綿弓塚
正面に「綿弓塚」、右側に「綿弓や琵琶に慰む竹の奥」、左側に「文化第六己巳十月高田紅園愚公建之」と刻まれている

竹内の里(綿弓塚看板のある辺り)
看板の出ている家は千里(ちり)の旧居跡。この建物は現在、芭蕉や竹内村、街道などの姿を伝える休憩、展示館として利用されている。綿弓塚はこの建物の裏手にある

伊麻は独身を通してひたすら父への孝養を尽くし、「今市物語」として広く世に伝えられたという。伊麻の親孝行の話は、芭蕉も千里から聞き、元禄元年に再び千里宅を訪れた際には伊麻にも会って、その親を思う心にこの上もなく感激し、「よろずのたつときも、伊麻を見るまでの事にこそあなれ」(貴重なものを数多く拝観したが、結局この竹内訪問は孝女伊麻の姿を見れば足りる旅であった)と友人に手紙を送っている。
案内板を過ぎてしばらく行くと現徳寺というお寺があり、その横を少しに西に入ったところに「孝女伊麻の史跡」がある。ちょっとした公園になっていてここに「孝女の碑」が建てられている。伊麻の生誕の地に天保11年(1840)に建てられた。

うなぎと伊麻 
昔、悪病が流行したとき、うなぎを食べると早く治るとされていました。親孝行な伊麻という娘の父が病気になったとき、弟と二人でうなぎを探しましたが見つかりませんでした。その夜、水がめの中から音がするので、火を灯して見ると大きなうなぎが泳いでいました。早速料理して父に食べさせるとたちまち病気が回復したと伝えられています。

孝女伊麻の話
長尾街道を南に進んでゆくと磐城小学校がある。ここに「うなぎと伊麻の像」があるというので校門から中を覗き込んでみたが、分からなかった。近頃は防犯上から学校の門は閉められており、あまりじろじろ中を覗き込んでも不審者に間違えられそうなので、ざっと見て通り過ぎた。少し先に葛城市南今市案内板があり、大きな地図と歴史遺産や名所の説明が書いてある。その中に次のような説明があった。

孝女伊麻の碑
孝女伊麻史跡広場のなかに玉垣に囲まれて建っている。伊麻は芭蕉と同時代の女性で、実際に会って話を聞いており、その孝養ぶりに芭蕉もいたく感激している

葛城市立磐城小学校
学校の中に「うなぎと伊麻」のブロンズ像が建っているというので中を覗き込んだが、分からなかった

JR掖上(わきがみ)駅
小さな駅だが、駅前に大きな御所市観光案内図が立っている。この辺りからウォーキングを始める人も多いのだろう

県道118号線が133号線に変わる辺り
前方に見える山地には古墳や天皇陵などが多く、墳墓地帯となっている。この山の麓を曽我川に沿って古代の道が通っていた

葛村道路元標
このような元標が残っているので、昔の葛村は大きな村だったのだろう

戸毛の街道筋の様子
この辺りは大坂方面からの道と飛鳥方面からの道が合流したので、昔は旅人も多く賑わったのだろう。街道筋には面影が残っている

当麻寺、竹内から巨勢道を経て下市口まで

今日は大和高田市から国道166号線を通ってまず当麻寺に行き、そこから芭蕉の「のざらし紀行」の同行者・千里(ちり)の故郷竹内の里を訪れる。ここで千里の旧宅跡と芭蕉関連の綿弓塚を見物する。ここから新庄、御所(ごせ)を経て、万葉に歌われた巨勢(こせ)へ。そこからさらに近鉄吉野線下市口駅まで全体で約30Km歩く。


大和高田から当麻寺まで
名張駅発7:24の電車に乗り、高田市駅に着いたのは8:15頃だった。今日はここから歩きはじめる。駅前の道をまっすぐ北に進み、しばらく行ってから左に曲がる。これは国道166号線である。この道を西にまっすぐに進んでゆくと、やがて葛城市に入る。この辺りからは二上山や葛城山系の山々が近くに見えるようになる。私はまず二上山の麓にある当麻寺を訪れ、そのあと千里の故郷、竹内の里へ向かうことにしている。


