興聖寺楼門と本堂
楼門を入ると正面に本堂、左右に禅堂、開山堂、庫裏などが建ち並んでいる。楼門には「曹洞宗初開道場」の札がかかる

宇治神社
祭神は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)など。宇治上神社とあわせて「宇治二座」として延喜式に記載される古社である

平等院鳳凰堂全景(正面より)
中央の鳳凰堂にはご本尊の阿弥陀仏が安置され、室内装飾はきらびやかなものだった。現在、一般観光客は池をはさんで対岸から拝観する。鳳凰堂内部は別申し込みで拝観できる

宇治見物後、醍醐寺を経て大津へ

東海道逢坂峠付近の様子
逢坂峠付近の東海道は国道1号線である。私は、前に東海道を歩いたときには大津から京都に向かって歩いたが、今回は逆方向に歩いている。坂道を登ってゆくと右側に月心寺がある。門のすぐ前が車の往来の激しい国道1号線なので、「往来安全」と大書したくなる気持ちは分かる。この門の引き戸を開けて中に入ると「走井」という井戸があり、今も満々と澄んだ水をたたえている。
さらに国道を登ってゆくと、左手に「逢坂山関址」碑が見えてくる。この辺りが逢坂峠の頂上で、蝉丸の歌にある逢坂の関はここにあったようである。坂を下ってゆくと左手に「逢坂山弘法大師堂」がある。国道の脇にぽつんと取り残された感じである。さらに少し行くと、同じく左手に関蝉丸神社上社が見える。道路を渡って行ってみたかったが、近くに横断歩道はなく、危険なのであきらめて通り過ぎる。

大雄宝殿
万福寺の本堂であり、正面に本尊の釈迦牟尼仏、両単には十八羅漢像が安置されている

布袋尊
布袋尊は弥勒菩薩の化身とされる

万福寺天王殿
寺の玄関として設けられており、正面に布袋尊が祀られている

橋寺・放生院
鎌倉時代、宇治橋の架け替えの際、人馬の霊を慰めるため大放生会を行ったことから、寺名を放生院と改め、橋の管理を任されたことから橋寺とも呼ばれるようになった

宇治橋
大化2年(646)にはじめて架けられたと伝えられる日本最古級の橋。現在の橋は長さ155.4m、幅25mで平成8年3月に架け替えられたもの

宇治を出たあと道はまっすぐ北に進むが、六地蔵で西と東の二手に分かれる。西北に行くと伏見桃山を経て京都市街にいたり、東北に行くと醍醐寺を経て大津にいたる。この日の私の予定としては、六地蔵で東北に進路をとり、醍醐寺を経て大津に行き、そこから膳所の義仲寺まで足をのばす予定である。


宇治川 浮島見物
宇治観光の最大の目玉は平等院だが、開門時間が8:30なので、それまでの間に周辺の観光を済ませることにした。
朝食つきの旅館なので、ゆっくりと朝食をすませ、ちょうど8時に宿を出発した。宿のすぐ近くに宇治川の浮島に渡る橋(喜撰橋)が架かっているので、まず、この橋を渡って浮島見物からはじめる。
浮島は、宇治川に浮かぶ長さ約500m、最大幅約50mの細長い島である。中間で二つの島に分かれており、上流側を塔の島、下流側を橘島という。喜撰橋を渡ると塔の島で、島には大きな石塔が建っている。これは浮島十三重塔(国重文)で1286年の放生会の際に建てられたが、その後、1756年に洪水で倒壊し、明治の終りに再建された。
塔の少し先の小さな橋を渡ると橘島となる。歩いてゆくと古い大きな石碑が建っている。これは「宇治川先陣碑」である。この辺は古来、多くの合戦の舞台となり、中でも源義仲と義経との宇治川合戦の際の梶原景季と佐々木高綱の先陣争いは有名で、それにちなんで建てられたものである。

逢坂山関址
この辺りが逢坂峠の頂上で、かつてこの付近に「逢坂の関」があったという

月心寺
前は国道、後は山という最悪の場所にあるが、「走井」の井戸は今も澄んだ水を満々と湛えている

六地蔵を経て醍醐寺へ
万福寺を出て、ふたたび府道7号線を歩く。この道はJR奈良線と寄り添うように進んでゆく。やがて、周りの様子がにぎやかになってくるとJR六地蔵駅が近い。この駅前で右に曲がると醍醐寺を経て大津方面に出、まっすぐ行くと伏見桃山を経て京都市街に至る。私はここで右に曲がり、醍醐寺に向かう。右に曲がって少し行くと古いつくりの家が散見される。この道は旧奈良街道である。しばらく行くと旧道が右に分かれてゆくのでそちらを進む。

