野ざらし紀行・畿内行脚7

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「野ざらし紀行・畿内行脚編」のおわり。そして、新しい旅へ
芭蕉の「野ざらし紀行」の旅は、これからまだまだ続きますが、伊賀上野からはじめた私の旅は、ここで一旦終了します。
次回からは、気分を新たに江戸から伊勢神宮参拝までの道のりを芭蕉と一緒に歩きはじめる予定です。


「野ざらし紀行 畿内行脚編」 おわり

美濃赤坂の街道風景
中山道に沿って新旧取り混ぜた家並みが長く続いている

史蹟の里 青墓町
その昔、ここを東山道が通っていた頃は青墓は宿場であった

中山道と美濃路の追分
奥の細道ではまっすぐの美濃路を行ったが、今回は左に曲がり中山道をゆく

垂井の泉を見たあと、このまま先を続けて南宮神社まで行くか、それともここから引き返して中山道の先を続けるか、しばし考えた。現在の時刻が15時、これから南宮神社まで行けば、往復3、40分はかかるだろう。今日はこのあと大垣から帰京する予定だから、これから先は早めの行動を心がけたほうがよい。というわけで、南宮神社は残念ながら省略することにした。


垂井から美濃赤坂へ
中山道に戻り、先を続ける。宿はずれの東の見附跡を過ぎ、相川を渡り、中山道と美濃路の追分に至る。芭蕉は奥の細道の旅のときはここから美濃路を経て大垣まで歩いたが、野ざらし紀行の旅ではここから中山道を通って美濃赤坂へ出、そこから大垣に向かったようである。そこで、私も今回はここから中山道で美濃赤坂まで歩くことにしている。垂井から赤坂までの道は中山道歩き旅のときに歩いているので、途中の「史蹟の里 青墓町」なども懐かしく思い出した。
垂井から1時間半くらい歩いて美濃赤坂の町に着いた。時間があればここから大垣まで歩いてもよいのだが、もう時間が遅いので、ここからは電車で大垣に出ることにする。JR美濃赤坂駅に着いたのは16:30頃、ここから電車で大垣、名古屋に出、名古屋から新幹線に乗り換え、東京の我家に着いたのは19:30頃だった。

泉の近くに建つ芭蕉句碑
葱白く洗ひあげたる寒さかな
芭蕉翁

垂井の泉
この泉は、樹齢約800年という大ケヤキの根元から湧き出している。垂井の地名の元ともなり、歌枕としても知られていた

昔ながらの古い商店などの残る街道を進むと十字路になり、右手に大きな南宮神社の鳥居が建っている。ここから南に約1Kmくらいのところにある大きな神社である。鳥居をくぐって少しゆくと玉泉禅寺がある。このお寺の境内に「垂井の泉」という泉がある。この泉は大ケヤキの根元から湧出し、「垂井」の地名の起こりとされている。古くから歌枕としても知られていた。本龍寺に滞在した芭蕉もここを訪れ、

           葱白く洗ひあげたる寒さかな 

という句を残している。この句碑が泉の近くに建っている。

  

本龍寺芭蕉句碑 (右上のもの)
作り木の庭をいさめるしぐれ哉
はせを翁

本龍寺山門付近
芭蕉は元禄四年近江から大垣を経て江戸に行く途中、この本龍寺住職規外を訪ねた

垂井
関ヶ原を過ぎ、旧道に残る垂井の一里塚、日守の茶屋跡などを見て垂井宿に入る。ここには芭蕉ゆかりの本龍寺がある。芭蕉はこの寺の住職玄潭
(げんたん、俳号規外)と交友が深く、元禄四年(1691)冬当寺にて冬篭りをした。このときに詠んだ次の句碑が境内に建っている。この碑が建っている処を「作り木塚」と名づけている。また、当寺には芭蕉の木像も伝わっており、塚とあわせて垂井町の史蹟に指定されている。
     
        作り木の庭をいさめるしぐれ哉    はせを翁
          
(「いさめる」は、励ます、生気を与える、の意)
     

