10月9日、福島駅に着いたのは9:14。前回は気がつかなかったが、駅前広場に芭蕉と曾良の旅姿立像が建っている(右写真)。この像は、奥の細道300年を記念して、1989年(平成元年)に福島商工会議所の有志が中心となって、在りし日の旅姿を偲んで建立されたものである。
芭蕉は元禄2年(1689)5月1日(陽暦6月17日)にここ福島で一夜を過ごした。翌5月2日には歌枕の信夫文知摺(しのぶもぢずり)石を訪ね、更に義経ゆかりの「医王寺」を訪れた後、飯坂の湯宿に泊まった。今日はそのあとをたどるコースである。
芭蕉はこの後、佐藤庄司基冶の居館・大鳥城跡に立ち寄ってから飯坂へ向かった。私はこれは省略し、元の道を戻って福島交通線の線路沿いの県道を歩き、飯坂の温泉街に入る。江戸時代の飯坂は、摺上川沿いのひなびた湯治場だった。宿には内湯はなく、湯に入るには外の共同浴場に足を運ぶしかなかった。温泉街の中ほどに鯖湖(さばこ)神社いう小さな神社があり、鳥居の脇に「飯坂温泉発祥の地」の碑が建っている。神社の裏手に鯖湖湯という共同浴場がある。飯坂温泉で最も古い共同浴場だが、平成5年に改築されて新しくなった。近くに立派な土蔵造りの旅館がある。江戸時代から続くなかむらや旅館で、建物は国登録の有形文化財に指定されている。
坂を登ってゆくと、文知摺観音堂があり、その奥には福島県指定重要文化財の多宝塔が建っている。また、この地には『みちのくの忍(しのぶ)もぢずり誰ゆえに乱れそめにし我ならなくに』の歌のもとになった河原左大臣・源融(みなもとのとおる)と土地の長者の娘・虎女との悲恋伝説が残っており、二人の墓も建てられている。一帯は公園として整備されており、ベンチやテーブルなども置かれているので、ここで昼食にした。
今回は2日間で福島から白石まで歩く旅である。第1日目(10月9日)は福島駅から市内を歩いて飯坂温泉まで、2日目は飯坂温泉から奥州街道を経由して白石まで歩く予定である。
芭蕉は「おくのほそ道」に、『温泉(いでゆ)あれば、湯に入りて宿をかるに、土座に莚(むしろ)を敷て、あやしき貧家なり』と記している。そして、夜に入ると雷鳴とともに雨漏り、それに蚤や蚊に食われて眠れず、おまけに持病の腹痛まで起こり『消え入るばかり』になったという。芭蕉は、佐藤一族の愛惜の思いに心も暗かったのか、ことさら旅の苦しさを誇張して、雷鳴も蚤も蚊も持病もと記したのであろうとされている。
福島交通飯坂温泉駅前に芭蕉像が建っている。等身大の立像は薄暗くなった空の下で、少し淋しそうにたたずんでいた。私はこれから福島まで戻って駅前のホテルのシングルルームに宿泊予定である。せっかく温泉地に来ているのにという気持ちもあるが、これは割切である。一人旅にはこちらの方が気楽だし安い。16:45発の電車に乗り、25分くらいで福島駅に着く。
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『おくのほそ道』本文より
あくれば、しのぶもぢ摺(ずり)の石を尋ねて、忍ぶのさとに行く。遥か山陰の小里に、石半ば土に埋もれてあり。里の童部(わらべ)の来たりて教えける、昔はこの山の上に侍りしを、往来の人の麦草を荒らしてこの石を試み侍るをにくみて、この谷につき落とせば、石の面(おもて)したざまにふしたりという。さもあるべき事にや。
福島交通医王寺前駅付近
最寄り駅だが、案内図がないのでここからの道順は分かりにくい
月の輪大橋から見た阿武隈川
ここから少し下流に月の輪の渡しがあった
福島は城と阿武隈川の舟運で発展した町である。福島城の南西側の阿武隈川一帯は、年貢米を江戸や大阪に運ぶため集積地で、舟積み河岸でもあった。付近一帯には藩などの御蔵が建ち並んでいた。この地域は、現在でも御倉町と呼ばれている。ここに旧日本銀行福島支店長役宅が昔のままに残されている。公開されているので立ち寄った。この建物の裏手の川岸は昔は船着場になっていた。
市街地の北側に、信夫(しのぶ)山という福島のシンボルとなっている山がある。標高は272mで、山からの市内の展望がすばらしいし、頂上の羽黒山神社には「日本一の大わらじ」が奉納されているというので、ちょっと寄り道してこの山に登ることにした。
平和通りを少し戻って右に曲がり、国道13号線をまっすぐに進む。国道は信夫山をトンネルで越えるが、その手前の福島TVの付近から山に登る道があるので、これを登ってゆく。山には自動車の周遊道路が走っており、歩行者も気軽に歩くことができる。途中、展望が開け市街地を望める場所があった。
福島駅界隈(福島県庁・福島城跡、旧日本銀行支店長役宅、信夫山・羽黒神社)
福島駅東口前の道を少し郡山方向に戻ると平和通りという広い通りに出る。これをまっすぐに行けば県庁、国道4号線方面に出る。現在の福島県庁の場所にはかつて福島城があった。東と南を阿武隈川で固めた平城で、文禄年間(1592〜96)に築かれた。芭蕉が訪れた当時は堀田正虎が城主だった。元禄15年以降は板倉家三万石の居城となり、幕末まで続いた。現在は県庁の大きな建物が建っており、城の遺構はまったく見られない。
