野洲から近江八幡、安土を経て能登川まで(朝鮮人街道その1)

野ざらし紀行・畿内行脚7

今日は、野洲から朝鮮人街道を通って近江八幡の史跡を巡り、安土城址を見学したあと能登川駅まで歩く予定である。


野洲町から近江八幡市十王町まで
草津のホテルを出発したのは7:30頃。草津駅から電車に乗り、野洲駅に着いたのは8時頃だった。野洲駅から昨日確認した朝鮮人街道と中山道の分岐点まで戻り、ここから朝鮮人街道の歩き旅をスタートする。
用水路に沿った道を進んでゆくと、やがて旧道はJRの線路により分断されてしまう。仕方ないので少し戻って、広い自動車道路の陸橋で線路を越える。線路を越えた後、どれが旧道か分からないが線路沿いの道を進んでゆくと、やがて旧道らしい道になってきた。
今日は朝から雨が降ったりやんだりしていたのだが、このころから激しい降りになり、雷まで鳴り出した。近くの軒先で、雨合羽を身に着けたのだが、雨のはねかえりなどで靴もズボンもびしょ濡れになってしまう。しかたないので、また少し先の軒先で5分くらい雨宿りした。こんなに降られるのは珍しい。
少し小降りになったので歩き始めるが、道の脇の川が水量を増し、すごい勢いで流れていたのが印象的だった。近くに永原御殿跡とか祇王寺などがあるというので、はじめは寄ってみようと思っていたのだが、とてもそんな余裕はなく、雨の中をひたすら前に進んだ。
やがて県道2号線に出て、日野川を仁保橋で渡る。橋を渡ると、野洲市から近江八幡市十王町になる。

十王町から加茂町へ
日野川を渡って県道2号線を少し行く。県道2号線は、朝鮮人街道とほぼ並行して彦根方面に延びる幹線路である。この後も何回か旧道と一緒になったり離れたりを繰り返すことになる。
県道の十王町信号で左に曲がり、少し先で右に曲がると古い落ち着いた町並みが続いている。これが朝鮮人街道である。「朝鮮人街道」の新しい石標がこの先、何箇所か建てられている。いかにも旧道らしい道を進んでゆくと、途中に近江八幡江頭郵便局がある。この辺が集落の中心のようである。旧道沿いには連子格子の古い建物なども散見される。家並みが途切れると広い田園が広がっている。このあたりは琵琶湖の東辺にあたり、江頭町はかつては近郷の米の積み出し港として賑わったのだという。旧道はやがて加茂町となり、県道2号線と合流する。これからしばらくは、車の多い県道を歩くことになる。この頃には、雨はすっかりあがった。

旧道が県道2号線と合流する付近
旧道は加茂町で県道2号線と合流する。このあとしばらく広い県道を歩く

町はずれの田園風景
家並みが途切れると田園風景が広がっている。このあたりは琵琶湖東岸に近く、江頭には米を積み出す港もあったという

朝鮮人街道旧道の様子
近江八幡江頭郵便局付近の様子。道沿いには連子格子の古い建物も散見される

白鳥川を渡って小船木町へ
県道を20分くらい歩くと白鳥川にぶつかる。ここに架かる船木橋には車道のほかに歩道専用橋が設けられており、橋名表示の上に昔のこのあたりの風景を写した写真がはめ込まれている。町の名前の通り、かつてはこのあたりは船運が盛んだったことがわかる。現在の白鳥川は何の変哲もない小さな川である。岸辺の様子もすっかり変わっており、昔の面影はまったくない。

小船木町から近江八幡中心部へ
船木橋側道橋を渡って、橋から東北方面に斜めに続く旧街道をさがす。橋から旧街道の入口までの間、旧道は途切れているが、大体の見当をつけて歩いてゆくと、旧道の入口には「朝鮮人街道」の案内板と街道の簡単な説明板が立っている。この道も先ほどの十王町の旧道とおなじように、静かな町並みである。まっすぐに進んでゆくと、やがて道は突き当たりとなる。左は願成就寺の参道入口で、街道は右に続いている。
街道を右に曲がると、古い大きな商店が続いている。街路表示を見ると「西京街道商店街」となっている。近江八幡では朝鮮人街道のことを京への道ということで、京みち、あるいは京街道と呼んでいた。 すぐ近くに大きな本願寺八幡別院がある。

江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書を持って来日する「朝鮮通信使」は、役人のほかにも文人や学者など多いときには500人規模で組織されたといわれている。ここ近江八幡では、この本願寺八幡別院に正使、そして京街道一帯が随員の昼食や休憩場所として使われ、当時の町人は町をあげて歓迎し、文化交流が盛んに行われたという。

