トンネル出口付近の様子
トンネルを出たところで細峠を越えてきた古い県道が新しい県道に合流している。当初の予定ではこの古い県道で峠を越えるつもりだった

トンネル内部の様子
全長2466m、道幅7m、高さ4.7mの長大トンネルである。歩道、照明設備も申し分なく、歩行者も安心して歩くことができる。徒歩で通り抜けるには30分以上かかる

新鹿路トンネル入口
このトンネルは2003年6月に完成したばかりである。国土地理院発行の5万分の1地図「吉野山」にはまだ表示されていない(最近購入した地図だが、平成7年修正版)

十三重塔(国重文)
室町時代に建てられた木造の十三重塔。高さ17m、屋根は檜皮葺で、平成19年秋に葺き替え工事が完了した

談山神社本殿(国重文)
三間社・隅木入りの春日造りで、朱塗りの上に極彩色の装飾を施す。内部には鎌足の木像を安置する

御破裂山(藤原鎌足墓所)
多武峰の山頂付近にある藤原鎌足の墓所。国家異変の時にはこの山が鳴動し、神社の鎌足像が破裂するといわれた

談山(かたらいやま)
中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足は、この場所で大化の改新の秘策をねったと伝えられる

メスリ山古墳(古墳時代前期の首長墓)

メスリ山古墳 (奈良県教育委員会説明板より抜粋)
西向きで二段築成の前方後円墳。全長約230m、後円部径約120m、前方部幅約80mの規模である。この古墳は古墳時代前期の四世紀のもので、同じ桜井地域の箸墓古墳、桜井茶臼山古墳などの全長200m級の大型前方後円墳と一系列をなすものと位置づけられる。これらの古墳は全国各地の同時期の古墳の中では最大級のものであり、各地の政治集団の連合の頂点に立つ首長墓と考えられている。
野ざらし紀行・畿内行脚

大和上市から多武峰、談山神社を経て桜井へ

談山(たんざん)神社
トンネルを出て県道を進んでゆくと、山間の鹿路(ろくろ)集落が見えてくる。その少し先で、多武峰方面への新しい自動車道が左に分かれてゆく。この自動車道路は、いずれ明日香の石舞台方面とつながるようだが、まだ全通はしていない。談山神社はここで曲がって少し行ったところにある。
県道に沿って寺川が流れており、この川に赤い欄干、屋根付の橋が架かっている。これは談山神社の神域入口にかかる橋で屋形橋という。橋を渡って少し行くと、古い城郭風の門が見えてくる。これは東大門といい、談山神社の表門である。
この神社の建っている辺り一帯の山を多武峰(とうのみね)と呼ぶ。談山神社は明治初年に廃仏毀釈で神社になる前は、多武峰寺と呼ばれる寺院だった。急な坂道を登ってゆくと、あちこちに苔むした石垣が目につくが、これは寺院最盛期の塔頭や僧兵の屯所の跡だという。中世には多武峰寺はたくさんの僧兵を有し、同じ藤原氏の氏寺である奈良興福寺と争いを繰り返していた。

新鹿路(ろくろ)トンネルで細峠を通り抜ける
今回の旅では、私は国土地理院発行の5万分の1地図「吉野山」を携行し、参照しながら歩いたのだが、この新しいトンネルはこの地図にはまだ表示されていない。地図上では、九十九折の急な坂道をかなり登ったところに短いトンネルが表示されているのだが、いま、目の前にはその坂道もなく、いきなり新しいトンネルがはじまっているのだ。
トンネルに入り歩き始めるが、行けども行けども先が見えない。トンネルの途中に距離表示があり、このトンネルは全長2466mの長大トンネルだということが分かった。結局、トンネルの中を30分以上歩いた。しかし、このトンネルは歩道スペースは確保されているし、照明も歩行に差し支えない明るさなので、恐ろしさはない。車が通ると遠くから大きな轟音がするが、交通量はそれほど多くないので問題ない。これで険阻な峠道を越えてしまうのだから文句は言えない。このトンネルが完成していなかったら、倍以上の労力と時間がかかっただろう。ただ、今日の行程のメインはこの細峠越えと思っていたので、拍子抜けというか、ちょっぴり残念な気もした。
トンネルの中で吉野町から桜井市への境界線を越え、トンネルを出たところはもう桜井市になっている。トンネル出口を出て少し先で、細峠を越えてきた古い県道が新しい県道と合流している。

