野路(のじ)の玉川
瀬田の唐橋から先の旧東海道は屈曲が多く分かりにくい。前回、苦心した記憶があるので、地図を参照しながら慎重に進む。やがて一里塚跡の碑が現れ、月輪寺、新田開発発祥の地碑などが見えてくる。ここまで来れば、旧東海道もそれらしく分かりやすい道となる。あとは道なりに進んでゆけばよい。
しばらく行くと、道の脇に小さな公園があり、東屋とベンチがある。そばに小さな川が流れ、「野路の玉川」という説明板が立っている。私は、ここで背中のザックをおろし、しばらく休憩した。
野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、「平家物語」をはじめ多くの紀行文にもその名を見せている。さらにこの近くには、日本六玉川の一つ「野路の玉川」があり、古くから歌枕として有名だった。
     『  あすもこむ 野路の玉川萩こえて   
          色なる波に 月宿りけり  』   (千載和歌集 源俊頼)

この日は、石山の奥にある幻住庵跡を見学したあと、旧東海道を草津まで進み、草津で旧中山道に移り、守山を経て野洲(やす)にいたる。野洲で中山道と朝鮮人街道の分起点を確認したあと野洲駅から電車で草津に戻り、草津のホテルに宿泊した。


芭蕉ゆかりの地・幻住庵へ
幻住庵は、やや分かりにくい場所にある。私も何回か人に聞いてようやく到着することができた。
旧東海道を歩いて、石山商店街の通りに出たら、瀬戸の唐橋と逆の方向(西方向)にしばらく進む。北大路の信号を過ぎ、さらにしばらく行ったところで左に曲がる。この道をまっすぐに進み、新幹線、名神高速道を越えてしばらく行くと国分1丁目の信号がある。ここで右に曲がり、道なりに行けば近津尾神社がある。この神社の入口に大きな「幻住庵」の看板が出ている。すぐ前にバス停があるが、バスの本数は少ないようだ
(写真は近津尾神社入口)。近津尾神社は、ここからかなり長い石段を登ったところにあり、幻住庵はさらにそこから少し登った静寂な場所にある。
現在、平成3年9月に復元された建物が建てられ、「幻住庵記」全文を記した記念碑、芭蕉句碑なども建っている。

分岐点で、私は左の朝鮮人街道を通って野洲駅に出た。駅に着いたのは16時頃だった。ここから草津駅まで戻り、草津のホテルで宿泊した。(草津第一ホテル)

分岐点の道路標識
朝鮮人街道と中山道の分岐点を示す道路標識

中山道と朝鮮人街道の分岐点
右が中山道、左が朝鮮人街道である

野洲川橋より上流方向を望む
遠くの山は三上山(近江富士)。近くに見える鉄橋はJR東海道線の鉄橋である

守山から野洲へ。朝鮮人街道の分岐点
守山宿を抜けた中山道は野洲川を渡る。今は立派な県道の橋で渡るが、昔は仮橋あるいは舟渡しだった。橋を渡ったあと旧道は左に分かれ、JRのガードをくぐって野洲の町に入ってゆく。住宅街の中をしばらく行くと、道が二手に分かれる場所に出る。ここが中山道と朝鮮人街道の分岐点である。
中山道はここで右に進み、この先武佐宿、愛知川宿、高宮宿を経て鳥居本宿に至る。一方、朝鮮人街道はここを左に進み、近江八幡、彦根を経て鳥居本宿で中山道と合流する。
朝鮮人街道は、江戸時代、朝鮮からの外交使節が定期的に来日するようになり、その際にこの街道を利用したので「朝鮮人街道」と呼ばれるようになったという。
芭蕉がこの道を通ったかどうかは分からないが、今回の旅では、私はこの朝鮮人街道を通って近江八幡、安土、彦根などを巡る予定である。