街道を進むと、すぐ先はアーケード付きの商店街になっている。その商店街を抜けた先に「あきんどの里公園」という小さな公園があり、東屋とベンチがある。ちょうどよいのでここで昼食にした。12時半頃だった。

近江八幡中心部近江八幡商家の町並み(伝統的建物群保存地域)
先ほどの小公園のすぐ先に近江八幡市立資料館がある。この建物の横を通る道が新町通である。この新町通り沿いの一帯が、「近江八幡商家の町並み」として「伝統的建物群保存地域」に指定されている。
近江八幡は、近江商人のふるさとの一つである。近江商人とは、江戸時代に、ことに八幡、日野、五個荘を中心とする地域に根拠を置いて、主として江戸、京都、大阪さらには全国各地に進出し、目覚しく活躍した有力商人たちである。それぞれの地域ごとに特産物などを持ち下り行商することにより発展したが、八幡では、蚊帳、畳表などが主な商品だった。

近江商人のふるさと(説明板より)
天正13年(1585)豊臣秀次が八幡山頂に築城、本能寺の変で主なき城下町となった安土の町を移し、翌年、八幡山下町掟書を公布、縦12通り、横4筋の区画整然とした城下町が誕生。しかし、開町から10年にして廃城となるが、その後は商業都市として栄え、全国各地で活躍した近江商人の一つのふるさとでもある。


郷土資料館を見学したあと、新町通を歩く。たしかにすばらしい町並みである。通りを山のほうに歩いてゆくと八幡堀がある。この堀をはさんで山の上に八幡山城があった。私は新町通を八幡堀まで歩き、そこから引き返した。町並みの中では、郷土資料館、歴史民俗資料館のほかに、旧西川家住宅、旧伴家住宅が一般公開されている。

近江八幡から安土へ
伝統的建物群の公開されている建物を見学したあと街道に戻り、先を続ける。資料館の前をしばらくまっすぐに進み、仲屋町通で右折する。少し行ってまた左折し、永原町、博労町にいたりまた右折する。このあたりはややこしいが、私の持っていたガイドブックの地図と朝鮮人街道のHPの記述を参考に何とかたどることができた。旧道が県道2号線に出るところに大きな常夜灯と観音寺の方向を手差しで示す道標が建っていた。
このあと県道を渡ってからは、ガイドブックの地図とHPの記述を参考に歩いたが、旧道のルートは結局のところよく分からなかった。時折、旧街道らしい面影の残った道を通るのだが、そのうちまた分からなくなってしまう。要するにこの間は旧道としてはあまりよい状態では残っていないといえるのだろう。
通った道筋をあまりよく覚えていないが、そのうちJR安土駅に到着した。14:40頃だった。駅前の大きな信長の像を眺めながら少し休憩した。駅前に安土町観光案内所があったので、「ぶらり歴史散策・安土町」というパンフレットをもらった。駅周辺にもいろいろと見所もあるようだが、時間もあまりないので、これから先はとりあえず安土城跡を目指す。

本願寺八幡別院表門
八幡別院はもと安土城下にあったが、廃城とともにこの地に移った。この表門は飾金物銘から1767年に建てられたことが分かる

西京街道商店街
願成就寺から本願寺八幡別院付近の商店街の様子。近江八幡では朝鮮人街道のことを京街道とも呼んでいた。このあたりから先、古い趣のある商店が続く

小船木町朝鮮人街道入口
ここからまっすぐな旧街道が続いている。道の脇に小船木商栄会の立てた案内板と簡単な説明板が立っている
街道はここからまっすぐに願成就寺まで続く

現在の白鳥川
岸辺の風景は左の写真とは一変している

船木橋にはめ込まれた昔の写真②
岸辺に建つ白い大きな蔵。近くにはたくさんの小さな舟が舫ってある二つの写真がいつごろのものか分からないが、それほど古いものではなさそうだ

船木橋にはめ込まれた昔の写真①
葦の茂る川辺には、お客を乗せた小船が浮かんでいる岸の木組みは何だろうか

安土駅前に建つ信長像
背の高い台座の上に立ち、皆に号令をかけているようなポーズである

長命寺川に架かる街道大橋
近江八幡を出てから安土までの旧街道の道筋はよく分からなかったのだが、この付近は古い街道の面影が残っており、橋の名前も「街道大橋」となっていたので、朝鮮人街道なのだろう

