国道342号線

北上川

奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

米谷大橋
この橋を渡ってバイパスが合流するので、また交通量は増える。この少し先で北上川は大きく蛇行する

北上川と国道342号線
登米からは対岸に国道のバイパスが通っており、この道は交通量が少ない。川を見ながらのんびり歩ける

大門

日向

大槻

山越え道

登米(とよま)から上沼新田まで

私は、この日は7:30頃登米の旅館を出発した。朝から晴れてよい天気である。北上川のすぐ脇を国道が通っており、この道を行く。川の対岸に国道のバイパスがあるので、この道はあまり車が通らない。ようやく車を気にせずに、川を見ながらのんびりと歩くことができた。
このような道を5Kmくらい進むと、前方に米谷大橋が見えてくる。この橋を渡って対岸を走っていた国道のバイパスが合流するので、また車の通行は多くなる。この辺りで北上川は大きく蛇行している。国道を少し進むと大きく蛇行した北上川の姿が再び現れる。また、川沿いにしばらく進むと錦桜橋に出る。ここで気仙沼に向かう国道346号線と交差する。この少し先が旅日記に出てくる上沼新田である。道はこの辺りから北上川と別れる。再び北上川と出会うのは平泉に着いてからである。

金沢

涌津

北上川

国道342号線

旧有壁宿

(一関街道

花泉駅

東北本線

一関

一関駅

金沢から旧有壁宿へ

国道342号線(一関街道)をしばらく歩くと大門地蔵堂がある。説明板によると、ここには地蔵菩薩像など平安後期の作と見られる木像があり、県の指定文化財になっている。有壁宿方面に行くにはその少し先で国道と別れ、県道187号線にはいる。県道をしばらく歩くと貴船神社がある。これも説明板によると、天平宝宇8年(764)ころ京都の貴船神社を勧請して建てられたという。貴船神社は雨乞いに霊験あらたかであった。この辺り一帯が古代から続いている村里であることが知られる。貴船神社から20分くらい歩いたところで県道185号線と交差する。この県道が旧奥州街道である。ここを右に曲がり、少しゆくと旧有壁宿本陣の建物がある。

涌津町の様子
街道沿いに古い構えの家も見られる。少し先に東北本線花泉駅もあり、街道沿いの町としては賑わいがある

街道脇の南部赤松(明治松)
並木というほど数はまとまっていないのだが、2,3本ずつ5,6箇所にわたって植えられている
かつては並木だったのかもしれない

ひなびた街道をタンタンと進んでゆくと、道の脇に小さな神社が見えた。ほかに休むようなところも見当たらないので、ここの石段に腰掛けて昼食にした。12:30頃だった。近くに赤松の林があり、「子孫に残そう郷土の南部赤松」という看板が立っていた。そういえばこれから先しばらくの間、街道沿いに赤松が2,3本ずつまとめて植えられている。松並木というほどには数はそろわないのだが、しばらくの間続いている。根元に「明治松」という表示杭が立っているので、明治時代に植えられたものだろう。
やがて、道は涌津(わくつ)の集落に入ってゆく。現在では少し先に東北本線の花泉駅があり、この辺りになってようやく街道沿いに町らしい雰囲気が漂う。昔はここに馬継があったのだろう。ここにいたって雨がさらにひどくなってきたので、芭蕉と曾良はここから次の金沢宿まで馬に乗っている。

登米(とよま)を出た後、芭蕉は北上川沿いの一関街道を平泉に向かって歩いた。「曾良旅日記」によれば、この日の旅の様子は次のとおりである。登米を出たときには曇りだったが、上沼新田あたりで雨が降り出し、涌津で雨が強くなった。ここから両人とも馬に乗り、金沢宿に着いた。雨は合羽もとおるほどだった。それからさらに「皆山坂」の道を行き、一関に着いたのは黄昏どきだった。この日は一関に泊まった。

