六田の宿跡
渡し場の近くは修験者、吉野山の花見客、吉野川を下る筏業者などで賑わった。現在でも少し面影が残っている

柳の渡し跡
かつてこの辺りには「柳の渡し」といわれる渡し場があった。大正8年(1919)にその場所に美吉野橋が架けられた

吉野の山を西行庵、奥の千本へ。帰路は如意輪寺を経て吉野駅まで

如意輪堂
楠木正行の辞世の歌を刻んだ板が今も保存されているという

如意輪寺山門
門前に中千本近道と書いてある。普通はこちらの山門ではなく、中千本公園に通じる道を通ってくることが多いようだ

如意輪寺へ
西行庵からは、苔清水へは降りないで別の道で元の道に戻る。これから先は往路と同じ道を竹林院付近まで一気に下る。三叉路を右に曲がり、車の通る一般県道を通って如意輪寺に向かう。この道を20分くらい歩いて、如意輪寺に着いたのは15:20頃だった。
山門から坂道を下ってゆくと、本堂(如意輪堂)がある。「太平記」には、1347年、楠木正行が四條畷出陣の際に一族とともに参詣し、壁板に辞世の歌を刻んだと記されており、今もその板が宝物殿に保存されているという。背後の塔尾山の山腹には後醍醐天皇の塔尾陵がある。

高城山頂上からの風景
すぐ近くにサクラが生い茂っており、遠くの展望も良い。頂上は広く、立派な休憩所が建っている

高城山付近の山道
金峰山神社への道からはちょっとそれるが、ほんの一登りで山頂に出ることができる

吉水神社から上の千本まで
吉水神社を出て元の道に戻ると、その向かい側に東南院がある。この境内に芭蕉句碑があるということだが、残念ながら見逃した。ここに立っている句碑は「野ざらし紀行」に出ている次の句である。

 『 ある坊に宿をかりて
       碪(きぬた)打ちて我にきかせよや坊か妻   』
     
(季語は碪で秋。「み吉野の山の秋風さ夜ふけて故郷寒く衣打つなり」 新古今 藤原雅経)

芭蕉は吉野に来てどこかの宿坊に泊まった。吉野にはたくさんの宿坊があり、どこに泊まったのかは今となっては分からない。東南院に句碑が建っているということは、ここに泊まったのだろうか。
東南院の少し先に、勝手神社がある。義経と別れた静御前が追手に捕えられた際に、請われて舞を舞った場所ともいわれるが、平成13年(2001)に焼失してしまった。私が訪れたときには、「境内危険 立入禁止」の立札が立っていた。さらに行くと、喜蔵院、桜本(さくらもと)坊などが続くがいずれも寺院とともに宿坊を兼ねている。その先に竹林院という寺院があり、群芳園という庭園がある。竹林院の先で道は二手に分かれるが、これを左に少し行くと三叉路があり、上の千本方面はこれを右に登ってゆく。これから先の道は結構きつい登り坂になる。車も通る道だが、シーズン中はマイカー規制しているようで、車はほとんど通らない。歩いている人も、ハイキングの服装、装備をした人が目につくようになる。

野ざらし紀行・畿内行脚

今日(4月21日)は、吉野の山を下千本から上千本、奥千本まで、サクラを訪ねる旅となった。芭蕉も訪れた西行庵まで行って引き返す。帰路は少しコースを変え、如意輪寺を経て近鉄吉野駅まで歩く。全行程約25Km程であるが、ほとんどが山道である。


近鉄下市口駅から吉野川左岸を通って吉野神宮まで
この日は、名張発6:42発の電車に乗り、近鉄吉野線の下市口駅に着いたのは8時少し過ぎだった。駅前の道をまっすぐ南に進んでゆくと、吉野川にかかる千石橋に出る。この橋は昨日歩いた国道309号線が通っている。私はこの橋を渡り、吉野川の左岸を通って吉野に向かうことにした。橋から眺める吉野川は大きな川である。なお、吉野川という名称は奈良県内での呼び方で、和歌山県に入ると「紀ノ川」と呼び名が変わる。河川法上の名称は「紀の川」である。

如意輪寺をざっと見学したあと、元の道に戻り先を続ける。バスも通る道で、バスが何台か追い抜いてゆく。約1時間ほど歩いて近鉄吉野駅に着いた。はじめの予定では、このあと大和上市駅まで歩くつもりだったのだが、今日の行程は吉野駅で打ち切ることにした。吉野駅に着いたのは16:20頃、16:36発の電車で帰途についた。

