奥の細道歩き旅  須賀川〜本宮
安積山(あさかやま)から本宮(もとみや)宿

日和田宿の町並みを抜けると、少し先に「安積山」がある。現在は、安積山公園として整備されており、丘に登れば東屋などが設けられ憩いの場となっている。
5月1日(陽暦6月17日)、芭蕉は郡山の宿を日の出とともに出立、歌枕の地「安積山」へと急いだ。「安積山」は万葉集や古今集で詠まれている歌枕として有名で、芭蕉はここで「花かつみ」を訪ね歩いている。しかし、芭蕉が訪れた元禄時代には、もう「花かつみ」を知る人はいなかった。芭蕉は本文で次のように記している。
『等躬が宅を出て五里斗(ばかり)、檜皮(ひわだ)の宿を離れてあさか山有。路より近し。このあたり沼多し。かつみ刈る頃もやや近うなれば、いづれの草を花かつみとは云うぞと、人々に尋ね侍れども更に知る人なし。・・・・』

日和田宿の街道風景
街道沿いにはなんとなく旧宿場町の風情が残っている

奥州街道松並木
街道沿いにかつての松並木の名残の松が断続的に現れる

街道脇の道標二基
右、「従是三春道」道標。ここから40mくらい先にあったものをここに移した。文政8年建立。
左、「右奥州街道、左会津街道」道標。大正3年建立。

郡山宿はずれの街道風景
宿場の中心部を過ぎると町並みはやや淋しくなるが商店街はずっと続いている

郡山から日和田、安積山(あさかやま)へ

郡山駅前大通を渡って少し行ったところに古い道標が二つ立っている。一つは「従是三春道」道標で、文政8年(1825)に立てられたもの。もう一つは「右奥州街道 左会津街道」道標で、大正3年(1914)に立てられたものである。宿場時代にはここから少し先が枡形になっていたというが今はまっすぐな道が続いている。街道沿いには次第に古い商店が多くなるが、町並みはずっと続いている。

郡山からの旧奥州街道(陸羽街道)は、県道355号線(須賀川・二本松線)として二本松市まで30Km以上続いている。この間は国道4号線の喧騒から離れ、旧道の雰囲気が残されている。郡山市内を通り過ぎ、日和田に向かう旧道沿いに赤松の並木が断続的に続く場所がある。並木ともいえないほどの本数だが、かつての並木の名残だ。やがて東北本線の線路を陸橋で越えると日和田である。かつての宿場で、街道沿いにはそのような風情が残っている。

郡山駅前の大通り
この道のすぐ先に郡山駅がある。旧道はこの大通りを渡ってまっすぐに進む

郡山宿中心部
この辺が宿場の中心部かどうかは分からないが、街道筋で最もにぎやかな場所。歩行者天国になっている

守山から郡山へ

芭蕉は守山で歓待された後、主人善兵衛に馬をつけてもらい、馬に乗って郡山に向かう。山中、大善寺を過ぎ、金谷で阿武隈川を渡る。現在は金山橋という立派な橋が架かっているが、当時は舟で渡った。橋を渡って少し行くと新幹線のガードをくぐる。そのすぐ先の県道355号線が旧奥州街道である。この後、小原田を経て、郡山宿までは3Kmくらいである。

小塩江(おしおえ)駅付近の水郡線
この付近では走路のすぐそばを線路が走っている。なんとなく懐かしい光景だ

県道141号線の様子
交通量は少ないが、よく整備された道だ

本日は、須賀川から郡山を経て本宮(もとみや)まで歩く。須賀川から郡山までは奥州街道を行けば約8Kmと近いのだが、芭蕉は乙字ヶ滝(石河の滝)を見物した後、いわき街道(国道49号線)に出ている。私は乙字ヶ滝は最初の日にすでに見ているので省略し、阿武隈川を越えた後、国道49号線経由で郡山に向かう。


須賀川市街から阿武隈川を越え守山へ

ホテルを7:30に出発する。土曜日の朝早いので、メイン通りもまだ交通量は少ない。少し歩くと、道の脇にちょっとした休憩コーナーがある。「大町よってけ広場」とあり、ベンチと説明板が立っている。
芭蕉は4月22日(陽暦6月16日)、等躬らの見送りを受けこの「六軒道」を通って名勝・石河の滝(現在の乙字ヶ滝)に向かった。

なお、この広場の一角に、昭和39年の「東京オリンピック」マラソンで銅メダルに輝いた「円谷幸吉」選手の記念碑が建てられている。近くに生家と記念館があるという。

安積山を過ぎると街道の周りは田園風景が多くなり、やがて本宮町に入ってゆく。日和田から本宮までは約8Kmほどある。本宮宿は南町と北町から構成され、本陣があった。街道には「南の本陣通り」の標識が掲げられていた。この宿場も岩城街道、奥州西街道、二本松街道が分岐する交通の要衝となっていた。文政7年、郡山宿と同じく町の呼称が許され桝形も新設された。しかし、その後の発展は郡山とは比べるべくもない。街道から東北本線本宮駅まではすぐである。今日はここまでにして、駅に向かう。本宮駅に到着したのは17:05だった。ここから電車で郡山まで戻り、ホテルに着いたのは17:40だった。