当麻寺(たいまでら)

国道166号線の長尾信号で右に曲がり、道なりにまっすぐ進むと近鉄当麻寺駅に出る。駅から15分くらい歩いて、当麻寺仁王門前に9時頃着いた。
仁王門の石段を登って境内に入ると境内は大変広い。当麻寺は二上山の麓に広がる静かなお寺である。その歴史は古く、開基は聖徳太子の異母弟麻呂古王とされるが草創については不明な点が多い。歴史が古いだけに、国宝、重要文化財などの文化財の数も多い。平安時代初期建立の2基の三重塔(国宝)があり、古い東西両塔が残る日本唯一のお寺としても知られている。また、中世以降は中将姫伝説と当麻曼荼羅の寺として知られるようになる。
芭蕉は貞享元年(1684)の「野ざらし紀行」のおりに、このお寺に詣でている。「野ざらし紀行」本文には次の文と句を載せている。

    『二上山当麻寺に詣でて、庭上の松を見るに、凡(およそ)千とせもへたるならむ。・・・

        僧朝顔いく死かへる法(のり)の松 』

芭蕉の訪れたときには大きく茂っていたという松も、現在では枯れてしまい見ることはできない。

吉野口駅から下市口駅へ
吉野口駅付近を出発したのが16時過ぎ。駅前から旧道を少し行ったあと新しい国道309号線に出て、あとはこの国道をひたすら歩く。近鉄下市口駅まではあと6km位である。国道沿いにはあまり見るものもないので、道路標示板のみを頼りに歩き続け、下市口駅に着いたのは17:30頃だった。ここから17:52発の電車で帰途についた。

竹内の里、綿弓塚

国道166号線に並行して南側に竹内街道の旧道が残っている。国道を登ってゆくと少し先で旧道と合流する。私は、ここから旧道に入って竹内集落に下ってゆく。この辺りは結構急な坂道であるが、道の両側には民家が建ち並んでいる。
竹内街道は、ちょうどこの竹内の里辺りから登り道になり、少し先で竹内峠を越える。飛鳥に都のできた頃、この峠道が官道として整備された。横大路と結んで大和と河内、難波方面を結ぶ重要な道であり、実質的には官道(国道)1号線であった。中世以降になっても大阪方面から伊勢参りをする人や、当麻寺に参詣する人々で通行は多かった。
竹内の里は、芭蕉の門人千里(ちり)の郷里で、芭蕉は貞享元年(1684)秋、千里の案内でこの地を訪れ、数日間竹内の千里宅に滞在している。このときに詠んだ句が「野ざらし紀行」に載っている次の文と句である。

 『大和の国に行脚して、葛下(かつげ)の郡(こおり)竹の内と云う処は彼ちりが旧里なれば、日ごろとどまりて足を休む。

     わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく    』

 綿弓のびんびんはじく音が聞こえてくる。綿弓の音を琵琶の音と聞き、旅情を慰める竹敷の奥の閑雅な住まいよ。
 綿弓は繰り綿を打ち、柔らかにする小弓で、秋の季語。(芭蕉文集 完訳日本の古典55 小学館より)


旧道を歩いてゆくと、やがて大きな「芭蕉ゆかりの綿弓塚」と書かれた看板が見えてくる。矢印に従って建物の脇を入るとすぐ先にちょっとしたスペースがあり、「綿弓塚」と書かれた大きな碑が建っている。この碑は、芭蕉の没後115年を経た文化六年(1809)十月に建てられたものである。
道路に面して看板の出ていた家はかつて千里の生家・苗村家のあった場所で、現在は休憩スペースと芭蕉や竹内の里に関する情報が展示されている。

