能登川から彦根を経て鳥居本へ(朝鮮人街道その2) さらに中山道を醒ヶ井まで

野ざらし紀行・畿内行脚7

この日はまず、朝鮮人街道の残りの部分、能登川から彦根を経て鳥居本(とりいもと)まで歩く。鳥居本からは中山道に入り、醒ヶ井(さめがい)まで歩く。醒ヶ井からは東海道線で彦根まで戻り、前日と同じ宿に連泊する予定である。したがって、背中のザックは宿に預け、サイドバッグだけの軽装である。


能登川から彦根市稲里町(山崎)へ
彦根のホテルから能登川まで戻り、能登川駅南口前をスタートしたのは7:20頃だった。駅前の道をまっすぐに行き、左に曲がる。ここからは昨日歩いた道のつづきである。少し先で県道52号線を渡り、さらに行くと天神社がある。その先でJRの踏切を渡ると、すぐに県道2号線に出る。これから先は県道2号線を歩くことになる。
県道はまっすぐに続いている。近江は昔の条里制にもとづく水田が多く、水田地帯を通るこの朝鮮人街道もまっすぐなのだ。朝まだ早いので、車も少なく空気もすがすがしい。しばらく歩くと大きな愛知川(えちがわ)に出る。この川に架かる八幡橋を渡ると能登川市から彦根市に入る。
さらに、まっすぐな県道を50分くらい歩くと、前方に小高い山が見えてきて、県道はこの山を避けるように右に曲がってゆく。旧道はここで右にそれずに、まっすぐ山に向かって進んでゆく。山の手前で左に曲がるが、そのあたりに朝鮮通信使が休息した山崎御茶屋があったという。

南山崎に残される旧道
そのあと旧道は山を巻くように進んでゆく。建物はみな新しくなっているが、静かな落ち着いた家並みが続いている。やがて家並みが途切れると、のどかな田園風景が広がる。のんびりと歩いてゆくと、道の脇に大きな道標が建っている。家並みの中にも同じものがあったが、「奥山寺 従是荒神道 八町」とある。ここから北西の方向、約八町のところに荒神山神社(奥山寺)がある。
旧道をさらに進むと、また家並みがあり、大きな天満天神社が現れる。由緒がありそうだが、建物などは建替えられたのか比較的新しい感じだ。この天神社の手前で右に曲がると宇曽川の堤防に出る。この川は、昔は彦根藩の年貢米の運送に使われたという。その少し先にかかる新橋を渡り、まっすぐに進んでゆくと県道2号線に出る。ここからは、ふたたびこの県道を進む。

山崎御茶屋のあったあたり
旧道が山にぶつかる手前に「山崎御茶屋」があり、朝鮮通信使の一行もここで休んだという

県道2号線の様子
先方に見える山にぶつかるまで、朝鮮人街道は約6Kmの間まっすぐにつづいている

愛知川に架かる八幡橋
愛知川(えちがわ)は大きな川で、これに架かる八幡橋も長い橋である橋を渡ると彦根市になる

犬上川を渡り、西今町の「十王村の水」へ。さらに、県道206号線で彦根市街へ
日夏町を過ぎ、甘呂町東信号で右折する。県道2号線とは、ここでお別れである。まっすぐな道をしばらく進み、堀町で左に曲がる。まっすぐ行くとやがて犬上川に出る。今橋という細い橋が架かっているので、この橋を渡る。少し上流には県道の立派な橋が見える。橋を渡ったあとも旧道らしき道が続いている。それらしい道を歩いてゆくと、やがて福満神社を過ぎ、少し先の西今町交差点で県道206号線と交差する。この交差点の脇に玉垣に囲まれた小さな池があり、池の端からはきれいな水が勢いよく湧き出している。ここの水は、「十王村の水」として湖東三名水の一つとなっている。また、全国名水100選にも選ばれているという。いつもは水を汲みに来る人が多いようだが、私がついたときには誰もいなかった。手ですくって飲んでみるとおいしい。ペットボトルにこの水を詰めて、この場所をあとにする。
交差点から先は、県道206号線をまっすぐに進む。昔の朝鮮人街道は屈曲の多い道だったらしいが、新しい県道により、昔の道は消滅してわからなくなった部分が多いという。

彦根市街、メイン通り
まっすぐな県道をタンタンと歩いてゆく。橋向町の先で芹(せり)川を渡ると、道の両側はアーケード付きの商店街となる。少し先に「久左の辻」という石標が立っている。ここを左に曲がり、まっすぐ行くと本町1丁目の交差点に出る。ここで右に曲がると彦根城の京橋に通じるメイン通りとなる。この通りは夢京橋キャッスルロードと名づけられ、白壁に切妻屋根の町屋が再現されている。
この通りの中ほどに宗安寺というお寺がある。この寺は江戸時代、朝鮮通信使の一行が宿泊した場所として知られている。このお寺に「黒門」という質素な門があり、朝鮮使節団が通行した門と伝えられたが、現在では使節団のために肉類を運び入れるために設けられた門であるとされている。お寺なので、肉類を通常の門から運び入れるのはさしさわりがあり、別に門を設けることになったらしい。歴史の一断面を伝える建造物である。