守山宿中心部の様子
街道沿いには現在も営業中の古い商店も多く見られる。写真は古い蝋燭屋で、「営業中」の看板が立っている

今宿一里塚
滋賀県内に現存する唯一の一里塚。榎は二代目だが、先代の脇芽が成長したものだという。この少し先から今宿町の商店街がはじまり守山宿へと続いている

守山宿
街道を進んでゆくと今宿一里塚が見えてくる。南塚のみが残り、榎が植えられている。説明板によると往時の塚が現存するのは滋賀県内ではこの今宿一里塚のみだという。
一里塚の少し先で今宿町となり、街道沿いには「中山道守山宿」の看板を掲げた商店街が長く続くようになる。商店街は新旧の建物が混在しているが、中には昔からのそのままの建物で現在も営業している店もある。
中山道では、「京立ち守山宿泊まり」という言葉があるように、京を立った旅人は守山宿で宿泊することが多かった。そのため宿場の規模も大きくなり、隣接した今宿と吉身町が加宿され、大宿場となった。街道を歩きながら、町並みとしてもう少し整備すれば、町の活性化も図れるのではないかな、などと考えながら宿場町を通り過ぎた。

大宝神社の芭蕉句碑
説明板によると、平成12年にこの場所に移転整備したとある。句碑自体がいつ建てられたものかは確認できなかった

大宝神社
中山道沿いに建つ大きな神社。社伝では大宝年間(701~704)に創建したという。足利義政、義尚などが崇敬し、立派な社域を形成したという。本殿は一間社流造、桧皮葺で国の重文となっている

草津から守山へ
中山道の旧道は商店街を過ぎたあと、しばらく街道の面影を残した町並が続くが、伊砂砂神社の少し先でJR線路により道が途切れてしまう。迂回道路で線路を越え、その先を続ける。これから先の旧中山道は、まっすぐな一本道(県道2号線)で大変わかりやすい。車も少なく、沿道には神社仏閣などの旧跡も多い。
途中、大宝神社の参道入口に「芭蕉句碑」の案内板が立っていたので寄ってみた。案内矢印が出ているので場所はすぐにわかった。

      『 へそむらのまだ麦青し春のくれ  はせを 』

脇に「芭蕉句碑の由来」という石に彫られた立派な説明板が建てられている。これによると、この句は元禄3年(1690)頃、芭蕉が関東、北陸方面に旅した帰りに、綣(へそ)村に足をとどめた折に詠まれたという。また、滋賀県内には93本の芭蕉句碑があるが、この句は芭蕉の句の存疑の部に入れられている、とある。要するに、本当に芭蕉の句かどうかは疑わしいということだ。

それにしても、滋賀県内に93本も芭蕉句碑があるとはすごい。芭蕉は近江の地に愛着を持っていた。近江の人達も芭蕉を愛し、その記念としてあちこちに句碑を建てたのだろう。そのことに関連して、次の句が思い起こされる。
     『 望湖水惜春
        行く春を近江の人と惜しみける  芭蕉 』  (猿蓑集 巻之四)    

中山道商店街の様子
草津川の下をくぐるトンネルを抜けると、中山道はアーケード付きの商店街となる。草津駅にも近く、賑やかで活気がある

東海道、中山道追分道標
常夜灯をかねた道標。「右東海道いせみち」「左中仙道美のぢ」と書かれている。これは文化13年(1816)に建てられたものである

草津宿本陣(国指定史跡)
寛永12年(1635)に設置され、明治3年(1870)に廃止されるまで本陣として使われた。建物は平成8年(1996)に改修されたが当時とほとんど変わることなく、江戸時代の本陣の実態を現代に伝えている

草津宿
野路の玉川の先で旧東海道は国道1号線と斜めに交差する。さらにまっすぐに進んでゆけば、草津宿中心部に入ってゆく。草津宿の中心部に本陣の建物があるが、これは江戸時代の姿をほぼ完全に残しているもので、国の史跡に指定されている。私は、前回の「東海道歩き旅」のときにじっくりと見学しているので、今回は入口付近の写真撮影だけで通過する。そのすぐ先に東海道と中山道の追分道標をかねた大きな常夜灯が建っている。私は、これまで東海道、中山道の旅でこの場所に来ているので、今回は3回目の訪問となる。今回の旅はここから中山道に入り、近江路、美濃路と進む予定である。
中山道は道標前の道をそのまままっすぐに進み、天井川となっている草津川をトンネルで越える。トンネルを抜けると、街道はアーケードのついた賑やかな商店街になる。時計を見ると12:30を過ぎている。商店街の中に大きなラーメン屋が見えたので、ここで昼食にした。