上市から細峠方面へ
桜井方面に行くためには妹山の手前で左に曲がり、北に向かって進む。行く手には竜門岳をはじめとする高い山が立ちはだかっている。かつて、大和から吉野へ出かけるには必ずこれらの山を峠道で越えなければならなかった。上市から桜井方面に出るには、昔は細峠を越えることが多かったようだ。芭蕉も、「笈の小文」の旅の時にはこの「細峠」(
芭蕉は臍(ほぞ)峠と記している)を越えている。現在は、このルートを県道37号線が走っている。県道37号線は谷筋の道で、道沿いには西谷集落が細長く続いている。あまり高低差のないまっすぐな道を進んでゆくと、やがて新しいトンネルの入口が見えてくる。

芭蕉は「野ざらし紀行」の中で、吉野山の西行上人庵跡を訪ねたあと、(如意輪寺の)後醍醐帝の御廟を拝んだ、と記している。そして、このときに詠んだ句、『御廟年経て忍ぶは何をしのぶ草』を最後に、本文では、『やまとより山城を経て、近江路に入て美濃に至る』、と一気に美濃に飛んでしまう。したがって、これから先、芭蕉が美濃までどのようなルートを歩いたのかは明らかではない。

吉野山を下りた次の日、私は近鉄大和上市駅から歩きはじめた。吉野川を少し上流(東)方向に歩いたあと北に進路を変え、桜井に向かう。途中の峠道は、昔は越えるのが大変だったようだが、現在は長い新鹿路トンネルで難なく越えてしまう。峠を越えると談山神社、その先には十一面観音で有名な聖林寺がある。これらを巡って桜井駅まで約22Kmの旅である。


大和上市駅から吉野川沿いに東に向かい、妹背(いもせ)山を望む
名張駅6:57発の電車で、大和上市駅に着いたのは8:30だった。駅前をまっすぐ行くと伊勢街道旧道に出るので、この道を東に進む。吉野川沿いに国道169号線が走り、並行して少し高い場所を旧道が走る。上市の町はこの街道に沿って細長く続いている。
旧道をしばらく歩いたあと、吉野川の河原に下りてみる。上流方向を望むと、左手に小さいがこんもりとした山が見える。これは妹(いも)山といい、吉野川をはさんで対岸にある背山とともに、「妹背(いもせ)山」と呼ばれる。
飛鳥時代、吉野川のさらに上流に吉野離宮があり、歴代の天皇はよく行幸された。万葉歌人たちにとっても、この妹背山はなじみのある山だったようだ。柿本人麻呂に次の歌がある。
   『大汝(おほなむら)少御神(すくなみかみ)の作らしし 妹背の山を見らくしよしも』
この妹(背)山には「妹山樹叢」として原始林が生い茂り、国の天然記念物になっている。その山すそには大名持神社がある。

吉野川河原より上流方向を望む
上流方向を望むと、左手に妹山、川をはさんで右手に背山が見え、あわせて妹背山と呼ばれる
ここからさらに上流6Kmくらいのところに宮滝というところがあるが、かつてここに吉野離宮があったらしい

伊勢街道旧道の様子
国道169号線と並行して旧道が残っている。上市の町は街道に沿って細長く続いている

急な坂道を10分近く登ってゆくと「別格官幣社談山神社」の大きな石標が見える。談山神社は、藤原鎌足を祭る旧別格官幣社である。拝観料を払い境内に入ると長い石段が続いている。この石段を登りきったところに大きな朱塗りの楼門がある。ここから回廊を通って拝殿、本殿に出る。本殿内部には鎌足の木像が安置されている。本殿から少し離れた山の中腹に十三重塔が見える。これは、藤原鎌足の追福のため長子の定慧(じょうえ)が西暦678年に建立したとされ、現在の塔は室町時代に再建されたものである。木造の十三重塔としては唯一のものだという。

