北上川に沿って走る国道45号線
芭蕉の時代、細長い沼になっていたあたり。現在は大型トラックがビュンビュンと通る

北上川大堰
灌漑用水に使用するため、北上川本流をせき止めている。もちろん洪水防止の役割もある

飯野川橋から北上川上流を望む
遠くに北上川大堰が見える。この辺は堰の下流だが、川幅は大変広い

奥の細道歩き旅 第2回
奥の細道歩き旅 白石〜槻木

石巻から鹿又(かのまた)へ

私は、7:30に石巻のビジネスホテルを出発した。あいにく朝から雨が降っているが、それほど強い降りではない。町の中心部から芭蕉が歩いた道はよくわからないので、国道45号線に出てこの道を行くことにした。国道を6Kmくらい歩いて、旧北上川に架かる天王橋に着いた。芭蕉はこの付近まで川の土手を歩き、ここ(鹿又)から舟で北上川を渡っている。川を渡った後は、芭蕉の歩いた道も現在の国道45号線とほぼ同じルートとなる。

土手の上にある「芭蕉翁一宿之跡碑
説明版によると、この碑は芭蕉が宿泊したといわれる検断屋敷跡にたてられたが、河川改修工事の際ここに移されたという

登米(とよま)大橋
この橋を渡れば「みやぎの明治村」、登米(とよま)町に入る。芭蕉は渡し舟で渡っている

5月11日(陽暦6月27日)、石巻を出発した芭蕉は、「おくのほそ道」の旅の大きな目的地であった平泉へと心をはやらせながら、北上川に沿って歩を進めた。石巻からおよそ二里で鹿又(かのまた)に至り、北上川を舟で渡った。さらに追波(おっぱ)川沿いに飯野川に至り、登米(とよま)へと向かった。当時は飯野川〜柳津間の(新)北上川はまだ開削されておらす、芭蕉はこの新しい北上川は見ていない。

宿泊した旅館 (D武(えびたけ)旅館)
登米町商工会で紹介してもらった旅館。200年以上続いている旅館だという。1泊2食付で6500円。食事もすばらしかった(0220-52-2013)

水沢県庁記念館
明治4年に水沢県庁舎として建てられ、明治8年庁舎が一関に移転するまで使用された。その後、小学校や裁判所等に使用された

警察資料館
明治22年に建てられ、昭和43年まで登米警察署として使われた。時間が過ぎてしまい入館はできなかった

蔵造り店舗
この建物は明治43年の建築で、元禄年間以来、代々呉服商だという

登米(とよま)

柳津から先も一関街道(国道342号線)は北上川に沿って進む。柳津から5Kmくらい国道を歩くと、登米大橋が見えてくる。この橋を渡ると登米(とよま)の町である。芭蕉はこの町で一宿している。橋を渡った土手の上に「芭蕉翁一宿之跡」の碑が建っている。曾良は旅日記で、「宿を貸してくれる家がないので、検断に頼んで泊めてもらった」ということを記している。
登米町は「とよままち」と読む。登米町の属する登米市は「とめし」と読む。同じ「登米」なのだが町と市で読み方が違うのである。これは知らないと面食らう。
登米(とよま)は、約800年前、葛西氏がこの地に築城したのが始まりで、その後伊達一門二万一千石の城下町として明治維新まで隆盛を極めた。その後も北上川を利用した舟運で栄えたが、その後の鉄道ルートからは見放されてしまった。現在では、それを逆手にとって明治の雰囲気がそっくりそのまま残った「みやぎの明治村」として観光に力を入れている。

登米町(みやぎの明治村)散策

登米大橋を渡るとすぐに古い味噌、醤油の店がある。もうすっかり明治村の雰囲気だ。私はまず、本日の宿泊予定の店に電話して場所を確認した。宿に着いたのは16時頃。荷物を置いて町の散策マップをもらって早速、明治村の散策に出かけた。
それほど広いエリアではないので、1時間くらいで一通り町を見物した。資料館などは17時までで閉館してしまうので、ほとんど入れなかった。これらを丁寧に見ていたらもっと時間はかかるだろう。なお、このエリアには三陸自動車道の延伸工事が進んでおり、これが開通すれば交通アクセスは現在よりよくなり、お客もかなり増えるだろう。