涌津から金沢へ

国道342号線(一関街道)は東北本線花泉駅のすぐ前を通る。ローカル線では無人の駅が多いが、ここは有人でこの地方としては大きな駅である。駅を過ぎ街道を進むと、やがてかつての金沢宿となる。
当時、一関に行くには金沢宿の入口近くで金沢川(今の金流川)を徒渡りし、大槻を経て大門に出る一関街道が通常の道筋だった。しかし、芭蕉の一行は、大槻・大門間の川越えが増水のため不可能となったため、大槻から日向に抜ける山越えの道を行くことになったらしい。つまり、本来は一関街道をそのまま進むつもりだったのだが、たまたま天候の加減で山越えをしなければならなくなったということだ。私の旅は芭蕉の歩いた後をたどる旅なので、当然この山越えの道を行くべきなのだが、私はコース選択を迷っていた。
実は、国道を挟んで芭蕉の山越えの道と反対側に旧奥州街道が通っていて、旧有壁宿の本陣の建物が残っているということを知っている。距離的には山越えの道とそれほど違わないようだ。予定では現地でどちらにするか判断しようと思い、どちらとも決めていなかった。
迷いながら歩き、分かれ道に来たとき結局、私は旧有壁宿コースを選んだ。芭蕉としても山越えのコースは不本意な道だったのだし、ま、いいか。私はすでに奥松島でも芭蕉と別コースを歩いているのだ。

岩手県一関市の道路標識
とうとう岩手県に入ったのだ。道路わきに「ここは岩手の最南端 文化の香る町花泉」という看板が立ってい

中田町上沼付近の風景
曾良が「上沼新田」と記している辺りである。当時は新田開拓の真っ最中だったのかもしれない
芭蕉はこの辺りを雨にぬれながら歩いた

上沼新田から涌津(わくつ)へ

曾良が上沼新田と記した場所は、現在は中田町上沼となっている。街道の周りにはのどかな田園風景が広がる。新田という名前のとおり、芭蕉の時代にはこの辺りはまだ開拓中だったのかもしれない。芭蕉たちはこのあたりから雨に降られた。時期は陽暦の6月28日、ちょうど梅雨の真っ只中である。
のどかな街道を1時間ほど歩くと、岩手県一関市の道路標識が現れた。とうとう岩手県に入ったのだ。歩きに歩いて、思えば遠くに来たもんだ。

上沼新田

中田町

貴船神社
奈良時代に雨乞いのため京都の貴船神社を勧請して建てられたという

大門地蔵堂
大門の地は、平泉藤原氏の南の大門跡という言い伝えもあるようだ。地蔵堂には平安時代末期の作と見られる木造地蔵菩薩像がある

旧有壁宿本陣跡

旧有壁本陣は、奥州道中の有壁宿に設けられ、松前、八戸、盛岡、一関の藩主が参勤交代の際と幕府や各藩重臣が通行の際に宿泊や休息したところである。現存する建物は、延享元年(1744)に改修されたものである。道路に面して二階建ての長屋があり、その脇に立派な御成門が建っている。明治9年、14年の2度にわたる明治天皇の奥羽御巡幸の際にはいずれも御小休所となっている。主要街道の貴重な遺構として昭和46年に国の史跡に指定された。なお、私が通ったときには、「邸内改装中につき当分の間一般公開は中止いたします」という張り紙があり、残念ながら内部の見学はできなかった。

旧有壁宿から一関へ

本陣の建物の前の道は奥州街道の旧道で立派な舗装道路である。本陣建物の写真をとった後、先に進んでみた。100mくらい先に観音寺というお寺があり、それから先は舗装がなくなり「伊勢堂林道」という表示杭が立っている。少し進んでみたが、地図にも載っていないしどこに出るのかまったく保証がない。この道を進むのはあきらめて元に戻る。これから先は国道4号線への案内表示が出てくるので、それにしたがってまず国道4号線を目指す。これから先は道路の案内表示だけがたよりである。(有壁から先の詳細地図は用意していなかった)
車の多い山中の国道4号線を歩いているうちに雨が降ってきた。国道の区間が意外に長く心配になってきた頃、ようやく一関市街への連絡道路に出た。これを進むとようやく元の国道342号線(一関街道)に合流できた。辺りは薄暗くなり、一関の大通りに出たときにはホッとした。JR一関駅近くのビジネスホテルに到着したのは18時ころだった。

米谷大橋

錦桜橋

国道と山越えの道の分岐点
どちらの道を行くか迷った末、結局国道経由で旧有壁宿に出るコースを選んだ
右に行くと山越えルート

金流川
芭蕉の当時、この川は徒渡りだったが、降り続く雨のため増水し渡ることができなかった。やむを得ず芭蕉は山越えの道をゆかざるを得なかった

旧有壁宿本陣跡A
本屋は百坪ほどの平屋で、私宅の部分と本陣として使用された諸室が含まれる。残念ながら現在は「邸内改装中につき当分の間一般公開中止」とのことで内部の見学はできなかった

旧有壁宿本陣跡@
この建物は延享元年(1744)に改築された。道路に面して二階建て長屋があり、その脇に御成門が建っている。御成門を入ると車寄せがあり、式台のついた玄関がある(説明板より)