奥の細道歩き旅 白石〜槻木

国道4号線(東京より321Km地点)
大河原旧市街を抜けると再び国道に合流する。(村田町沼辺付近)

大河原宿内旧道の様子
この辺りは旧道の雰囲気が残されている

白石から大河原へ

芭蕉は白石宿に1泊した。次の日は朝から雨が降っていたが、8時頃には小降りになったので宿を出発している。白石城下を抜け、次の宿泊地仙台を目指して奥州街道をひたすら歩き続けた。
現在の奥州街道は、白石市街を抜けると国道4号線と重なっており、長い国道歩きとなる。私は足首の捻挫のあとがまだ少々痛く、無心にタンタンと歩くという状態ではなかった。蔵王の山並みを遠くに望みながら蔵王町を過ぎ、やがて大河原町に入る。

片倉家中(小関家)武家屋敷外観
農家住宅をベースとし、次第に武家住宅として体裁を整えてくる過渡的形態を示しているという

片倉家中(小関家)武家屋敷内部
それほど広い家ではなく、江戸時代中期の武士の質素な暮らしぶりがうかがわれ

2005年11月24日から26日まで、3日間で白石から塩釜まで歩いた。第1日目は白石から槻木(つきのき)まで。2日目は槻木から岩沼を経て仙台へ。3日目は仙台から多賀城を経て塩釜まで歩き、ここからとりあえず電車で松島まで行った後、帰京した。
10月の荒川源流を訪ねる旅で足首を捻挫し、完治しないままに出発したので、少々痛む足を引きずっての歩き旅となった。

白石川を渡る
これから槻木まで、この川沿いの奥州街道(国道4号線)を行く

街道沿いにある「吉見紙工房」
伊達藩では和紙の生産を奨励し、白石はその中心となった。その技術は現在に受け継がれている

旧奥州街道に戻り先に進む。街道沿いにはほとんど昔の面影は残っていない。途中に「紙子工房」という看板があり、興味を持った。平安時代から、みちのくの紙は「ふくよかに、きよく、うるわしい」と評判だったという。この伝統を受け継ごうと、伊達藩主は紙漉きを奨励した。特に白石、苅田地方は原料と水質に恵まれ、良質の紙を産出した。白石和紙は丈夫なことから現在では、札入れ、ハンドバッグなどのほか、奈良東大寺の「お水取り」の修行僧衣にも使われているという。
やがて道は白石川を渡る。この川は蔵王山系に源を発し、槻木付近で阿武隈川に合流する川である。奥州街道(国道4号線)は、この川に沿う形で東北に進む。

白石市街

東北新幹線の白石蔵王駅に着いたのは9:32。駅横の県道をまっすぐに行き、東北本線の陸橋を渡ると奥州街道旧道に出る。陸橋からは遠くに雪を頂いた蔵王を望むことができた。白石城らしい白い建物も見える。まずは、このお城を訪ねることにした。旧道を行くと案内標識が出ているので、それにしたがって進む。

白石市街より蔵王連峰方面を望む
遠くに雪を頂いた蔵王連峰を望むことができた

片倉家中(小関家)武家屋敷

白石城を下りて行くと、清冽な水が流れる川がある。この川は、城の外堀にもあたる沢端川で、川沿いの道は「武家屋敷通り」となっている。現在は閑静な住宅地となっているこの道を少し行くと、「片倉家中武家屋敷」がある。この家は、もと片倉家中の小関家の屋敷で、平成3年に全面修復された。このとき享保15年(1716)の墨書が発見された。創建年代の明らかな建物として宮城県指定の文化財となり、一般公開されている

国道4号線、大河原町に入る

国道からの蔵王連峰の眺め
ほとんど雲に隠れているが、遠くに雪を頂いた蔵王連峰を望むことができた

やがて旧道が左に分かれてゆく。その分岐点のすぐ近くに大きな赤い鳥居が建っている。大高山神社である。長い階段を登ってゆくと、山の上に本殿がひっそりと建っている。6世紀末に創建されたという延喜式内社である。時計を見ると13時近いので、ここで昼食にした。
この旧道沿いには、かつて金ヶ瀬宿があった。大高山神社は金ヶ瀬宿の入口に位置している。今では普通の住宅地になっているが、古い造りの家も見られた。しばらく旧道が続いた後再び国道に合流する。

国道は大河原市街をバイパスするので、旧道は再び国道から分かれて右に曲がってゆく。町の合同庁舎の先でさらに左に曲がって行くと、大河原宿のあった旧市街になる。、蔵造りの古い家などもあり宿場の面影が幾分か残っている。大河原は大きな町であり、旧道沿いには商店が長く続いている。大河原旧市街を抜けると、道は再び国道4号線に合流する。道は大河原町から村田町、柴田町となる。

白石川河畔を経て槻木(つきのき)へ

やがて、国道から白石川が見えてくる。これから槻木までは国道はほぼ川沿いに進むので、私はここから先は白石川の土手を歩くことにした。白石の町で見たときよりも川幅も広く、堂々とした川になっている。対岸には川に沿って桜が長く続いている。「白石川一目千本桜」というようだ。桜の時期はすばらしいだろう。また、対岸のの丘陵には「船岡城址」の大きな白い看板も見える。
川に沿ってどんどん下ってゆくと、やがて東北本線の鉄橋が見えてくる。白石川は、その少し先で阿武隈川と合流する。

白石川東北線鉄橋を望
遠くに東北線鉄橋が見えてきた。その少し先で阿武隈川と合流する

白石川一目千本桜
対岸の土手には桜が続いている。背後の丘陵の上には「船岡城址」の大きな看板が見える

JR線路を越え、線路に並行して進んでゆけばやがてJR槻木駅が見えてくる。駅に着いたのは16:15だった。冬の日は暮れるのが早い。今日の旅はここまでとし、電車で仙台に向かう。今日の宿は仙台駅近くのビジネスホテルを取ってある。


(総行程 約26Km)


   


沢端川と武家屋敷通り
城の外堀を兼ねたこの川沿いには侍屋敷が建ち並んでいたのだろう

片倉家中(小関家)武家屋敷門
沢端川沿いに建つ小関家の屋敷門

金ヶ瀬宿の様子
旧街道沿いには古い造りの家も見られた

大高山神社
長い階段を登った上に建っている。敏達元年(571)に創建されたという延喜式内社である

白石城天守閣(三階櫓)
平成7年に天守閣が再建された。日本古来の建築様式に基づき、木造により復元された

白石城

白石城は、町の中心部の小高い丘の上にある。
天正19年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、会津若松城とともに蒲生氏郷に与えた。慶長5年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となった。このあと伊達氏家臣片倉小十郎によって白石城の大改修がなされ、以後、明治維新まで片倉氏の居城となった。元和の一国一城令以後も白石城は例外的に取り壊しをまぬかれた。仙台藩の重臣であった片倉小十郎の実力を幕府も認めていたからだとも言われている。
城は明治維新後解体されたが、平成7年、天守閣、大手門などが再築された。
奥の細道歩き旅 第2回