関ヶ原中山道旧道
旧道には松並木が残っている

関ヶ原西交差点
かつての中山道、北国街道もこの地点で交差した

西首塚
関ヶ原合戦の戦死者数千の首級を葬ってある

関ヶ原
不破関跡を過ぎて先に進むと、やがて旧道は国道21号線に合流する。この近くに西首塚がある。これは、関ヶ原合戦の戦死者数千の首級を葬った塚である。この上に江戸時代から十一面千手観世音及び馬頭観世音の堂が建てられ、付近の人々の手によって供養がされている。
国道を進むと、関ヶ原西町交差点で国道365線と交差する。昔もここで中山道と北国街道が交差する交通の重要地点だった。
関ヶ原の古戦場めぐりは、前回の旅で行っているので、今回は国道をそのまままっすぐに進む。やがて旧道は左に分かれ、松並木と田園風景の続く道となる。左手には東海道線の電車が走っている。

寝物語の里、芭蕉句碑など
柏原宿を出て楓並木がつづく街道を進んでゆくと、やがて滋賀県と岐阜県の県境に出る。ここは、昔から近江の人と美濃の人が壁をはさんで寝物語ができるということから「寝物語の里」といわれた。
美濃に入ってすぐのところに次の芭蕉句碑が建っており、横に説明がある。

              正月も美濃と近江や関月 
貞享元年十二月野ざらし紀行の芭蕉が郷里越年のため熱田よりの帰路二十三日ころこの地寝物語の里今須を過ぐるときの吟    昭和五十三年二月建之 芭蕉翁顕彰會 」

ただ、「芭蕉句集」には、この句は収録されていない。芭蕉の句かどうかは疑わしい句に分類されているようだ。その句碑の隣に「中山道今須宿 野ざらし芭蕉道」という小さな石碑が建っている。これには、『年暮れぬ笠着て草鞋はきながら』 の句が刻まれている。この句は、『爰(ここ)に草鞋(わらじ)をとき、かしこに杖を捨て、旅寝ながらに年の暮れければ』という前書とともに「野ざらし紀行」に記載されている。
また、この句碑の近くに「おくのほそ道 芭蕉道」の石碑も建っている。芭蕉が奥の細道の旅でここを通ったかどうかは明らかではないが、曾良は確実にこの道を歩いている。曾良は芭蕉と別れたあとも律儀に「旅日記」を書いているが、その中にこの道を通って大垣に向かったことが記されている。
なお、私の「奥の細道歩き旅」では、北国街道脇往還を利用して木之本から関ヶ原に出ているので、この道は通っていない。

今須宿
寝物語の里から今須宿に向かう途中に「車返しの坂」というのがある。この坂にまつわる伝承が大変面白い。
南北朝の昔、不破の関屋が荒れ果て、その板庇から漏れる月の光が面白いと聞き、わざわざ牛車に乗り京からやってきた御仁がいた。その人の名は公家の二条良基。ところが、この坂道を上る途中、屋根を直したと聞いて引き返してしまった。この伝説から、この坂は「車返しの坂」と呼ばれるようになったという。
やがて、今須宿の中心部に入ってゆく。余り大きな宿場町ではないが、現在もかつての問屋場、山崎家の建物が当時のままに残っている。立派な建物である。町のすぐ近くを東海道線が走っているが、駅がないので町はややさびしい感じがする。

常盤御前の墓と芭蕉句碑
今須の宿場町を過ぎると山道になり、やがて山中集落につく。ここには常盤御前の墓がある。街道の脇に小さな公園があり、その奥に三つの五輪塔が肩を寄せ合って並び、さらにその横にいくつもの小さな五輪塔が並んでいる。
都一の美女といわれ、16歳で源義朝の愛妾となった常盤御前。義朝が平治の乱で敗退すると、常盤は今若、乙若、牛若の三児と別れ、清盛の愛妾となる。伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、あとを追ってここまで来たが、土賊に襲われて息を引き取る。哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられる。
石塔のすぐそばに芭蕉句碑がある。この句も「野ざらし紀行」に記載されている句である。

          義朝の心に似たり秋の風  はせを翁

この公園にベンチがあったので、ここで昼食にした。12:10頃だった。

芭蕉関連の石
芭蕉は「野ざらし紀行」の途中、貞享元年にこの地を通過して句を詠んだ
左がそのとき詠んだという句碑。隣に「野ざらし 芭蕉道」さらにその隣に「おくのほそ道 芭蕉道」の石碑が建つ