奥の千本A
サクラも見ごろで、ここまでやってくるハイカーの数も多い

奥の千本@
西行庵付近より周辺を望む

西行像
西行庵の中に安置されている

西行庵
西行は俗塵を避けてここに3年間幽居したという

芭蕉句碑
下の石に「苔清水」、上の石に芭蕉の句が刻まれている

苔清水(とくとくの清水)
今は樋がもうけられ、手にすくうこともできる。冷たい水である

苔清水 (とくとくの清水)
金峰山j神社を出ると道は細くなる。この道は大峰奥駈道になっており、いろいろな道標が立てられているので、それに従って西行庵に向かう。西行庵が近づいたところで、とくとくの清水への案内が出てきたので、まずはそちらに向かって坂を下ってゆく。坂を下りきったところに、苔むした岩の間から清水が流れ出している。これが苔清水、一名「とくとくの清水」である。途中で樋がつけられ、水に触れることもできる。とてもつめたい水だった。

「野ざらし紀行」で芭蕉は、次のように記している。
『西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計(ばかり)わけ入ほど、柴人のかよふ道のみわづかに有て、さがしき谷をへだてたる、いとたふとし。彼とくとくの清水は昔にかはらずとみえて、今もとくとくと雫落ける。
     露とくとくこころみに浮世すヽがばや  』
     
この句は西行法師の、『とくとくと落つる岩間の苔清水 くみほすほどもなきすまひかな』、を踏まえた作である。芭蕉句碑が清水のすぐ近くに建てられている。

金峰山神社本殿

金峰山神社境内の様子

金峰山神社
高城山でゆっくりと休憩し、また、元気に歩き始める。元の道に戻り、さらに山道を進むと金峰山神社に着く。境内は平坦で結構広い。この神社は吉野山の総地主の神で、古くから信仰を受けてきた延喜式内社である。
この神社の社頭に芭蕉の句碑があるということだが、残念ながらこれも見落とした。今回の旅はどうしてもサクラの方に目がいってしまい、句碑のほうがおろそかになってしまった。句碑に刻まれているのは、次の句である。
     
        木乃葉散桜は軽し桧木笠  

真蹟懐紙の前書に、『 晩秋桜の紅見みんとて吉野の奥に分け入り侍るに藁沓(わらくつ)に足痛く杖を立ててやすらふ程に 』とあり、この句は「野ざらし紀行」には見えないが、このときの作のようである。

高城山
水分神社から先は、狭い山道になり登りが続く。途中、左手に高城山への案内標識があるので、そちらに進む。山頂には立派な休憩所があり展望もよい。付近に咲くサクラもちょうど今が見ごろである。南北朝時代、ここに城が築かれたというが現在その跡は見られない。山頂に着いたのが12:30頃、ちょうどよいのでここで昼食にした。

水分(みくまり)神社
世尊寺跡の展望台からさらに坂道を登ってゆくと、水分(みくまり)神社の赤い鳥居と大きな楼門が見えてくる。楼門をくぐると回廊となり、拝殿、本殿と続く。現在の社殿は慶長9年(1604)豊臣秀頼による再建で、本殿、拝殿、楼門、回廊、幣殿からなり、華麗な桃山建築を伝えている。

一目千本(中の千本)
吉水神社付近からの眺めは「一目千本」といわれ、かつて太閤秀吉はここで大花見会を開催したという。下のほうはおおかた葉桜になっていたが、上のほうはまだまだ花盛りのようだ

吉水神社書院付近の様子
元は吉水院といい、義経と静御前らの吉野逃避行の潜伏先、後醍醐天皇による南朝の仮御所など悲劇の舞台となった。現存する書院は初期書院造りの代表的なものとされている(国重要文化財指定)

千石橋より吉野川下流方面を望む
少し下流で「吉野川分水」を分流し、導水トンネルを通して奈良盆地に水を供給している。1953年に工事が始まり、3年後に完成した

千石橋南詰付近
橋を渡ると下市町に入る。まっすぐ行くのが国道309号線で、天川を経て熊野方面に向かう

千石橋を渡り、吉野川左岸に沿った県道を上流に向かって進む。この道を1時間ほど歩くと、美吉野橋という橋がある。この辺りは「柳の渡し」といわれたところで、吉野川の渡河地点として古くから開けた場所である。古くは「六田の宿」と呼ばれ、大和平野や大阪、和歌山方面からの修験者や、吉野山への花見客で賑わい、宿屋や茶店が建ち並んでいた。現在でも、このあたりの街道沿いには、かつての賑わいの面影が残っている。
なおも川沿いの県道を行くと吉野大橋に出る。吉野山観光に出かけるマイカーや観光バスがこの橋を利用して入ってくるため、これから先は車が多くなる。