大きな常夜灯
旧街道が県道2号線に出たところに建つ大きな常夜灯。すぐ脇に観音寺の方向を示す古い道標も建っている

安土駅から安土城址へ
安土駅前からは、案内パンフレットを見てセミナリヨ跡を探しながら歩いた。セミナリヨは信長の命により創建された日本最初のキリシタン神学校である。少々分かりにくい場所にあるが、現在は公園として整備されている。そこから県道2号線に出た。県道のまわりは田園風景となり、左手になだらかな山が見えてくる。この山の上に安土城があった。やがて、左側に「安土城址」の大きな石標が見える。ここで左に曲がり、少し行くと安土城址への登り口がある。

安土城址石標
県道2号線の脇に建てられた大きな石標

県道2号線安土城址付近
左手になだらかな山が見えてくる。標高199mのこの山の上に安土城が築かれた

セミナリヨ跡
信長の命によりイタリア人宣教師オルガンチノによって創建された、日本最初のキリシタン神学校の跡。現在は公園として整備されている

安土城址
登り口の受付で入山料500円を払い、目の前の広い石段を登りはじめる。両側には石垣が残されている。この道は城の中枢部に通じる大手道である。石段は崩れかけているところもあるが、1段の高さはそれほど高くなく、間隔もちょうどよいので歩きやすい。登ってゆくと、途中に少し広い平坦地があり、伝羽柴秀吉邸跡という説明板がある。建物の外観図と間取りまで描いてあるが、立派なものだ。
さらに登ると黒金門跡がある。まわりの石垣が残っているだけだが、ここまでの石垣よりも大きな立派な石が使用されている。この門から先は本丸、天守など城の中枢部になるのだ。この一帯は、標高が180mを越え、安土山では最も高いところにある。東西180m、南北100mに及ぶその周囲は高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立していた。

天主台跡説明板より
中枢部の最も高い場所にあったのが天主である。完成してからわずか3年後の天正10年(1582)に焼失してしまい、その後は訪れる人もなく、長い年月の間草木の下に埋もれていた。ここにはじめて調査の手が入ったのは昭和15年のことである。厚い集積土を除くと往時そのままの礎石が見事に現れた。記録によると天主の建物は地上6階、地下1階の、当時としては傑出した規模だったことが分かる。現在見ることのできるのは、その地階部分の礎石である。ただ、周りの石垣部分の崩落が激しく、往時の天主台規模は、現在の2.5倍近くあったと考えられる。

天守台跡
天主閣は地上6階、地下1階の建物だった。その地下1階部分の礎石がそのままの形で残っている
周りの石垣は崩落が激しく往時より規模が小さくなっている

黒金門跡
この門から先は城の中枢部となる。両側の立派な石垣には炎の跡が残され、建物の焼失時の炎の激しさを物語っている

安土城大手道
大手門跡の少し先から続く大手道は長く、きびしい坂道である。途中に羽柴秀吉邸跡などがある

安土城天主台址から琵琶湖方面を望む
登りはじめる前に、受付で山の上から琵琶湖は見えますかと聞いてみた。こたえは、一番高い天守台跡からは見えませんが、少し下の
摠見寺(そうけんじ)跡からは見えますよ、ということだった。
私は、司馬遼太郎の「街道をゆく・近江散歩」を読んでいたので、一番高いところからは現在、琵琶湖は見えないということは知っていた。しかし、それではあまりにさびしいので、あえて聞いてみたのである。見えるところがある、と聞いたのでそれを一つの励みとして厳しい山道を登ってきたのだ。

司馬遼太郎の文章を少し引用させていただく。

安土城址と琵琶湖 ( 「街道を行く・近江散歩」 司馬遼太郎著 より )
はじめて安土城址の山に登ったのは中学生の頃で、記憶が一枚の水色の写真のように残っている。
わずか標高199メートルの山ながら、登るのが苦しかった。麓からはことごとく赤ばんだ石段で、苔むした石塁のあいだをさまざまに曲折し、まわりの谷はみな密林だった。頭上にも木がしげり、空はわずかしか見えず、途中、木下隠れの薄暗い台ごとに、秀吉や家康の屋敷址とされる場所があった。
「山そのものが、信長公のご墳墓だ」と、案内してくれた中腹の摠見寺(そうけんじ)の若い雲水がいったのをおぼえている。・・・
私はそのころから登りがにがてで、途中、何度か息を入れた。かれはそのつど、たかだかと声をあげて、「登れ、登ると美しいものが見られるぞ」と、追い立てた。
最高所の天主台址にまでのぼりつめると、予想しなかったことに、目の前いっぱいに湖がひろがっていた。安土城は、ひろい野のきわまったところにあるため、大手門址からの感じでは、この山の裏が湖であることなどは、あらかじめ想像していなかった。・・・・
こんども、安土城址の山頂から、淡海(あわうみ)の小波(さざなみ)だつ青さを見るのを楽しみに登った。
「上に登ると、真下から湖がひろがっていますよ」と、長谷忠彦氏(編集部の人)にも期待させた。・・・・
が、のぼりつめて天主台址に立つと、見渡すかぎり赤っぽい陸地になっていて、湖などどこにもなかった。
やられた、とおもった。・・・・・・