鳳凰堂の前の「阿字池」を巡って南側に出ると「鳳翔館」がある。ここには梵鐘、鳳凰1対、雲中供養菩薩像26体をはじめとし、平等院に伝わる様々な宝物類が保存、展示されている。そのほとんどすべてが国宝である。また、コンピューターグラフィックスを用いた鳳凰堂内部の映像などにより、かつてのきらびやかな色彩を実感することができる。
「雲中供養菩薩像」は全部で52体あり、そのうち半数は鳳凰堂に保存されているが、残りの半数は鳳翔館に移され展示されている。それぞれ踊ったり、楽器を奏でたりしているが、これは極楽浄土の様子を表現しているという。これら52体の菩薩像は、1体を除きすべて国宝に指定されている。(右写真。パンフレットより転載)

宇治神社、興聖寺(こうしょうじ)
中の島を一通り巡り、朝霧橋で対岸に渡る。橋を渡ってすぐのところに赤い鳥居が建っており、階段を上ると宇治神社の社殿がある。少し上にある宇治上社と合わせて「宇治二座」として延喜式に記載される古社である。宇治神社に参拝したあと、宇治川沿いの道を上流方向に歩き、興聖寺に向かう。
興聖寺は道元が中国より帰朝し、仏法道場として建立した曹洞宗で初開の寺である。永平寺を開いて移ったのち、兵火のため焼失していたのを慶安元年(1648)、淀城主永井尚政が再興して現在にいたっている。総門脇には「曹洞宗高祖道元禅師初開之道場」の石標が建っている。楼門を入ると本堂を中心に左右には禅堂、開山堂、方丈、庫裏などが建ち並んでおり、禅宗の道場となっている。
境内を一通り巡ったあと、宇治川沿いの同じ道をもどる。

野ざらし紀行・畿内行脚7

宇治平等院

平等院に着いたのは8:50だった。8時半開門なので、もう入場できる。拝観料600円を払って中に入る。私が平等院を見学するのは、中学あるいは高校の修学旅行以来のことだから、かれこれ50年ぶりくらいになる。
表門を入るとすぐに平等院の建物と池が見えてくる。正面に回ると、写真などでおなじみの風景に出会う。まだ観光客は少ないので、ゆっくり、じっくりと眺めることができた。中央の中堂の両側に左右対照に翼廊が設けられており、これらをあわせて鳳凰堂として国宝指定されている。この図柄は10円硬貨の裏面にも使用されており、日本の代表的な風景の一つといえるのだろう。鳳凰堂には本尊の阿弥陀仏が安置されている。内部装飾はきらびやかなもので、前の池に映る姿は西方極楽浄土を思わせたという。ただ、現在は前の池がやや小さく、建物の全景が映らないのが残念である。

宇治橋、橋寺放生院
平等院を出て参道を進んでゆくと宇治橋に出る。橋のすぐそばに宇治橋の説明板が立っている。これによると、宇治橋は大化2年(646)にはじめて架けられたと伝えられる。その長い歴史の中で、洪水や地震などの被害、また戦乱に巻き込まれたことも数え切れないが、そのつど架け直されてきた。現在の橋は、平成8年に架け替えられたものである。橋を渡りきって上流に向かって少し行くと、放生院というお寺があるが、この寺は古くから宇治橋の管理を行ってきたので、橋寺とも呼ばれている。
醍醐寺
旧道を進んでゆくとやがて醍醐寺の山門が見えてくる。山門を入ると広い参道が続いている。醍醐寺は貞観16年(874)に創建された古いお寺だが、その名前を一躍有名にしたのは、豊臣秀吉によって行われた「醍醐の花見」である。それまでの醍醐寺は、応仁の乱などの戦乱により荒廃し、下醍醐では五重塔しか残っていない有様だった。しかし、秀吉はここで天下の大花見会を開催することを計画し、金堂や三宝院などの建築を行い、今日見るような姿になった。
仁王門(西大門)をくぐり、金堂(本堂)、五重塔を見物する。五重塔は醍醐寺創建当初から奇跡的に残った建物で、国宝となっている。高さは約38mとそれほど高くはないが、どっしりとしたバランスのよい建築物である。金堂は花見のイベントにあわせるため、和歌山から移築したものである。
時計を見ると12時半なので境内で昼食をとろうとしたところ、境内での飲食ご遠慮くださいとのことでベンチなどもまったく見当たらない。仕方ないので上醍醐に通じる山道の脇の倒木に腰掛けて昼食にした。昼食もすみ、参道を戻ってゆくと途中に三宝院の入口があったが、時間も気になるし別料金なので、外からちらりと眺めて通り過ぎた。