役宅裏手の阿武隈川
この付近には、かつて船着場があり、川岸には御蔵が立ち並んでいた
旧日本銀行支店長役宅
東北ではじめて設置された日本銀行の支店長役宅で、平成12年に歴史的遺構として福島市が取得し、一般公開されている
要所には案内標識があるので、羽黒神社を目指して進む。30分くらい山道を歩いて羽黒神社に着いた。階段を登ってゆくと正面に本殿がある。さて、大わらじは?と思って左を見ると、あった!わらじが天を突くばかりに聳えたっている。長さ12m、幅1.4m、重さ2tもあるという日本一の大わらじだ。
日本一の大わらじ(左)と羽黒神社(右)
この「大わらじ」は、羽黒神社の例祭「暁参り」(2月10,11日)の時に奉納される。重さ2トンもあるという大わらじを約100人で担ぎ上げ、福島駅前など目抜き通りを練り歩いた後、この場所に奉納される。昔あった仁王門の仁王様の足の大きさにあった大わらじを作って奉納したのがはじめとされ、江戸時代から300有余年にわたって続いているという。
阿武隈川を越えて信夫文知摺(しのぶもぢずり)石へ
文知摺石のある場所は、現在文知摺観音堂の境内になっており、拝観料を払って中に入る。入口から少し行った崖の下に石柵に囲まれた大きな石が鎮座している。これが「文知摺石」である。
『みちのくの忍(しのぶ)もぢずり誰ゆえに乱れそめにし我ならなくに』(百人一首)で有名な信夫文知摺石がこれである。「もじずり」は平安貴族も着用し、忍草の葉を布(特に絹)に摺りつけて、もじり乱れた模様を染め出したもの。摺石はそのために用いた。ところが、芭蕉が目にしたものは谷に突き落とされ模様のついた表を「下ざまに伏した」石であった。「さもあるべきことにや」と落胆した芭蕉は、田で早苗を植える乙女の手つきにしのぶ摺の手つきを重ねて、その心を句にした。
『早苗とる手もとや昔しのぶ摺』
文知摺から医王寺・飯坂温泉へ
文知摺石を見物した芭蕉は、阿武隈川を月の輪の渡で越え、瀬上の宿から源義経ゆかりの医王寺に向かった。
文知摺観音から北へ道なりに進んでゆくと、やがて車の多い県道に出る。これをしばらく行き、月の輪大橋で阿武隈川を渡る。芭蕉はこの橋より少し下流の月の輪の渡で川を越えている。橋を渡って、まっすぐに行くとやがて国道4号線に出、これを右に曲がって少し行くと県道153号線が左に分かれてゆく。これは通称米沢道と呼ばれた道で、これをまっすぐに進む。新幹線、高速道路などを越え、やがて福島交通飯坂線の線路にぶつかる。ここから先、医王寺までの道筋は少々わかりにくく、ウロウロしてしまった。医王寺に着いたのは15:30、文知摺観音から約3時間かかった。
医王寺は、信夫郡の庄司(荘園の領主)であり藤原秀衡に仕えていた佐藤基冶一族の菩提寺であった。ここには、源義経に仕えた佐藤継信、忠信兄弟、その父基冶と母乙和(おとわ)の墓がある。基冶は源頼朝の挙兵にはせ参じた義経に、継信、忠信兄弟を従わせた。兄弟はいずれも義経を守って戦死、父基冶も後に頼朝の軍に敗れた。医王寺の墓に手を合わせた芭蕉は、一族を思い涙した。
今年(2005年)は、NHKの大河ドラマでちょうど「義経」をやっていた。芭蕉の旅は義経のたどった跡を訪ねる旅でもあるので、私もこのTVドラマはかかさず見ていた。おかげでこの佐藤兄弟の活躍の場面なども自然に頭に浮かんできて、兄弟の墓前に立ったときには少々しんみりした。
福島城址の石碑
城があったことは、「福島城址」の石碑で分かるのみである。現在は県庁が建っている
信夫文知摺石
想像していた以上に大きな石だ。幅約3m×2m、重さ推定70トンもあるという。谷につき落とすのも大変なことだっただろう
薬師堂と佐藤家累代の墓
薬師堂の裏手に継信、忠信の墓をはじめ父基冶、母乙基晴乙和の墓など累代の墓が並んでいる
医王寺内門と本堂
山門を入ると、本堂へは更に内門がある。本堂の塀に沿って杉並木が続き、その先に薬師堂が建っている
乙和(おとわ)椿の碑
佐藤基冶、乙和夫婦の墓の傍らに数本の椿がある。このうちの一本は樹齢数百年の古木だが、二人の子を失った母の悲しみなのか、毎年つぼみはつけるが開花しないうちに落ちてしまう。これを人々は「乙和椿」と呼んでいる
なかむらや旅館
江戸時代から続く土蔵造りの旅館。建物は国指定の有形文化財に指定されている
鯖湖神社
社の脇にお湯かけ薬師が祀られている。お湯をかけて体の悪いところをなでると快癒するという
福島交通飯坂温泉駅前
駅に着いたのは16:40、辺りは薄暗くなっていた
飯坂駅前の芭蕉像
薄暗くなった空の下で、なんとなく淋しそうに見えた
安洞院多宝塔
文化9年(1812)建立。多宝塔は畿内には多いが関東以北には10棟くらいしかない。これは東北地方唯一のもの