このあと、司馬氏の湖埋め立てに対する憤懣の文章が続くのだが、それはそれとして、そのときの気持ちが本当によく分かる気がする。まさに晴天の霹靂であっただろう。

私が天主台址から眺めたとき、司馬氏が赤っぽい陸地と表現した場所も、昔からこうだったというように田畑が広がっていた。50年くらい前まではここが湖だった、などとはまったく感じさせずに。

摠見寺(そうけんじ)址から琵琶湖を望む
天主台址からの眺めを確認したあと、摠見寺址に向かう。黒金門を出たあと西の方向に少し坂をおりたところにかつて摠見寺本堂があった。この寺は安土城築城の際、信長が自らの菩提寺として他所から移築したという。天正10年の天主崩落の際も焼け残ったが、安政元年(1854)、火災により本堂などほとんどを焼失した。現在は三重塔のみが残っている。なお、大手道わきの徳川家康邸跡と伝えられる場所に、昭和7年に仮本堂が建てられ、現在にいたっている。
この本堂址から湖が見えると聞いていたので、さっそく近くの展望台に行ってみた。見えた。たしかに湖が見えた。ただ、見た感じでは大きな琵琶湖全体が見えているようではない。あとで地図で調べてみると、この湖は「西の湖」という、琵琶湖の内湖の一つとわかった。司馬氏はこの湖には触れていないが、埋め立ての際、この湖の部分だけ残されたのだろうか。いずれにしろ、この風景はこれからも末永く残してほしいものだ。

安土城址から能登川へ
安土城址の見学を終わって県道2号線に戻ったのは16時頃だった。少々時間が気になるが、旧道をたどって能登川に向かう。
安土城址碑から先、県道はしだいに登り坂になる。登りきったあたりは北腰越峠である。峠を少し下ると右に曲がる道があるので、県道2号線と分かれてそちらに進む。東海道線のトンネルの上を通る道で、左下に線路が見える。どんどん進んで行くとやがて南須田の集落、そして北須田の集落となる。北須田集落に入って少し行ったところに望湖神社というのがあった。社殿のあるところまでは行かなかったが、いまは恐らく湖は見えないだろうな、などと思いながら通過する。その少し先に伊庭御殿遺跡という説明板が立っていた。江戸時代のはじめ、徳川将軍が江戸と京都を往復するときに利用した休憩所の跡で、発掘調査で見つかった石列や井戸跡、今も残る指図(設計図)などにより、どのような間取りであったかなども分かっているという。

旧西川家住宅
西川家は江戸時代から明治時代前半にかけて栄えた商家である。主屋は宝永3年(1706)に建てられたもので、重要文化財になっている

新町通の様子
付近一帯が伝統的建物群保存地域に指定されている。まっすぐ行くと八幡堀に突き当たり、山の上に八幡山城があった

近江八幡市立資料館
街道沿いにあり、郷土資料館、歴史民俗資料館からなっている。建物の横を街道と直交して新町通が通っている

摠見寺址展望台より西の湖を望む
安土城址から湖を望める唯一の場所である。西の湖は琵琶湖の本体とは水路を通じてつながっている
が、独立した湖である

摠見寺三重塔
室町時代の建物で信長が甲賀の長寿寺から移築したものとされている。
重要文化財指定

伊庭御殿遺跡

望湖神社

北須田集落の様子

このあと能登川高校の脇を回りこみ、小さな川を渡って能登川駅に向かう。能登川駅に着いたのは、17時過ぎ。ここから電車で彦根のホテルに着いたのは18時頃だった。


付記
旅から帰ってから写真の整理をしていたら、近江八幡の願成就寺(がんじょうじゅうじ)の案内板に、境内に三基の芭蕉句碑があることが記されていた。このときは気がつかずに参道入口で引き返してしまったのだが、残念なことをした。ここにあるというのは、次の三句の句碑である。

     一声の江の横たふやほととぎす         (百回忌碑)
     比良三上
(みかみ)雪さしわたせ鷺(さぎ)の橋  (二百回忌碑)
     五月雨に鳰
(にお)の浮巣を見に行かん     (三百回忌碑)

八幡にも熱心な芭蕉ファンがいたのですね。
近江の芭蕉句碑を巡る旅というのも面白いなと、ふと思いました。