吉野神宮、村上義光(よしてる)公の墓
吉野警察署の少し先で右に曲がり、いよいよ登り道になる。坂道を10分くらい登ると吉野神宮の大きな石標と鳥居が見えてくる。道路際から続く玉砂利の参道を進む。参道を歩く人の姿はほとんど見られない。本殿に近づくと、ようやく参拝客がちらほら見られるようになった。かつては官幣大社として賑わったのであろうが、現在はさびしい状況である。
吉野神宮を出て再び県道を登ってゆくと、村上義光(よしてる)公の墓という案内がある。これにしたがって坂を登ると、石垣に囲まれた宝筐印塔が建っている。護良親王の身代わりとなって果てた村上義光の墓である。

下の千本
村上義光公の墓の少し先で車は通行止めになる。観光バスもマイカーもすべてここでストップである。駐車場には観光バスがたくさん駐車している。ここから先は歩行者の数が急に多くなる。昔は七曲といわれる急坂をこの辺りまで登ってきた。この七曲の坂一帯に植わっているサクラが下の千本で、一目千本という眺めもこのあたりのことをいった。昔はこの七曲の坂で子供たちがサクラの苗木を売り、参詣者は蔵王権現に供えるためにこの苗木を買い求め、それを植えたという。

下の千本
この辺りは3月末から4月始め頃が見ごろだったのだろう。吉野のサクラは、ここから約1ヶ月かけて上の千本、奥の千本へと咲きのぼってゆく

金峰山(きんぷせん)寺

吉野ロープウェイの吉野山駅を過ぎると、道は大変混雑してくる。道の両側には土産物屋なども建ち並び賑やかになる。やがて、参道に黒い大きな門が見えてくる。この門は黒門といい、金峰山(きんぷせん)寺の総門で、いうなれば吉野一山の総門でもあるという。さらに少し行くと大きくて重量感のある鳥居が見えてくる。これは銅鳥居(かねのとりい)といい、創立年代不詳だが、俗に聖武天皇の東大寺大仏建立の余銅をもって造立されたとの伝承がある。現在のものは1711年に再建され、銅製の鳥居としては日本最古のものだという。
吉水神社、中の千本
蔵王堂の二天門跡の階段を下り、土産物屋などが建ち並ぶ道を吉水神社に向かう。この神社は元は吉水院といい、吉野の歴史の中に何度か現れる。まず文治元年(1185)、源義経が兄頼朝の追討の手を逃れて静御前、弁慶らとともにここに身を隠した。また、延元元年(1336)には、京を逃れた後醍醐天皇が吉水院宗信の援護のもとにここを行在所とした。南朝の皇居は最初、ここにあったのである。下っては文禄三年(1594)太閤秀吉がここで大花見会を催し、天下にその権勢を示したことでも有名である。
秀吉が花見の宴を開いたことでも分かるように、この神社付近からのサクラは「一目千本」といわれる。吉野では中の千本といわれる地域である。

さらに行くと仁王門があり、石段を登ってゆくと奥に大きな本堂・蔵王堂の建物が見えてくる。国内では東大寺大仏殿についで2番目に大きい木造建築物だという。蔵王堂は、吉野・熊野修験道を総括する修験道場金峰山寺のシンボルである。
蔵王堂は南向きに建てられているが、仁王門は北向きに建てられている。すなわち、仁王門から入ると本堂の裏側に出るのだ。かつては南向きに「二天門」という門があり、こちらのほうが正面だったようだ。
この二天門跡と本堂の間の間に「大塔宮御陣地跡」という石標が建っている。ここは元弘三年(1333)、後醍醐天皇の第二皇子、大塔宮護良(もりなが)親王が、北条幕府の大軍に攻められて、吉野山に立てこもったときの陣地跡であり、ここで最後の酒宴を開いたところいう。この酒宴も終わり、いざ決戦というときに大塔宮家来の村上義光が、宮の鎧兜を身に着けて、その身代わりとなって二天門上に駆け上り、腹一文字にかき切って壮烈な最期を遂げた。大塔宮はこの隙に、無事高野山に落ち延びることができたという。『 歌書よりも軍書に悲し吉野山 』とうたわれる吉野山の、悲劇的な歴史の1ページがここにうかがえる。

二天門跡より本堂・蔵王堂(国宝)を望む
金峰山(きんぷせん)寺の本堂。重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34mの建物。堂内には金峰山教塚出土品(国宝)など多くの寺宝が陳列されている