千里(ちり)の故郷竹内の里へ
仁王門を出たところに案内表示板が立っている。まっすぐ行くと当麻寺駅、左に行くと二上山登山口、右に行くと史跡の丘を経て竹内街道、綿弓塚方面とある。これにしたがって右に曲がる。のんびりと歩いてゆくと、途中に「芭蕉の小径」という案内板が立っていた。また、この辺り一帯には古墳が散在しており、史跡の丘として整備されている。案内標識に従い道なりに進んでゆくと、やがて国道166号線に出る。

当麻寺本堂(国宝)
当麻寺は、中世以降は中将姫伝説と当麻曼荼羅のお寺として知られるようになる。中将姫が織り上げたという伝説のある当麻曼荼羅はこの本堂に安置されており、当寺のご本尊となっている

当麻寺西塔(国宝)
東塔より少し遅れて平安初期の創建と推定される

当麻寺東塔(国宝)
奈良時代末期の創建と推定される三重塔

柿本神社
新庄駅のすぐ近くの林の中に柿本神社があった。鳥居の脇に比較的新しい「柿本神社」の標石ガ建っている。この神社と同じ境内に「柿本山影現寺」というお寺があり、こちらの本堂、鐘楼なども近くに建てられている。
社殿の左方の奥に柿本人麻呂の墓というのがある。石の玉垣に囲まれた中に自然石の中央を長方形に切り取って「柿本太夫人麻呂之墓」とある。天和元年(1681)の建立だという。また、その近くの大きな石に人麻呂の歌を雄渾な文字で彫った歌碑が建っている。

     『春柳かつらぎ山にたつ雲のたちてもゐても妹をしぞ思ふ』 (巻十一、二四五三)

説明板が近くにないかと探したのだが、その類は一切何もなかった。柿本人麻呂は大変謎の多い人物で、その生誕地も生没年も不明なほどだ。このあたりの言い伝えでは、人麻呂が石見で死亡したあとこの地に改葬し、神社を建てたということらしい。
大和には、このほかに檪本の和爾下神社にも人麻呂の墓と歌塚が建てられており、私も旅の後半でここを訪れている。

巨勢の道を行く
掖上駅からしばらくの間、線路沿いの明るい道を進んだ後、道は立派な蔵造りの家が建ち並ぶ一角に出る。しばらくこのような家並みが続いた後、またのどかな田舎道になる。この辺りは両側に低い山が連なる谷筋となってくる。やがて道は丁字路となり、ここで左に曲がる。この道は国道309号線だが、別に新しいバイパス道路ができているので、この辺りを通る車は少ない。

野ざらし紀行・畿内行脚

竹内の里から竹内街道旧道を通って長尾まで
芭蕉は千里宅に数日間滞在した後、吉野山に向かう。吉野までどのような道をたどったのかは分からないが、ここからは一人旅である。私も、「歩いて旅した野ざらし紀行」に基づいて、ここから吉野を目指す。
綿弓塚と展示館を見学した後、再び竹内街道の旧道に戻り先を続ける。道はゆるい下り坂で、ほぼ一直線に続いている。両側の家はすっかり新しい建物に変わっているが、道は統一したカラー舗装で、所々に「竹内街道」という表示板が立っている。約1Kmほど進むと道の脇に「竹内街道」の新しい大きな標石が見えた。標石の上部に道路略図があり、まっすぐ行くのが竹内街道、右(南)に曲がるのが長尾街道となっている。竹内街道の旧道と長尾街道の旧道がここで交差したようだ。すぐ脇に古い道標も建っている。私はここで右に曲がり南に向かう。

南今市から新庄へ
伊麻史跡公園の辺りは南今市という。この辺り、少々道が分かりにくいのだが、公園を出た後とにかく南に向かって歩いてゆく。右手には葛城山系の山々が近くに見える。やがて南阪奈道路にぶつかるので、これを左(東)に曲がってまっすぐゆくと近鉄御所線の線路に出る。この線路に沿って南に歩いてゆくと、やがて新庄駅付近に出る。この駅のすぐ近くに柿本神社というのがあるので立ち寄った。