瀬田の唐橋
幻住庵で芭蕉の境地にわずかなりとも近づいたあと、同じ道を戻って瀬田の唐橋にいたる。この橋を渡るのは「東海道歩き旅」以来、7年ぶりである。橋に到着したのは10時頃だったが、相変わらず橋の上は車が゙多く、徒歩や自転車で渡る人も多い。
琵琶湖から流れ出る川は瀬田川しかなく、京都防衛上重要であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」といわれた。本格的な架橋は、天智天皇の大津宮遷都のときと考えられているが、その後、数多くの戦乱に巻き込まれ、破壊、再建などを繰り返してきた。
木造の橋が現在のコンクリート製になったのは1979年(昭和54年)のことであるが、橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存する。

芭蕉がこの唐橋を詠んだ句に次のものがある。

五月雨に隠れぬものや瀬田の橋 
(五月雨に降り込められて、湖面も湖畔の景物もすべて姿を消し去っている中に、瀬田の唐橋だけが長々と横たわって見える)

橋桁の忍は月の名残り哉
(十三夜の月光が、橋桁に生え着いた忍ぶ草を寂しく照らしている。この忍ぶ草は、今年の月の名残りを惜しむよすがであることよ)

芭蕉には、このほか瀬田の蛍を詠んだものなど、琵琶湖周辺や近江路などを詠んだ句が大変多い。芭蕉は近江が好きだったようである。

野ざらし紀行・畿内行脚7

幻住庵記(げんじゅうあんのき)
『石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。・・・』で始まる「幻住庵記」は、芭蕉のここでの生活の中から生まれた。
芭蕉は、「おくの細道」の旅の翌年の元禄3年(1690)4月6日から7月23日までの約4ヶ月間、膳所の門人曲水の勧めにより、この庵に住まいした。ここでの生活の様子や、それまでたどってきた俳諧道への心境を述べたのが「幻住庵記」である。

復元された「幻住庵」に登ってゆく石段の脇に「幻住庵記」を石板上に記した記念碑がある。全文を記した立派なもので、かなりの長さがある。この場所で読むには長すぎ、また、達筆な文字なので読みにくいので、私は家に帰ってからじっくりと読み直した。
この中で、芭蕉はこの庵からの眺めなどについて次のように記している。(米沢家本真蹟による)

『山はさすがに深からず、人家は能きほどにへだたり、石山をまへにあてて、岩間山のしりへに立り。南薫峰よりおろし、北風海をひたして凉し。折りしも卯月の初、つつじ咲き残り、山藤松にかかりて、ほととぎすしばしば過る程、宿かし鳥のたよりさへあるを、木つつきのつつくともいでじ、かつこどり我をさびしがらせよなど、独よろこび、そぞろたのしみて・・・・・。比えの山、ひらの高ねより、辛崎の松は霞こめて、膳所の城このまにかがやき、瀬田の橋は粟津の松原につづきて、夕日の光を残す。・・・・  』

現在、この場所からは周りの木々に遮られてここに記されたような遠景は望めないが、高さからいっても、方角からいっても実際にこのような風景が見られたのだろう。
本文ではこのあと、知り合いの天台宗の僧正に「幻住庵」の三文字を書いた額を所望したところ、気持ちよく引き受けてもらったと記している。この額(レプリカ)は、復元された門の上に掲げられている。
気分のよいときには、自分で清水を汲んで自炊したということも記しているが、残されている他の文章からは実際には薪水の労を共にする人が一人いたことが分かる。
芭蕉は、この場所が気に入ったようで、一時はこの場所に住みつこうかと考えたほどだったらしいが、4ヶ月たらずでこの地も去ることになる。芭蕉はやはり「無住の人」なのだ。

幻住庵を見学後、東海道を草津へ。草津から中山道に移り野洲まで

芭蕉句碑
「幻住庵記」所載の次の句が句碑として建てられている。
「先たのむ椎の樹もあり夏木立」

幻住庵跡に建つ「幻住庵記」記念碑
幻住庵記全文が記念碑仕立てになっている。全長4、5mもある立派なものである。

復元された幻住庵建物
手前に「幻住庵」の扁額を掲げた門があり、その奥に質素な庵が建っている。これは平成3年9月に復元されたものである