旧奥州街道の様子
小原田付近で東北本線の踏切を渡る

金山橋で阿武隈川を渡る

田村神社本殿
坂上田村麻呂を祭神とする神社で、芭蕉も参詣している。本殿は江戸初期の再建で、郡山市の重要文化財に指定されている

国道49号線守山付近の様子
この道は、かつての岩城街道で、このあたりに守山宿があった。芭蕉はここで歓待された

やがて県道は国道49号線に合流する。この国道はかつて岩城街道と呼ばれ、奥州道中から分岐し岩城平城に通じる重要な道だった。現在も郡山市といわき市を結ぶ幹線道路で、交通量も多い。この道をしばらく歩くと守山に着く。かつて守山宿のあったところで、芭蕉はここで馬を下りた。問屋の主人善兵衛に宛てた紹介状を持参していたので、たいそうなもてなしを受けたようだ。曾良旅日記には主人の案内で大元明王(田村神社)などに参詣したことが記されている。
神社に到着したのは11:40。ここから先には弁当を食べられる場所もなさそうなので、ここでコンビニ弁当の昼食とした。

阿武隈川を越えた後は、水郡線沿いの県道141号線を行く。この道は交通量は多くないが、歩道もキチンと整備された歩きやすい道である。水郡線が近くを走っており、時折線路がすぐ側に現れる。単線、非電化の線路は東京周辺ではあまり見られなくなったので、なんとなくノスタルジックな光景だ。線路脇で揺れるススキの穂が印象的だった。

橋の下に広がる田園風景
田園の中を水郡線の線路が走っている。のどかな風景だ

大仏大橋からの阿武隈川の眺め
少し上流に乙字ヶ滝(石河の滝)があるのだが、この辺りではまったく違う顔で悠々と流れている

芭蕉と曾良は、等躬がつけてくれた馬に乗り石河の滝に向かった。私は、滝はすでに見ているので省略して先に進む。広い国道118号線に出てまっすぐに進む。この道は東北自動車道と福島空港を一直線に結ぶ道路で、道幅も広く交通量も多い。この道を通って阿武隈川を渡る。「大仏大橋」という長い立派な橋が架かっている。橋の下には、阿武隈川と田園の中をのどかに走る水郡線の線路が見える。これからしばらくの間、この線路に沿った道を歩くことになる。

旧道はやがて郡山宿中心部に入ってゆく。昔を感じさせるようなものはほとんど見られないが、街道沿いに旅館やホテルがちらほら見られるのは、やはり旧宿場時代の流れだろうか。郡山駅入口に13:45に着いた。今日の宿は郡山駅近辺のホテルを予約しており、ここから近いのだが、まだ時間が早いので、先を続けることにする。
芭蕉は郡山宿に午後5時頃に到着し、ここに1泊している。当時の郡山宿は宿駅の整備が始まったばかりで、旅籠などもあまりよくなかったらしい。曾良旅日記には「宿ムサカリシ」と記されている。

安積山公園の路傍に明治天皇御駐輦跡碑が建っている。明治14年東北、北海道巡幸の折にここで休憩された。また、かつてこの場所には姉ヶ茶屋という茶屋があり、各藩が参勤交代で通過の祭にはこの店を休憩所にしていたという。きなこ餅などが名物だった。
その少し先に「山の井清水由来」という説明板が立っている。曰く『いにしえよりあさか沼に向かいて立つこの山を安積山(あさかやま)と称し、また、その山すそより湧き出る一条を山の井の清水と呼ぶ。日和田の人々昔をしのび、この清水の保全を計る』とある。この清水はここから90m下ったところにあるという。
『安積山かげさえ見ゆる山の井の あさき心をわが思わなくに』 (万葉集)
安積山公園A
現在の安積山は公園として整備されており、坂を登ってゆくと気持ちのよい広場なっている
安積山公園@
ちょっとした山になっており、この付近には沼が多かった。歌に詠まれた「花かつみ」を求めて、芭蕉はこの付近を探し歩いた

山の井清水説明板の立っている辺り
この付近に山の井清水があったという

明治天皇御駐輦跡(安積山)
明治14年の東北・北海道巡幸の折、ここで小休止された。かつてここには茶屋があり参勤交代の殿様もここで休憩したという

総行程  約40Km


  


南の本陣通り
本宮宿は南町と北町から構成され、本陣があった。主要街道が分岐し、交通の要衝でもあった
現在は静かなたたずまいである

本宮町へ入る手前の街道風景
安積山を過ぎると街道の周りは田園風景が多くなる。いかにも旧街道的な道をタンタンと進む

奥の細道歩き旅 第2回