「近江美濃国境寝物語」の標識
標識の立っているほうが近江国長久寺村、細い溝を越えたところが美濃国今須村である。現在は滋賀県、岐阜県の標識が並んで立っている

常盤御前の墓と芭蕉句碑
常盤はこの地で息を引き取り、里人がこの場所に塚を建てたという。芭蕉はこの塚の前を通り句を詠んだ

常盤御前の墓と芭蕉句碑のある公園
この公園の奥に常盤御前の墓と芭蕉句碑がある。ここのベンチで昼食にした

不破の関跡
山中集落を過ぎると旧道は国道21号線と交差するが、すぐ先で分かれ藤川(藤古川)に達する。壬申の乱(672)では、両軍がこの川をはさんで開戦した。壬申の乱後、天武天皇はこの地に不破の関を置き、天下の騒乱にそなえることとした。
川を越え坂を上って少しゆくと、「不破関守跡」の表示が見える。説明板によると、「このあたりが関守の宿舎跡で、関所自体は延暦八年(789)に停廃されたが、それ以後に関守が任命されたと考えられる」とある。不破の関は平安時代の有名な歌枕だったが、その頃には関所としての機能は既に失われ、関守が細々と施設の維持管理を行っていたようだ。先ほど見た「車返しの坂」の伝説が思い起こされる。近くに不破関庁舎跡の説明板がある。これによると、壬申の乱後の政治情勢を踏まえ、かなり大規模な関所が設けられたことが分かる。
さらに、近くには古い石碑や歌碑、句碑などが建っている一画がある。この中に芭蕉の次の句碑がある。
          秋風や藪も畠も不破の関  はせを翁

芭蕉句碑
不破関庁跡の一画に他の石碑や歌碑と一緒に建てられている
 秋風や藪も畠も不破の関 
 ばせを翁 

不破関庁跡
このあたりに関所の中心建物があったとされる。関内の中央を東山道が通り、その北側に約100m四方の塀に囲まれた中に庁舎、官舎などが建ち、周辺土塁内には兵舎、食料庫、望楼などが建ち並んでいたという

不破関守跡
不破の関自体は平安時代初めには機能停止していたが、関守が置かれ施設の維持を行っていた。その関守の住んだ屋敷跡

醒ヶ井から関ヶ原を経て美濃赤坂まで 

芭蕉の「野ざらし紀行」のあとを追って、伊賀上野からはじめた私の畿内行脚の旅は、今回の美濃赤坂までの旅で一旦終了する。芭蕉は、このあと大垣、名古屋、熱田を経てふたたび故郷の伊賀上野に戻っているようだが、私の旅としては一旦ここでこのコースは終了し、次回はまた別のコースを歩き始める予定である。
今回の醒ヶ井から美濃赤坂までは中山道の道筋で、私は6年前に「中山道歩き旅」で歩いている。今回の旅では、特に芭蕉関係の遺跡などにピントを合わせながら歩いてみようと思っている。


醒ヶ井(さめがい)宿
彦根のホテルを7時半頃出発し、JR醒ヶ井駅に着いたのは8:10頃だった。駅前を走る国道21号線を渡って中山道旧道に戻る。
醒ヶ井は名前のとおり水明の町である。街道に沿って清らかな川が流れ、川の反対側に昔の宿場町の面影を色濃く残した家並みが続いている。朝のすがすがしい空気の中をゆっくりと歩く。流れに沿って歩いてゆくと、川岸近くに地蔵堂が建っている。この地蔵堂の少し先に、この川の源泉「居醒泉(いさめがい)」がある。ここには次のような伝説がある。
昔、伊吹山に大蛇がいて人々を苦しめていたので、日本武尊が退治に出かけた。尊は剣を抜いて大蛇を切り伏せたが、このときの大蛇の毒が尊を苦しめる。やっとのことでこの泉まで来て、身体や足をこの泉に浸すと、不思議にも高い熱も苦しみも取れて正気に戻った。それで、この泉を居醒泉(いさめがい)と名づけたという。現在も、この付近の流れの中には「蟹石」、「腰掛石」、「鞍掛石」と名づけられた石が残っている。
居醒泉(いさめがい)のすぐそばに長い石段が続いており、上ってゆくと加茂神社がある。高い場所にあるので、町の様子がよく見える。南に名神高速、北にJR東海道線と国道21号線が走る山間の町だが、平坦地には家並みがびっしりと建ち並んでいる。大きなりっぱなつくりの家が多いようだ。

