奥の細道歩き旅 飯坂温泉〜白石

義経腰掛の松
峠道にあるこの松は、三本の太い幹から四方に繁茂する枝が笠のようだったという。現在の松は二代目だが、松くい虫の被害を受けている

国道4号線(国見峠手前付近)
明治時代に拓かれた現在の国道。旧奥州街道は、国見峠を越える山道だった

藤田宿の様子A
通りには古い家もちらほら残っている

藤田宿の様子@
現在は国見町となっている

桑折宿はずれの道
桑折の町並みを過ぎると田園地帯になる。左手にかつての銀山、半田山が見える

奥州街道と羽州街道の追分
まっすぐ行くもが奥州街道、左に曲がってゆくのが羽州街道である

内部の様子(旧郡会議室)
ここでは「日本三大銀山 奥州半田銀山資料展」というのをやっていた。半田山は桑折の町の近くにある

旧伊達郡役所
明治16年に建てられ、大正15年に郡役所の制度が廃止になるまで郡行政の役割を果たしてきた。昭和52年、国の重要文化財に指定

国道と県道の分岐点
国道はここで右に折れて伊達方面に向かう。まっすぎに行くのは県道(飯坂、桑折線)で、通称湯野街道と呼ばれている

湯野中央商店街(国道399号線)
飯坂温泉には近いが、その影響のあまり及ばないひなびた商店街である

今日(10月10日)は、飯坂温泉から湯野街道を通って桑折(こおり)に出、ここから奥州街道に入って北に向かう。途中、国見峠の古戦場跡を通り、貝田の先で宮城県に入る。芭蕉は、白石宿で宿泊しているが、私は白石から新幹線で東京に帰る予定である。

馬牛沼の少し先で旧道が右に分かれてゆく。この道は、かつて岩の多い狭い急坂で、馬上の武士が一人ずつしか通れなかったため鐙摺(あぶみずり)といわれたが、現在は普通の道である。この先に田村神社があり、その境内に甲冑(かっちゅう)堂がある。芭蕉は、飯坂の医王寺の件(くだり)で佐藤兄弟の嫁がしるしを見、涙したと記しているが、実際に二人の嫁の像を見たのはこの甲冑堂でだった。

貝田宿案内板のある辺り
貝田宿のはずれには番所があった。福島圏内の奥の細道自然歩道はここで終わる。白坂の関の明神からここまで総延長428Kmに及ぶという

国道4号線、「厚樫山古戦将士碑」付近
長坂を下ると国道4号線に出る。付近に厚樫山古戦の事績を記した石碑が建っていた

阿津賀志山防塁跡A
厚樫山は今も昔も変わりなくこの場所にあり、防塁の跡もほとんど手をつけることなくそのまま残されてきた。

阿津賀志山(あつかしやま)防塁跡@
奥州藤原軍はここに長さ3Kmにも及ぶ防塁を築き、防衛拠点としたが、頼朝の大軍の前に敗退した。この防塁跡が現在まで残り、国の史跡に指定されている

無能寺境内の「御蔭廼松」
明治天皇も感嘆され、お付きの人に命じて名前をつけたという。昭和55年に天然記念樹に指定されている

無能寺
明治14年の明治天皇東北巡幸の折の御小休所となった。慶長13年(1608)創建

桑折寺山門前の街道の様子
奥州街道が左手からやってきて、ここで大きく曲がる。上のほうへまっすぐ延びているのが湯野街道

桑折寺山門
伊達氏の西山城内にあった門をここに移築した。伊達氏は16世紀には、この桑折の地から米沢に移っていった

伊達家始祖、朝宗の墓所
江戸時代には参勤交代の途中、仙台候はここに墓参するのを例としていた

稲刈り、稲干し中の稲と新幹線
季節は秋、刈取った稲が稲干しされている。その近くを新幹線が疾走する

橋を渡ってから、温泉街とは反対の川の下流側に進む。「湯野中央商店街」の看板のかかったこの道は、れっきとした国道399号線である。少し先で国道は右に分かれる。まっすぐに行くのは県道124号線(飯坂、桑折線)で通称湯野街道と呼ばれている。ここはまっすぐに桑折方面に向かう。

まっすぐの道をさらにタンタンと進むと、やがて東北自動車道の下をくぐり、東北新幹線の線路が見えてくる。線路を過ぎて少し先に、「伊達家始祖、朝宗の墓所」の案内標識があったのでちょっと寄ってみた。伊達家はもと藤原氏で、朝宗は頼朝の奥州征戦の折に軍功があり、伊達郡を賜った。その後この地に来住し、以来、家名を伊達と名乗った。伊達家はここ桑折で勢力を拡大し、16世紀には米沢、仙台へと移っていった。有名な伊達政宗は、朝宗から数えて17代目にあたる。