宗安寺黒門
宗安寺は朝鮮通信使の上級メンバーが宿泊したお寺。この門はその饗応用の肉類を運び入れた門とされている

夢京橋キャッスルロード
彦根城の京橋に通じる道路の愛称。昔の町並みが再現されている

「久左の辻」石標の立つ辺り
古称・久左の辻とあるが、地名のいわれは見逃した

彦根城
お濠を渡って彦根城に登る。いくつかの門を通って天守に到達する。切妻破風、唐破風、千鳥破風を組み合わせた優美な外観で、国宝に指定されている。内部も公開されている。
彦根城は琵琶湖に近い金亀山(彦根山)の上にある。かつては、少し離れた佐和山に城があったが、関ヶ原の戦いのあと井伊氏の入城を機に、現在の場所に新城が築かれたのである。
山の上にあるので、ここからは広い琵琶湖が見渡せる。彦根は意外なほど琵琶湖に近いのだ。昔から琵琶湖の水運の要衝となっていたということも、この風景を見るとよく分かる。ただ、湖岸の埋め立てで、昔に比べると湖水は遠のいているようだ。
また、北東の方角には伊吹山が姿を見せている。中山道歩き旅のとき、ここから眺めた「夕日に輝く伊吹山」の姿に感動したことを思い出した。
西の丸三重櫓などを見学したあと山を下り、玄宮(げんきゅう)園に入った。ここは、井伊家の旧下屋敷の庭園である。池泉回遊式の大名庭園で、大変よく整備されている。この庭園のベンチで昼食にした。12:30頃だった。

彦根から佐和山トンネルを通って鳥居本(とりいもと)へ
彦根城址を出て街道に戻る。船町の街道沿いには古い立派な建物も残っている。通りをまっすぐ行くとJRの線路にぶつかり、これを地下道で越え、さらに近江鉄道の踏切を渡る。さらにまっすぐ行くと、だんだんと山が迫ってくる。山の上には佐和山城があった。
佐和山城は鎌倉時代に築かれ、湖東と湖北の境目の城として、また交通の要衝に建つ城として絶えず争奪の対象になった。織田信長は天下を取ったあと、安土城築城までの間、この城を準居城としたが、本能寺の変後の1595年には石田三成が入城した。関ヶ原の戦い後、井伊直政を先鋒とする東軍に攻められ、わずか1日で落城する。その後、井伊直政が入城するが、彦根城築城のため、石垣や建物の多くが運び出され、廃城となった。
昔の街道は佐和山を越えたが、現在は国道8号線の佐和山トンネルで難なく通り過ぎる。現在は、車道トンネルの脇に歩行者・自転車用のトンネルが別に造られている。トンネルを出たすぐ先で旧街道は右に分かれて行く。その少し先で新幹線の線路下をくぐると、鳥居本宿はすぐである。

街道より佐和山方面を望む
山の上には佐和山城があったが、関が原の戦い後取り壊され、彦根城が築城された

船町付近の街道の様子
街道沿いに古い立派な建物も残されている

国道8号線佐和山トンネル
車道トンネルの脇に、自歩道トンネルが平成6年に完成した。長さ250m、幅4mの立派なものである

鳥居本、中山道との合流点
朝鮮人街道は鳥居本で中山道と合流する。中山道との合流点に古い道標が立っている。文政年間に立てられたもので、「左中山道」、「右彦根道」とある。朝鮮人街道は彦根に通じる道で、このあたりでは彦根道と呼ばれた。徳川家康は関ヶ原で勝利をおさめ、この道を通って上洛したことから、江戸幕府は将軍上洛の道として大切にしていた。このため、江戸時代、一般の大名の参勤交代には使用させなかった。この道を朝鮮使節団に使わせたのは、国賓待遇としてのもてなしの心もあったのだろう。そのほか、近江八幡や彦根など大きな町があり、宿泊に都合がよかったことも理由にあげられる。
私の朝鮮人街道をたどる旅も、ここで終了する。ここから先は中山道となり、番場、醒ヶ井方面に向かう。私は6年前に「中山道歩き旅」で歩いたことがあるが、今回はそのときとは逆の方向に歩くことになる。