須宿中山道の様子
街道沿いに長く集落が続いている

今須宿の問屋場建物
問屋場、山崎家の建物。江戸時代の威容をそのまま現在に伝えている

車返しの坂
昔、二条良基が不破の関屋の破れ庇の月を眺めようとやってきたが、ここまで来て引き返してしまったという伝説がある

柏原(かしわばら)宿
江戸時代、柏原宿はたいへん栄えた。当時、「伊吹もぐさ」を商う店が十指に余り、中山道有数の宿場名物になっていた。広重が描く柏原宿は「伊吹もぐさ」の老舗伊吹堂で、現在も当時の建物がそのまま残っている。ただ、今回私が歩いたときには改修工事中で、「伊吹堂」の古い大きな看板は見ることができなかった。
街道沿いには古い立派な建物がいくつも残っているが、その中の一つが「柏原宿歴史館」として公開されている。この建物は、伊吹もぐさ亀屋佐京商店の分家の住居として大正6年に建築されたというが、細かなところにも気を配った立派な建築である。中には、柏原宿の歴史のほかに伊吹もぐさ等に関する展示も多く、興味深かった。その中で福助についての展示と説明を紹介しよう。
江戸時代、亀屋には福助という番頭がいた。正直一途で、普段の日は裃を着け、扇子を手放さず、道行くお客を手招きしてはもぐさをすすめた。どんな客にもまごころで応えつづけたので商売も繁盛し、主人も福助を大事にした。やがて、この話が京都に広まり、伏見の人形屋が福を招く縁起物として福助の姿を人形に写したという。福助人形は大流行し、亀屋の店先にも飾られるようになった。広重の描く「柏原宿」にも、この福助の大きな人形が店の中に飾られている。

「中山道柏原宿」石標付近
このあたりは松並木が続いている

谷筋を進む旧道(梓集落)
集落が街道沿いに細々と続いている

国道21号線と名神高速道路
このあたりは谷が狭まり、旧道は国道と一緒になる。名神高速もすぐ脇を通る

醒ヶ井宿から柏原宿へ
街道に戻り先に進む。古い家並みが途切れると旧街道は国道21号線と合流し、名神高速道路もすぐ近くを走るようになる。JRの線路はこの狭い谷筋を避けて北に大きく迂回している。やがて、旧道は国道と分かれ梓集落に入る。山間の細長い集落である。タンタンと歩いてゆくと松並木が現れ、「中山道柏原宿」の石標が建っている。もう柏原宿である。

居醒泉(いさめがい)
醒ヶ井の地名のもとになった泉。日本武尊にまつわる伝説がある

街道沿いを流れる地蔵川
清流にしか住むことのできないハリヨという小さな魚、バイカモという藻が生育している

醒ヶ井宿の町並み
街道の片側に川が流れ、古い家並みが反対側に一列に並んでいる。かつての宿場の面影を色濃く残す、静かで落ち着いた町並みである

ひな壇に勢ぞろいした福助人形
まるでお雛様のように様々な福助人形が飾られている

伊吹もぐさの袋
「あつさすくなく よくきくもぐさ 伊吹堂正本家元祖亀屋佐京」とあり、福助の絵が描かれている

柏原宿歴史館
亀屋佐京商店の分家の住居として大正6年に建築された。現在は柏原歴史館として内部公開されている

「木曽海道六拾九次之内 柏原宿」(広重画)
街道から「伊吹艾(もぐさ)本舗亀屋」の店先を描いている。右側がもぐさを売る店で、右の端に福助人形が描かれている。左側は茶屋になっており、お客が座って休んでいる

伊吹もぐさ「伊吹堂」のある辺り
街道脇に昔ながらの「伊吹堂」の建物が建つ。今回はちょうど前面の改修工事中で、名物の大看板や店の中は見ることができなかった