街道に戻り少し行くと桑折寺がある。鎌倉時代に開かれた時宗の寺で、この地域では最も古い。この寺の山門は、伊達氏が西山城から米沢に移る時、城内の門を桑折寺に移築したものである。なお、湯野街道はこのお寺の前で奥州街道と合流する。

桑折寺の少し先に、旧伊達郡役所が残っている。明治16年に建てられたもので、東北地方に残る洋風建築の優品のひとつとして国の重要文化財に指定されている。内部は公開されており、自由に見学することができる。2階の旧郡会議室では、半田銀山資料展をやっていた。

桑折宿は奥州街道と羽州街道が分岐し、阿武隈川の舟運河岸のある交通の要衝であった。奥州、羽州の街道を南下してきた弘前、秋田、新庄、山形、南部、仙台などの大名たち18諸侯はここ桑折宿で休泊した。先ほどの伊達郡役所の付近には本陣があったという。桑折宿には今なお古い土蔵造りの家や立派な門構えの家などが見られ、昔の面影が色濃く残っている。

街道を少し行くと、街道沿いに無能寺というお寺がある。このお寺は、明治天皇が東北巡幸の折に御小休所となった。天皇は境内の大きな美しい松に感嘆され、「御蔭廼松(みかげのまつ)」と命名されたという。

桑折宿街道風景B

桑折宿街道風景A

桑折宿街道風景@

桑折の追分から伊達の大木戸へ

無能寺の少し先で奥州街道と羽州街道の追分となる。まっすぐ行くのが奥州街道、左に分かれていくのが羽州街道である。羽州街道はこの先、奥羽山脈を越え出羽国に入り、一路北上し青森まで達する幹線道路である。この街道を通って江戸に上り下りした大名は13家に及んだ。また、南東北、関東方面から出羽三山に向かう参詣者も利用した。一方、奥州街道はこの先、仙台、盛岡を経て青森まで達する東北の幹線であり、仙台、南部、松前などの諸大名が利用した。この二つの大きな道路が桑折宿で合流、分岐するのだ。
奥州街道を行くと、やがて町並みは途絶え田園地帯となる。左手に半田銀山を見ながら芭蕉もこの道を歩いたのだろう。

やがて道は藤田宿に入る。桑折宿から約5Kmと近いが、こちらは近在の衆が集まる遊興の町の色合いが強かったらしい。近くに半田銀山のあったことも影響しているのだろう。桑折ほどではないが、古い家もちらほら見える。

町の中を抜けた奥州街道旧道は、やがて国道4号線に合流する。この辺からは両側に山が迫り、狭い地域に国道、東北自動車道、JR東北線などが集中している。現在の国道は山の麓を通る平坦な道になっているが、かつての奥州街道は急な坂道を登り、国見峠を越えた。
峠道への取掛かりがよく分からなかったが、国道のパーキングエリア付近から山に向かう道があったので、この道を行く。途中に国見大明神という小さな神社があったので、ここで昼食にした。12:15だった。この神社の前の道をさらに登ってゆくと、「義経の腰掛松」に出た。義経が平泉へ下向の際、この松の枝に腰掛けて休息したという言い伝えがある。現在の松は二代目だという。初代の松株が、柵で囲まれた屋根の下に保存されている。

さらに登ってゆくと、少し先に「国史跡 阿津賀志山(あつかしやま)防塁」の標識の出ている場所に出た。この付近一帯は、文冶5年(1189)の奥州合戦で源頼朝と藤原泰衡の軍が激戦を交えた古戦場である。奥州藤原軍はここに長い防塁を築き、この付近に置かれていた「伊達の大木戸」とともに防衛拠点としていた。しかし、決戦は頼朝軍の圧勝に終わり、奥州藤原氏は崩壊。時代は鎌倉幕府の誕生へと向かっていった。

防塁跡のすぐ先で国見峠の頂上になる。頂上付近に「旧奥州道中国見峠長坂跡」の説明板があった。「・・・この道は、東山道、奥の大道、奥州道中、陸前街道と時代により呼称が異なるが、奥羽地方の幹線道路として機能していた。伊達駅(藤田宿)を経由しほぼ直線状に延びた古代の東山道は、阿津賀志山防塁を切りとおした辺りから長坂と呼ばれる急な坂道に差し掛かり、登りつめた所が国見峠である。近世におけるこの道は、仙台、盛岡、松前藩などの諸侯の参勤交代の道として使用された。・・・・」。芭蕉は本文の中で、「路縦横に踏んで伊達の大木戸を越す」と記しているが、当時も今の様子とそれほど大きな違いはなかっただろう。