宇治十帖モニュメント、橘橋
朝霧橋の近くに「宇治十帖モニュメント」が建っているのに気がついた。源氏物語の書かれた平安時代には、宇治には貴族の別荘などがたくさんあった。「宇治十帖」は源氏物語の第三部にあたり、宇治の地を舞台とした主人公、「薫」と「浮橋」を中心とした物語である。モニュメントは宇治での薫と浮橋の逢瀬の様子をあらわしているのだろう。源氏物語絵巻などに見られる姿である。
朝霧橋で浮島に渡り、さらに橘橋を渡って対岸に出る。平等院はここからすぐである。

宇治川先陣碑
源義仲と義経の合戦における梶原景季と佐々木高綱の先陣争いの故事にちなんで昭和6年に建てられたもの

塔の島に建つ十三重塔(国重文)
1286年に建てられたが、1756年に洪水で倒壊した。その際、金銅製経箱などが出土した。出土品は近くの放生院に展示される

橘橋
浮島と対岸の間には三つの橋がかかっている。この橋は浮島の下流側先端付近にかかっており、平等院に最も近い

宇治十帖モニュメント
朝霧橋の近くのちょっとした広場に建っているモニュメント。源氏物語「宇治十帖」の主人公、「薫」と「浮橋」の姿である

宇治平等院の歴史
平等院は9世紀後半に源融(みなもとのとおる、源氏物語の光源氏のモデルともいわれる)の別荘を藤原道長が譲り受け、後にその子頼通が受け継ぎ宇治殿と称したことに始まる。
頼通は1052年に宇治殿を天台宗寺院の「平等院」とし、阿弥陀堂に木像阿弥陀仏を安置した。当時は非常に大規模な寺院だったらしいが、1336年に楠木正成によって建物の大部分が焼かれ、応仁の乱でさらに衰退し、当時から残っているものは阿弥陀堂(現在は鳳凰堂と呼ばれている)と鎌倉時代に再建された「観音堂」だけである。

鳳翔館をていねいに見ていたら結構時間がかかった。外に出ると、平等院の正面には修学旅行の生徒たちをはじめ、観光客の数がだいぶ増えてきた。先ほどのすいている時間にじっくりと眺めることができてよかった。鳳凰堂内部の拝観もしたいとは思ったが、次の時間までまだ間があるし混んできたので、あきらめて平等院をあとにした。

旧奈良街道沿いの古い家
醍醐寺に向かう街道は旧奈良街道である。街道沿いには古い家も散見される

JR六地蔵駅付近の様子
このあたりは繁華な町並みである。駅前をまっすぐ行くと伏見桃山、京都市街方面、右に曲がると醍醐寺、山科方面に向かう

五重塔(国宝)
天暦五年(951)に醍醐天皇の冥福を祈るために建立された。醍醐寺の中でも唯一の創建当初からの建物

金堂(国宝)
現在の建物は、豊臣秀吉の発願により紀州湯浅の満願寺本堂を慶長四年(1599)に移築、再建したもの(完成は花見には間に合わなかった)

醍醐寺参道
秀吉の「醍醐の花見」にちなんで毎年4月に「豊太閤花見行列」がこの参道を練り歩く

醍醐寺から大津追分へ
醍醐寺を出発したのが12:50ごろ。醍醐寺を出たあとも奈良街道の旧道は続いている。奈良街道はこの先、大津追分で東海道と合流し、さらにその少し先で国道1号線と合流する。追分は既に大津市に入っており、かつては大津宿の勢力範囲だったという。