聖林寺
談林寺を下り元の県道に戻り先を続ける。道は寺川に沿ったゆるい下り坂である。途中、観音寺への案内板、崇峻天皇陵への石標などが建っているが、やり過ごしてどんどん進む。約1時間ほど歩くと、聖林寺の大きな案内板が見えてきた。ここで左に曲がり、寺川にかかる橋を渡って坂道を5分くらい歩くと聖林寺の山門が見える。山門を入るとすぐに本堂の建物がある。本堂の横から階段状になった回廊が山の上にのびている。有名な十一面観音像は、この回廊を登ったお堂(大悲殿)のなかに安置されている。

聖林寺十一面観音像
十一面観音像は、回廊を登りきったところにある小さなお堂(大悲殿)のなかに安置されている。いわば専用の収納庫であるが、扉の外からすぐ間近に拝観することができるので見学者には都合がよい。私が訪れたときには周りに誰もおらず、ゆっくりと拝観することができた。
聖林寺を有名にしているのは、まちがいなくこの十一面観音像の存在だろう。私は、北近江の渡岸寺ではじめて十一面観音に出会って以来、仏像に関心を持ちはじめた。白洲正子の「十一面観音巡礼」、和辻哲郎の「古寺巡礼」、その他各種写真集、仏像に関するTV特集番組など、いろいろと見てきたが、この聖林寺の十一面観音像は必ず取り上げられ、高い評価を得ている。私がこの観音像と対面したとき、すでにそのようないろいろな知識をもっていた。近づいてじっくり拝見すると、何となく懐かしさを感じた。

安倍文殊院
安倍文殊院はこの安倍寺跡の北方すぐのところにある。境内は広く、文殊池の中に建つ浮御堂をはじめ、本堂(文殊堂)、釈迦堂、大師堂、本坊・庫裏・方丈などいろいろな建物が建ち並んでいる。また、境内の中に文殊院西古墳、東古墳という二つの古墳が残されている。墳丘の形は改変されているようだが、玄室は巨大な岩で作られ立派なものである。

多武峰(とうのみね)展望台からの見晴らし
鎌足墓所のすぐ先に展望台がある。ここからの大和盆地の眺めはすばらしい。この日はやや霞がかかって、あまりはっきりとは見えないのだが、それでも大和三山の耳成山、天香具山が確認できる。左手に広がる畝傍山や明日香方面は、樹木が生い茂っており、残念ながら見ることができなかった。

メスリ山古墳
私の今日の予定は聖林寺までで、その先は県道37号線をまっすぐに進んで桜井駅方面に出るつもりだった。しかし、細峠を例の長大トンネルで通りぬけたせいか、時間的にはまだ15時前で、このまままっすぐ帰るには早い。そこで、行き当たりばったりだが、少し桜井市内を散策することにした。
県道に戻り少し行くと、メスリ山古墳への案内表示が出ていたので、それに従って進む。やがて池が見え、その向こうに前方後円墳らしいものが見えてくる。私は、メスリ山古墳については何も知識がなかったのだが、近づくと奈良県教育委員会の大変詳しい説明板が立っている。

安倍寺跡
メスリ山古墳を過ぎ、さらに西の方向に歩いてゆくと安倍史跡公園があり、その中に「史跡安倍寺跡」という大きな石標が建っている。説明板によると、「この地域一帯は、安部氏一族の本拠地であったといわれ、氏寺である安倍寺の建立は山田寺の創建時代(641〜685)とほぼ同じ頃で、安倍倉梯(くらはし)麻呂の建立であると伝えています」、とある。安倍倉梯麻呂は飛鳥時代の政治家で、大化の改新のときに左大臣に任じられている。この家系から平安時代に陰陽師の安倍晴明ガ出ている。安倍寺は戦国時代の戦火に焼かれ、その後再建されることなく、別院であった現在の文殊院に移ったとされる。