南阪奈道路を望む
南に向かって歩いてゆくと、南阪奈道路が見えてくる。この道路にぶつかったら左に曲がり、まっすぐ行けば近鉄御所線が走っている

南今市付近から葛城山系を望む
付近にはレンゲ畑が広がり、西方には葛城山系の山々が近くに望める

新庄から国道24号線を通って御所(ごせ)市、鴨都波(かもつば)神社へ
新庄駅前の踏切を渡り、東にまっすぐ行くと国道24号線に出る。これからしばらくの間はこの国道を歩くことになる。この道は御所市、五條市などを経て和歌山市まで続いており、さすがに交通量は多い。近鉄の御所(ごせ)駅前を過ぎてしばらくすると、国道の脇に鴨都波(かもつば)神社の鳥居が見えてくる。鴨都波神社の境内は大変広く、こんもりとした森に囲まれている。時計を見ると13時を過ぎている。ちょうど良いので境内の木陰で昼食にした。
鴨都波神社は、6Km先にある高鴨神社に対して下鴨社ともいい、鴨族の発祥地としてこの地方を治め、全国に分布する鴨社の源だという。

国道309号線は、大坂方面から金剛山地を越えてここまで通じている。この辺りは戸毛集落といい、ここでこの大坂からの道と飛鳥方面からの道が合流するので、吉野詣での人々などで賑わっのだろう。現在でもこの頃の街道筋の面影が残っている。街道の脇に「葛村道路元標」という石標が建っている。この辺りは昔は葛村といったのだ。近くに近鉄吉野線葛駅がある。これは想像だが、芭蕉も吉野への途中、この葛村を通ったのではないだろうか。

巨勢(こせ)寺塔址、阿吽(あうん)寺
街道を歩いていると、巨勢寺跡の案内標識が見えた。これにしたがって進んでゆくと、最後に大きな案内矢印がある。まっすぐに進めというのだが、草が生い茂っていて道らしいものがない。これまで進んできた道をそのまま進めというのだろうと思って歩いていったのだが、それらしいものが見えてこない。仕方ないので人に聞いてみると、先ほど見た草むらの中をまっすぐに進めと教えてくれた。教えられたとおり進んでゆくと、少し先にちょっとした広場があり、説明板が立っている。そこはJRの線路と近鉄の線路にはさまれた、三角形の本当に狭い場所である。ここに「史跡巨勢寺塔址」という大きな石標、小さな大日堂、少し離れて説明板が立てられている。

吉野口駅付近
阿吽寺を見たあと、吉野口駅近くの踏切を渡り旧道に戻る。踏切から吉野口駅の様子が見える。JR和歌山線と近鉄吉野線がここで連絡し、相互に乗り換えできるようになっている様子が分かる。明治中頃この地方に初めて鉄道を敷いたとき、この駅が吉野に最も近かったので、この駅の周りは大いに繁盛したという。その後、鉄道が吉野まで延長されると単なる通過駅になり、町はしだいに寂れていった。駅の周りには当時を偲ばせるあとがわずかではあるが残っている。

鴨都波神社から巨勢(こせ)方面へ
鴨都波神社を出て国道24号線を進み、少し先で左に曲がる。しばらく行くとJR和歌山線の踏切があり、それを渡って少し先で右に曲がる。この道は県道118号線で、あとはこれを道なりに東にまっすぐ進む。やがて前方に低い山の連なりが見えてきて、東に向かってきた道は南に向きを変える。曽我川に沿った道で、古代には飛鳥方面からこの辺りを通って和歌山方面に抜ける道が通っていた。このあたりの地名からその道は巨勢の道と呼ばれた。万葉集にもしばしば登場する名である。
曽我川に沿った県道133号線を少し行くと、JR和歌山線の掖上(わきがみ)駅前を通る。小さな駅だが、駅前に大きな御所市観光案内図が立っている。この案内図に「巨勢の道」「巨勢寺跡」などが描かれている。