国道342号線沿いの柳津の町並み
国道342号線はかつての一関街道であり、柳津はその宿場があった。蔵造りの商店などわずかに面影が残る

国道分岐点付近(柳津)
柳津で国道45号線と342号線が分岐する。北上川もここで新旧水路に分かれる

国道脇の「おくの細道の碑」
「明くればまた知らぬ道まよひ行。・・・心細き長沼にそふて、戸伊摩(といま)と云ふところに一宿して、平泉に到る」の本文の一節を記す

天王橋より旧北上川下流方面を望む
芭蕉は右岸の土手の上を歩き、ここ鹿又付近で川を渡った

国道45号線天王橋
国道はこの橋で旧北上川を渡る

これから平泉まで、北上川は旅の友となる。ここで東北の大河・北上川について簡単に紹介しておこう。

北上川のこと

北上川は奥羽山脈と北上高地の間の北上盆地を流れ、下流部に仙台平野を形成して追波湾に注ぐ全長249Kmに及ぶ大河である。
北上川は昔から大雨が降ると氾濫をくり返し、為政者の悩みの種であった。江戸時代、62万石の仙台藩主となった伊達政宗の命により北上川の改修工事が始められた。その後の主な経緯は次のとおり。

@元和年間(1615〜25)、それまで追波湾に注いでいた流路を石巻湾に切り替える。(洪水防止対策と石巻への水運向上)。仙台藩は大々的な北上川治水事業により30万石以上の増収があり、仙台藩の実高は100万石を越えていたともいわれる。

A明治時代になり、洪水防止のため柳津から飯野川間を新たに開削し、追波川の流路を使って追波湾に流す工事を行った。この工事は明治44年から昭和9年まで22年をかけて行われた。これに伴いそれまでの流路は旧北上川と呼ばれるようになった。

このほかにもいろいろな改修工事が行われており、北上川水系はなかなか複雑である。




鹿又から北上川沿いの国道を歩く

天王橋で旧北上川を渡った後の国道45号線は、芭蕉の歩いた旧一関街道とほぼ重なっている。国道を進んでゆくと飯野川橋で(新)北上川を渡るが、芭蕉の時代にはこの橋はなかった。そもそも、ここは地続きで川は流れていなかったのだ。この川は明治末年からの工事で新たに開削されたものである。
飯野川橋から眺める北上川は川幅も広く、満々と水を湛えている。これから先の国道は、左手に広い北上川が流れ、右手には山地が続いている。少し上流に灌漑用水のための北上川大堰がある。北上川はここでせき止められ、まるで湖のような様相を呈している。芭蕉の時代には、この辺りは南北に1.5Kmほどもある細長い沼になっていた。芭蕉が『心細き長沼にそふて(歩いた)』と記している場所である。
地形的には芭蕉の時代と似ているが、雰囲気はまったく変わった。本来なら静かで景色のよいウォーキングに適した道なのだが、現在は幹線国道であり、大型トラックがかなりのスピードでひっきりなしに通る。しかも、歩道スペースはほとんどない。人里が見えるまで約4Kmの間このような道が続く。

芭蕉の歩いた道は新水路の開削によりほとんど失われた

明治末年から22年かけて新たに開削された新流路

北上川

国道45号線

柳津(やないづ)

柳津の町が近づき、ようやく国道に立派な歩道がつけられた。それまで雨は降っていなかったのだが、ちょうどこの頃から激しい雨と風になった。歩道のない区間で降られなかったのは幸いだった。風雨の中をしばらく進むと、道の脇に立派な「おくの細道の碑」が建っていた。近くに屋根のついた休憩所があったので、雨宿りをかねてここで昼食にした。13時頃だった。
柳津(やないづ)は一関に向かう一関街道と、気仙沼に向かう東浜街道が交差する交通の要衝の地で宿場があった。現在もここで気仙沼に向かう国道45号線と一関に向かう国道342号線が分岐する。また、この地は北上川が新水路と旧水路に分岐する地点でもあり、河川関係の構築物も目に付く。
国道342号線沿いには、宿場町を思わせる古いつくりの家も少し残っている。近くにはJR気仙沼線の柳津駅もあり、ちょっとした町になっている。この頃には雨もやみ、青空が見えてきた。

古い味噌醤油店(海老喜商店)
登米大橋を渡ってすぐのところにある。この店の蔵は資料館として公開されている