なお、朝鮮人街道の道筋については、次のHPの記述を参考にしました。
            野洲~安土    安土~鳥居本

彦根城址より伊吹山を望む
北東の方向には伊吹山を望むことができる。中山道歩き旅のときにここから見た、夕日に輝く神々しい姿を思い出した。12月末の寒い日だった

彦根城址より琵琶湖方面を望む
彦根城からは琵琶湖がすぐ近くに見える。はるか遠くには湖西の山々、湖岸の町々を望むことができる。琵琶湖の大きさを実感できる

合流点より彦根方面を望む
遠くに見えるのは佐和山城のあった山で、彦根はその山を越えた先にある

道標
文政年間に建てられた古い道標

中山道との合流点
中山道江戸方面から京方面を見た写真である。まっすぐが゙中山道、右に曲がるのが彦根道(朝鮮人街道)である

摺針(すりはり)峠
昔の宿場町の様子が色濃く残る鳥居本の町並みを抜けると国道8号線に合流し、そのすぐ先で旧道は右に曲がる。ここからは摺針峠のきびしい登り坂となる。
摺針峠は、琵琶湖を一望のうちに見渡せ、中山道随一の眺望といわれた。ここには、望湖堂という茶店があり、参勤交代の諸大名や朝鮮使節団の一行などは、かならずここで休息したという。
前回、私がこの峠を通ったのは12月末で、雪の降ったあとだったので滑りやすく、そちらのほうに注意が集中して周りの様子をあまりよく覚えていない。そこで、今回はここからの眺望を中心に、周りを少し観察することにした。
きびしい坂を登り峠の頂上につくと、ここには望湖堂という大きな茶店があった。残念なことに、近年この建物は焼失してしまい、数多くの貴重な資料なども失われてしまったという。現在はその跡に新しい建物が建てられている。
望湖堂付近から湖の方向を眺める。今は近くに樹木が茂っていて、眺望抜群というわけにはいかないが、遠くに湖水を望むことができる。広重の描いた絵などによると、当時は入江がすぐ近くまで切れ込んでいたようで、地形は現在とは多少異なっていたようだ。

番場宿、蓮華寺
摺針峠を下って行くと、家並みが途切れ、やがて名神高速道路が見えてくる。本来はこの高速道路の通っているところが旧道だったが、高速道路の工事により消滅したという。現在は高速道路に沿って道がつけられている。車もほとんど通らない山間の道を進んでゆくと、やがて集落が見えてくる。かつての番場宿である。これから先、西番場、東番場と街道沿いには家並みが長く続くようになる。
番場集落の途中に「史蹟 蓮華寺」の大きな石標が立っている。蓮華寺は、街道から名神高速の下をくぐり、100mくらい先にある。私は前回も立寄ったのだが、ふたたび訪れる。
南北朝時代はじめ(元弘三年、約660年前)、京都を追われた六波羅探題の北条仲時がここまで逃げてきたが、この地で行く手を阻まれ敗退する。仲時はこの蓮華寺本堂で自刃し、それにしたがい従士430余名がことごとく寺の前庭で自刃したという。時の住職はこのことを深く哀れに思い、その姓名と年齢、法名を一巻の過去帳にとどめ、さらにいちいちその墓を建て丁重に弔った。過去帳は重要文化財に指定され、墓は境内にそのままの形で残っている。
それほど広いわけではない境内で、400名以上の人々が自刃する光景は想像を絶するものだっただろう。墓前で手を合わせ、寺をあとにする。

昔の摺針峠からの眺望(広重画)
かつてはすぐ近くまで入江が切れ込んでいたことが分かる。左の茶店が望湖堂。右のほうにもう一つ臨湖堂という茶店もあった

望湖堂付近より琵琶湖方面を望む
現在は樹木が茂りあまり眺望はよくない。昔はもう少し手前まで入江がのびていたようである

現在の摺針峠頂上付近の様子
茶店の望湖堂は平成3年に火災で焼失し、現在は新しい建物が建っている

番場から醒ヶ井へ
番場の集落を過ぎ、中山道はやがて国道21号線に出る。すぐ先でまた旧道が分かれ、樋口、河南の集落を過ぎたあとまた国道に合流する。しばらく国道を行くとJR醒ヶ井駅が見えてくる。今日の歩き旅はここまでにしよう。駅に着いたのは17時頃。ここから電車で彦根に戻り、ホテルに戻ったのは17:40頃だった。

宇曽川に架かる新橋
向こうに見える山が、先ほど回りこんできた山である
橋を渡ってまっすぐ行けば県道2号線に出る

南山崎の集落の様子
旧道に沿って静かな家並みが続いている。大きな道標も残っている

清崎の旧道の様子
「従是荒神道 八町」の道標が建つあたり。ここから北西の方向に荒神山神社がある

「十王村の水」
車の多い県道のすぐ脇にある。湖東三名水のひとつで、汲みに来る人も多い

県道206号線の様子
朝鮮人街道はこの県道に置き換えられ、旧道は消滅した部分も多いという

犬上川と今橋
今橋は旧道に通じる細い橋である。少し上流に新しい県道の宇尾大橋があるので、この橋を渡る車は少ない

玄宮園
彦根藩四代藩主井伊直興が造営した池泉回遊式庭園である(国名勝)

彦根城天守閣
元和8年(1622)に20年の歳月をかけて完成。唐破風、千鳥破風、火灯窓をつけた華やかな天守は国宝に指定され、彦根の象徴ともなっている

北条仲時以下430余名の墓

蓮華寺山門

番場集落の様子