仁王門 (国宝
蔵王堂は南向きに建てられているが、この門は北向きに建てられている。かつては南向きの門がもう一つあったという

上の千本、世尊寺跡、吉野山からの遠望

やがて、「横川の覚範の首塚」という説明板が現れる。吉野の山に逃げ込んだ義経が吉野の豪僧・横川の覚範に追われたが、家来の佐藤忠信がこの付近で防戦し討ち取った。その間に義経は無事逃げ切ることができたという。首塚の説明板によると、「この辺の上下が上の千本で、俗に滝ざくらといわれているところです。花の盛りに下のほうから見上げると、あたかも花の滝がたぎり落ちるように望まれることから、こう名づけられたのでしょう。」と書かれている。滝のように見えるかどうかは別として、たしかにこのあたりのサクラはすばらしい。頭上に覆いかぶさるように咲いているところもある。上の千本は、今が見ごろである。

吉野山とサクラ
吉野山は一目千本といわれるサクラの名所である。山麓の下千本から山頂付近の奥千本まで約1ヶ月かけて見事な景観を織りなす。吉野山のサクラの数は定かではないが、ほとんどがシロヤマザクラで、その品種は50種類を越えるともいわれている。
7世紀末、役小角(えんのおづぬ、役行者)が金峯山で難行苦行の末、感得した蔵王権現の尊像をサクラの木で刻んで本尊にしたという言い伝えから、行者たちはサクラ材で権現像を彫り、これを祀るようになった。やがて、桜木は神木化され、土地の人々や修験者たちは、サクラの枯木、枯葉といえども薪にさえさせず、吉野山のサクラを保護した。また、祈願者が山麓で苗木を買い、寄進、植樹する風習も生まれた。
山深いところにあり、湿気が多いためか、サクラは70年くらいで枯れることが多く、現在も毎年新たに植樹したり、接木をしたりして吉野のサクラを保護する努力がなされている。

上の千本風景A

上の千本風景@
サクラの並木道を5、6分登ってゆくと、世尊寺跡という場所がある。説明板によると、明治8年に廃仏の難にあい、その後焼失して廃寺となった跡だという。ここには茶店もあり一休みもできる。ここからの眺めは大変よい。遠くはやや霞んでいるが、西の方角に葛城山、金剛山の山並みが見える。東から西に吉野川が流れ、一部ちらりと見える。これまで歩いて来た吉野山の町、その中で一段と大きく見える建物は金峰山寺蔵王堂である。

吉野山からの遠望
この付近の標高は約590m、遥か下のほうに垣間見ることのできる吉野川からは、ほぼ400mの標高差がある。正面遠くに見えるのは竜門山塊、左手(西)の遠くには葛城山、金剛山などの山並みがかすんで見える。写真中央の吉野山の町並みの中でひときわ高久聳え立つ建物が金峰山寺本堂蔵王堂である。「春の花見客の多くは、中の千本辺りまで来て帰ってしまいますが、本当の吉野山のよさは、ここまで登ってきて、さこそとうなずけるのです。」と近くの説明板に書いてあった

水分神社本殿
本殿は正面奥に建っている。三つを1棟に連ねた三社一棟造りという独特の神社建築である

水分神社回廊付近
建物は桃山建築を伝える華麗なものである。庭の中央に大きなサクラの木があり、今を盛りとばかりに咲いていた

村上義光公の墓
村上義光は早くから護良親王に従って北条幕府と戦ったが、吉野城が落ちたとき親王の身代わりになって腹かき切って果てた

吉野神宮社殿
主祭神は後醍醐天皇である。明治25年に社殿が完成し、吉水神社から後醍醐天皇像が移された。明治34年には官幣大社に昇格した

銅鳥居(かねのとりい
創立年代不詳だが、1711年に再建されたことは記録に残っており、銅製の鳥居としては現存する最古のものである

黒門
金峰山というのは吉野山から大峰山に至る峰続きを指し、修験道関係の寺院塔頭が軒を連ねていた。それらの総門がこの黒門だった

西行庵跡、奥の千本
とくとくの清水を見たあと、坂を登って西行庵に向かう。坂道を登りきると平坦な場所に出、そこに小さな建物が建っている。これが西行庵跡である。西行は俗塵を避けてここに3年間幽居したという。建物の中には西行の像が安置されている。
西行庵の建っている辺りのサクラを奥の千本という。きょうは土曜日で天気もよく、このあたりのサクラもちょうど見ごろということで、ここまでやってくるハイカーの数も大変多い。このサクラを見ることができて、私も苦労してここまで歩いて来た甲斐があったというものだ。