置された義経木像
芭蕉は義経の生き方に非常な共感を持っていた。芭蕉がこの像を見たかどうかはわからないが、この地に到達した芭蕉の感慨がしのばれる

義経堂
高館のあった跡に伊達綱村が、天和3年(1683)に義経堂を建立し、義経の木像を安置した。芭蕉がここを訪れたとき(1689年)にはすでに建っていたことになる

高館跡に建てられた芭蕉句碑
芭蕉はここに座って義経主従を思い、泪したのだろう。この碑はおくの細道紀行300年を記念して、平成元年(1989)5月13日に建立された

高館義経堂への入口
ここで拝観料を支払い、階段を登ってゆくと高館、義経堂がある

高館(たかだち)、義経堂

JRの踏切を渡り少しゆくと、左手に「無量光院跡」の大きな標識と説明板がある。とりあえず、さらっと眺めて先に進む。さらに少し進むと「高館(たかだち)義経堂」の案内標識があるので、それに従い右に曲がる。少し先に丘に登ってゆく階段があり、拝観料を払って階段を上る。義経が藤原秀衡から与えられた居館、高館(たかだち)はこの丘の上にあったという。
芭蕉は悲劇の英雄・源義経が最期を遂げた地に実際に立ってみたいという思いを抱いてみちのくを旅してきた。「おくのほそ道」の旅は多くの歌に詠まれた歌枕の地を訪ねるとともに、その思いをかなえるために江戸からの長い道のりを歩きとおしたともいえるのだ。
丘の上に登ると眼前には北上川の雄大な流れがあり、正面には束稲山、北上川の少し上流には支流の衣川が流れ込んでいるのが見える。北上川は、洪水や改修などで河道は変化しているようだが、基本的な眺めは昔も今もそれほど違わないだろう。
少し先に義経堂、そしてそのすぐ近くに大きな芭蕉句碑が立てられている。おそらくこの辺りに高館が建っており、ここで義経は最期を迎えたのだろう。芭蕉はこの辺りに座って涙したはずである。句碑には有名な句とともに、ここでの感慨を綴った本文の一節が記されている。

       夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡   はせを翁

「三代の栄耀(えいよう)一睡の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。先(まず)高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入(おちいる)。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。偖(さて)も義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠打敷(かさうちしき)て、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。」

山目

県道(旧奥州街道)

配志和神社

磐井川

二夜庵跡

国道4号線
バイパス

東北新幹線

東北本線

一関駅

国道4号線

北上川

無量光院跡

毛越寺

金色堂

中尊寺

高館、義経堂

柳の御所跡

平泉駅

平泉は今、世界文化遺産登録に向けて動き出している。国内の暫定リストには載せられているが、正式な登録を目指して一歩を踏み出したのだ。今まで見てきたきたように平泉では現在でも発掘が続いている。これからも新しい発見がたくさん出てくるだろう。芭蕉の時代にすべて「田野」になっていた風景が復元整備されて目の前に現れるのもそれほど遠い将来ではないような気がする。それにしても「石の文化」に比べると「木の文化」は儚い運命だと思う。平泉は奥州藤原氏三代、約100年間の「夢の跡」であった。

私の「奥の細道歩き旅」も、ようやく折り返し点に達した。これからは、出羽山脈を越え日本海側を歩く新たな旅が始まる。



  

翌5月13日(陽暦6月29日)は一転して晴天となり、芭蕉はいよいよ平泉に出かけた。一関から平泉までは約2里と短いので、宿を出たのは10時頃といつもよりは遅かったようだ。この日は平泉を見物した後、再び一関の同じ宿に戻っている。