国道309号線に合流する辺り
道はここで左に曲がり、すぐ先で曾我川を渡る。これから先はこの国道309号線(旧道)を歩くことになる

のどかな田舎道
車も人もほとんど通らない。左側にJRの線路が見える。しだいに谷筋が狭まってくる

白壁の立派な家が続く道
このあたりの道の両側には立派な土蔵造りの家が続く
近くに近鉄市尾駅1.3Km,葛駅2Kmの案内標識があった

巨勢寺址のある辺りの様子
左に近鉄の線路、右にJRの線路があり、少し先で接近して同じ吉野口駅に向かう。その狭い三角形の場所にある

巨勢寺跡
狭い場所に「史跡巨勢寺塔址」という大きな石標、小さな大日堂、少し離れた場所に説明板が立っている

阿吽寺境内の万葉歌碑
いつ建てられたか確認しなかったが、新しいものだ。すべて万葉仮名で刻まれている
この辺り一帯の山は巨勢山と呼ばれた

阿吽(あうん)寺
巨勢寺の子院として建てられたが、のち衰退していたものを江戸時代始めに再建し、さらに明治時代に再々建、昭和60年に再々々建された
椿の名所として訪れる人も多いという

吉野口駅前の様子
明治中ごろ、鉄道が開通したとき吉野への入口としてこの駅の周辺は大いに繁盛した。その後、近鉄線が延伸され単なる通過駅となり寂れた。賑わった時代の名残が駅前に少し残っている

吉野口駅付近の線路の様子
左が近鉄吉野線、右がJR和歌山線の線路である。吉野口駅で両線は連絡し、相互乗換可能である

当麻寺仁王門
門前には土産物屋や食堂などが並ぶ通りがあり、その突き当たりに大きな仁王門が建っている

当麻寺境内の様子
二上山の麓に広がる静かなお寺である。芭蕉が訪れた頃境内には樹齢千年を越えるかと思われる大きな松があったが、現在では見ることはできない

竹内街道の標石のある場所
ここで竹内街道と長尾街道の旧道が交差したようだ。古い道標も建っている

竹内街道旧道の様子
統一されたカラー舗装で、まっすぐに続いている。国道166号線とは少し離れているが、ほぼ並行している

万葉歌碑
大変雄渾な文字で彫られている。昭和52年4月の建立である

柿本太夫人麻呂の墓
言い伝えでは人麻呂が石見で死去したあと、この地に改葬されたという

柿本神社社殿
「柿本神社」の標石は比較的新しく、裏面には「昭和六十二年十一月吉日」とあった
神社由緒書等説明は一切ない

鴨都波(かもつば)神社
全国にある鴨神社の源だという古社である

国道24号線近鉄御所駅付近
この国道は大和から和歌山方面を結ぶ大動脈である。古道「葛城の道」はこの道の近くを通っていたようだ

付近の写真を撮ったあと、電車に気をつけながらJRの線路を渡る。JRの線路に並行して新しい国道309号線が走っており、その道路沿いに阿吽(あうん)寺がある、と先ほどの人に聞いたのである。それは国道脇の坂道をちょっと登ったところにあった。元は巨勢寺の子院だったが、のち衰退し、現在の建物は昭和六十年に再建されたものである。この辺り一帯は、万葉に歌われた巨勢山である、ということで、このお寺の境内に万葉歌碑が建てられている。これは、万葉仮名で刻まれた歌碑である。

                         坂門人足(さかとのひとたり)
    巨勢山のつらつら椿つらつらに 見つつ思(しの)ばな巨勢の春野を (巻一、五四)
     

巨勢寺跡 (説明板より)
巨勢寺は、子院・阿吽寺の縁起によれば、聖徳太子の創建と伝えられていますが、その草創についての事実はまだ明らかにされていません。「日本書紀」には、686年に初めてこの巨勢寺の名前が見られ、当時の寺院としてはかなり大規模であったと思われます。
その後、平安時代に奈良興福寺の末寺となり、1308年にはそれまで所有していた財産を春日大社に寄進している事から、この頃既に荒廃の一途をたどっていたことがうかがえます。巨勢寺の子院には阿吽寺と正福寺があり、ともに巨勢寺の礎石や古仏像などを今に伝えています。