国道1号線大津市追分町付近
奈良街道が国道1号線と合流する地点。この付近に旧東海道と旧奈良街道の追分があった

奈良街道旧道の様子
大津7Km、山科3Kmの道路標識が出ている

大津から膳所(ぜぜ)の義仲寺へ
しばらくすると東海道は国道1号線から分かれ、国道161号線の道筋になる。この道は浜大津に向かうが、その手前で旧東海道は右に曲がる。あとはこの旧道をまっすぐに歩いてゆけば膳所の義仲寺に出ることができる。今日の私の宿は浜大津にとってあるが、まだ時間も早いので、義仲寺まで足をのばすことにする。

義仲寺門前の様子
義仲寺は旧東海道沿いにある

大津市内の旧東海道の様子
旧道は残っているが、昔を感じさせるものはない

義仲寺(ぎちゅうじ)
義仲寺には16時ころ着いた。門を入ると、左手奥に芭蕉の墓と木曽義仲の供養塔が並んで建っている。いずれにもきれいな花が供えられている。義仲寺の名は源義仲を葬った塚のあるところからきているが、芭蕉の遺言で義仲の墓と並んで芭蕉の墓が建てられたことによって、さらに有名になった。境内はそれほど広くないが、朝日堂(本堂)、無名庵、翁堂などの建物、芭蕉をはじめとする多数の句碑などが建てられている。これらの寺内の整備は昭和40年に行われ、昭和42年には境内全域が国指定の史跡になっている。

木曽義仲の供養塔

芭蕉翁の墓

芭蕉句碑など
境内には3基の芭蕉句碑のほか、全部で19基の句碑が建てられている。芭蕉句碑は門から近い順に次の三基である。それぞれに芭蕉の代表的な句である

   行春
(ゆくはる)をあふミ(おうみ)の人とおしみける

   古池や蛙飛
(かわずとび)こむ水の音

   旅に病
(やん)で夢は枯野をかけ廻る

芭蕉の弟子、又玄(ゆうげん)の有名な次の句碑も目につくところに建っている。

   木曽殿と背中合わせの寒さかな

この句は元禄四年九月に、無名庵に滞在中の芭蕉を伊勢の俳人又玄(ゆうげん)が訪ね、泊まったときの作である。

又玄(ゆうげん)句碑
木曽殿と背中合わせの寒さかな

芭蕉句碑③
旅に病で夢は枯野をかけ廻る

芭蕉句碑②
古池や蛙飛こむ水の音

芭蕉句碑①
行く春をあふミの人とおしみける

義仲寺をじっくりと見学したあと、ここから浜大津まで引き返す。同じ道を通っても面白くないので、琵琶湖畔に出て湖畔沿いの道を歩く。京阪電車浜大津駅前のホテル・ブルーレイク大津に着いたのは17:30頃だった。

黄檗宗(おうばくしゅう)総本山万福寺
宇治橋を出発したのは10時頃だった。道はまっすぐ北にのびる府道7号線である。この道を30分ほど歩くと万福寺に着く。この寺は1654年、中国福建省から渡来した隠元禅師が創建した寺院で、日本三禅宗の一つ黄檗宗の総本山である。
中国風の大きな山門をくぐってまっすぐ行くと天王殿という建物がある。この建物は寺の玄関にあたるという。正面に布袋尊が安置され、参拝者をにこやかな表情で出迎えてくれる。いかにも中国的だ。回廊を経てさらに奥に進むと本殿にあたる大雄宝殿に至る。本尊は釈迦牟尼仏、脇侍は迦葉、阿難の二尊者。また、両単には十八羅漢像が安置されている。この羅漢像もいかにも中国風で、いかめしい顔をしているものが多い。この大雄宝殿を中心に、周囲には斎堂、禅堂、法堂などが建ち並び回廊などで結ばれている。
境内は広大で、一歩足を踏み入れると日本離れした風景が広がっていることから、江戸時代に参拝した菊舎という女流俳人が次の句を残している。山門の近くにこの句碑が建っている。

         『 山門を出れば日本ぞ茶摘うた  菊舎 』

関蝉丸神社上社
立寄ってみたかったが、近くに横断歩道がなく、横断は危険なのであきらめて通り過ぎた

逢坂山弘法大師堂
ここも前は国道、後は山でぽつんと取り残された感じである