安倍文殊院から桜井駅までは近い。桜井駅に着いたのは16時頃、そこから電車で名張駅に行き、ホテルに到着したのは17時頃だった。夕食にはまだ早く、外も明るいので、名張の旧道沿いを少し散策することにした。このときの様子は初日の最後に「名張散策」として記したとおりである。

県道37号線西谷集落付近
北に進む道の行く手には竜門山塊が立ちはだかっている。大和と吉野の往来には、かつてはこの山塊を苦労して越えなければならなかった

妹山樹叢の様子
妹山は神奈備山として入山を禁止していたこともあり、今日まで原生林の姿をとどめている。現在国の天然記念物になっている

東大門
両袖付きの高麗門で、本瓦葺き。社寺の表門に、城郭風の門が用いられた数少ない遺構の一つという

屋形橋
県道沿いの寺川にかかる橋。屋根付の橋で、擬宝珠には寛政三年(1791)の刻銘がある。昭和54年に再建された

談山(かたらいやま)、御破裂山(ごはれつざん)
談山神社の建物群のうしろに、長い石段が続いており、談山、御破裂山への案内表示が出ている。これにしたがって石段を登り、さらに山道を少しゆくと、頂上に石標と簡単な説明板が立っている。これによると、「この場所は『談山(かたらいやま)』といい
、談山神社の裏山にあたり、古くから『談所(だんじょ)の森』と名づけられ、中大兄皇子と藤原鎌足公が大化改新の秘策をねられたところとされています」、とある。
中臣(藤原)鎌足が生まれたのはこの多武峰に近い場所で、このあたりの地理にはあかるかっただろう。よく知っているこの場所で二人は談合を繰り返し、「大化の改新」を実行したのだろう。ベンチに座り目を閉じると、ひそひそと話し合っている二人の姿が目に浮かぶような気がする。ふと気がついて時計を見ると12:20、ちょうどよいのでここで昼食にした。
談山を下り、少し先の分岐点をそのまま、まっすぐに進んでゆくと、御破裂山への案内が出ている。これに従って杉木立の鬱蒼とした山道を10分くらい歩くと、石柵に囲まれた塚が見える。ここに「御破裂山(ごはれつざん)」という簡単な説明板が立っている。これによると、「山頂に藤原鎌足公のお墓があり、古くから国家に不祥事がある時に『神山』が鳴動」した記録が多く残っています。」ということだ。ここは多武峰の最高所で、海抜618mである。

聖林寺山門
聖林寺は談山神社(妙楽寺)の別院として藤原鎌足の長男定慧(じょうえ)が創立したという古刹である

県道から聖林寺への入口付近の様子
聖林寺は、ここから寺川にかかる橋を渡り、坂道を歩いて5,6分のところにある。案内表示があるので分かりやすい

史跡安倍寺跡
かつて安倍寺のあった跡が史跡公園として保存されている。石標が建っているところは寺の基壇のあった辺りという。遠くに見える山は多武峰(とうのみね)である

文殊院西古墳
玄室の天井石は一枚岩で、約15uもある。この古墳は当山を創建した大化改新の左大臣・安倍倉梯麻呂の墓と伝えられている

安倍文殊院本堂(文殊堂)
安倍文殊院は華厳宗に属し、山号は安倍山。東大寺の別格本山である。また、日本三大文殊の一つとしても有名である

多武峰(とうのみね)山頂付近の展望台から大和盆地を望む
右手にかわいらしい耳成山、左手に天香具山が見える。耳成山と天香具山の間に藤原京が広がっていた。大和三山のもう一つの山、畝傍山は樹木に隠れて見えなかった

国宝十一面観音像
特に撮影禁止の注意書きはなかったので、扉の外から撮影させていただいた

十一面観音が安置されている大悲殿
いわば、国宝仏像の収納庫なので、正面の頑丈な防火扉はやや無粋だが、それ以外は雰囲気を壊さないような造作になっている