貝田から越河(こすごう)を経て白石へ

長坂を下ってゆくと国道4号線に出る。国道脇に「厚樫山古戦将士碑」が建っていた。国道をしばらく行くと旧道が左に分かれてゆくので、こちらを進む。やがて道の脇に貝田宿の表示板と「奥の細道自然歩道終点」の標識が見えてくる。この福島県の自然歩道は、白坂・関の明神から国見町貝田まで総延長428Kmに及ぶという。近くに貝田番所跡の標識があるが、遺構は何も残っていない。

再び国道4号線に出て少し行くと、福島県、宮城県境界標識があった。ここからは宮城県白石市になる。とうとう歩いて宮城県に到達したのだ。その少し先に国道4号線、東北自動車道、JR東北本線の3本が1点で交差する場所がある。この付近のJR線路脇の斜面に「越河番所跡」の標識が立っている。JR線路によって分断されてしまったが、かつては旧道があの辺りを通っており、そこに越河番所があったのだ。この番所は仙台藩に入る境目番所で、取調べが厳しかったようだが、曾良の旅日記でも特に記していない。問題なく通過したのだろう。

国道4号線をしばらく行くと旧道が左に分かれ、越河宿に入ってゆく。JRの線路と国道4号線に並行してこの町並みは結構長く続いている。再び国道に合流して少し行くと道の脇に大きな沼が見えてくる。馬牛沼で、坂上田村麻呂にまつわる伝説がある。ここから少し先にある田村神社には、伝説に関連して田村麻呂が祀られている。

甲冑堂
堂内には佐藤継信、忠信兄弟の二人の嫁が、甲冑姿で祀られている。田村神社境内にある

鐙摺(あぶみずり)付近
このあたりの道は狭くて険しく、義経一行が鐙を岩に摺って通ったと伝えられる

甲冑堂の先で、道は斎川宿に入ってゆく。規模の小さな宿場だが、途中に検断屋敷跡というのがあり、明治天皇御小休所の碑が建っていた。少々時間が気になりだしたので、さっと通り過ぎた。その後国道4号線に合流し、白石市街に向かう。新幹線の白石蔵王駅は東北線の白石駅とはかなり離れている。地図と道路標識を頼りに駅に着いたのは17:30頃だった。あたりはもう真っ暗になっていた。

馬牛沼
国道脇にある大きな沼。明治からは鯉養殖場となり、晩秋には「沼干し」の行事でにぎわうという

越河宿入口付近
ここから国道に並行して2Kmくらい旧道が残っている

東北新幹線、白石蔵王駅
東北本線の白石駅とは結構離れている

斎川宿の町並み
左側の屋敷は検断屋敷跡で、明治天皇の御小休所になった

総行程 約30Km





新十綱橋から摺上川上流を望む
川の両側には大きな温泉ホテルが建ち並んでいる。この辺が飯坂温泉の賑わいの中心になっているのだろう

飯坂温泉から桑折(こおり)へ

福島駅を7:50に出発し、福島交通線の飯坂温泉駅に着いたのは8:15。今日は曇り空である。駅前に建っている芭蕉像の裏側には摺上川が流れている。芭蕉の時代にはこの川は、両岸の杭木に渡した綱をたぐって舟を進める十綱渡(とづなのわたし)で越えた。現在は新十綱橋で対岸に渡る。橋から上流側を眺めると、両岸には温泉ホテルが建ち並んでいる。現在の飯坂温泉の賑わいの中心は、この川沿いなのだろう。

越河番所のあった付近の様子
ここは、国道4号線、JR東北線、東北自動車道が交差しており、かなり状況が変わっている。左上に「越河番所跡」の標識が見える

宮城県白石市標識
ここからは宮城県白石市になる。とうとう宮城県に到達したのだ

国見峠長坂跡説明板のある辺り
長坂は急坂で、甲州街道の難所といわれたが、現在はそんな感じはしない

国見峠頂上付近の様子
芭蕉も参勤交代の諸大名もこの峠を越えた

やがて、道の両側にリンゴの木が続く果樹園地帯に出る。道のすぐ脇の手の届く場所に真っ赤に熟した大きなリンゴがたくさんなっている。自分勝手に解釈すると、どうぞサンプルに一つ食べてみてください、おいしかったらお土産にどうぞ、といっているようにも見える。果樹園はかなり長く続いていたが、甘い誘惑にも負けず通り過ぎた。

たわわに実る真っ赤なリンゴ
道からすぐ手の届くところになっている。フジ系のリンゴだろうか

リンゴ果樹園地帯を行く
道の両側にリンゴの木が連なる。奥行きも長く、山裾の方まで続いている

奥の細道歩き旅 第2回