旅姿の芭蕉像
旧鞘堂の手前に、句碑とともに建てられている。

芭蕉句碑
五月雨の降のこしてや光堂

金色堂の旧鞘堂
木造で、正応元年(1288)に執権北条貞時が建てたものと推定されている
芭蕉はこの建物に覆われた金色堂を見ている

中尊寺金色堂、経蔵

高館を下り、中尊寺通りに戻る。芭蕉はこのあと奥州街道をさらに進み、衣川を越えて和泉が城跡などを見物した後、中尊寺金色堂に向かっている。私は衣川方面は省略してそのまま中尊寺に向かう。
ふたたび東北線の踏切を渡り、国道4号線を横断すると道の脇に大きな「武蔵坊弁慶の墓」が建っている。ここを通り過ぎると鬱蒼とした林の続く「月見坂」になる。結構きつい坂だが、途中に弁慶堂など見物場所もあるので、ゆっくりと見物しながら歩いてゆけばよい。
中尊寺金色堂は山の頂上最奥部にある。立派な鞘堂に覆われ、外からはその姿が見えないがこのおかげで風雨から守られてきた。金色堂は平安時代末期に藤原清衡により建てられ、創建当初から残っている建物はこの金色堂のみである。なお、「金色堂」は、日本の国宝第1号に指定された。金色堂の隣に「経蔵」がある。お経を納めていたお堂で、この建物は芭蕉も見ている。芭蕉の時代には、中尊寺には金色堂とこの経蔵の二つの建物しかなかったのだ。
また、その近くに旧鞘堂が移築されて残されている。これは鎌倉時代に建てられたもので、芭蕉はこの鞘堂に納められた金色堂をみている。芭蕉はここでの感慨をつぎの句であらわしている。

           五月雨の降(ふり)のこしてや光堂

近くにこの句の句碑および芭蕉の像が建てられている。いずれも高館の句碑と同じく平成元年に建てられたものである。

高館から正面方向を望む
正面に束稲山が見える。この風景は京都の東山と加茂川の流れとの類似から平泉が陸奥の京都といわれるもととなった

高館からの北上川上流方向を望む
少し上流に歴史上名高い衣川が流れ込んでいる。右岸では、国道バイパスの延伸工事が再開された。昭和63年から始まった「柳の御所遺跡」の発掘調査のために工事がストップしていたものである

一関から平泉へ

3月19日、私は7:30頃一関のホテルを出発した。今日は平泉を見物した後、JR平泉駅から帰京する予定である。
ビジネスホテル・アピアの前の大通りをまっすぐに進み、地主町交差点で左に曲がり、磐井川を渡って少し先で右に曲がる。あとは北にほぼまっすぐに続く県道を進めば国道4号線に出、これを道なりに進めば平泉に出る。この道筋は、ほぼ昔の奥州街道に重なっているようだ。
磐井川を渡る手前に芭蕉が一関で2泊したと伝えられる金森邸の跡がある。ここは、後に「二夜庵」と呼ばれるようになった。

駅前から続く「中尊寺通り」
この道を道なりに進めば中尊寺に達し、途中にいろいろ見所もある

JR平泉駅
駅舎の前面に大きく、「平泉の文化遺産を世界遺産登録へ」という横看板が掲げられていた

平泉

国道をしばらく行くと、左に毛越寺、右に平泉駅に出る交差点がある。私は、芭蕉の歩いた順序に従って、まず平泉駅に出て高館(たかだち)義経堂、中尊寺金色堂を目指すことにした。まず、駅に寄って電車の時間をメモした。駅舎の前面には「平泉の文化遺産を世界遺産登録へ」という大きな看板が掲げられていた。そうか、平泉は世界遺産登録を目指しているんだ。駅前からの道は「中尊寺通り」といわれ、道なりに進めば中尊寺に達する。私はこれまでに2度平泉に来たことがあるが、3,4年前に来たのはバス旅行で、駅から歩くのは40年ぶりくらいである。道の様子はまったく忘れている。

旧奥州街道(県道260号線)
平泉町に入る地点。JR東北線の線路と並行して走っている

配志和神社社殿
延喜式に載る古い神社で、現在の社殿は江戸中期に改築されたものだという

県道を進んでゆくと、道の左に配志和(はいしわ)神社の石の鳥居と灯篭が立っている。芭蕉の句碑があるということなのでちょっと寄ってみた。鬱蒼とした境内林の続く長い石段を登ってゆくと一番奥に質素な社殿が建っている。この社殿の手前と途中の庭園に芭蕉の句碑が建てられている。芭蕉がこの地で詠んだ句ではないが、江戸時代に地元の俳人が建てたものだという。
配志和神社を出た後は、旧奥州街道(県道)をタンタンと進む。道はやがて平泉町になり、国道4号線と合流する。

「二夜庵」跡
芭蕉が一関で2泊したと伝えられる金森家の跡.。現在は建物はないが、説明板が立っている。すぐ近くに磐井川の土手がある