興福寺境内の鹿
興福寺の境内にもたくさんの鹿がいる。朝食を食べ終わったのか、のんびり休んでいる。奈良の鹿は皆に愛されてしあわせだ

興福寺境内(中金堂再建地付近))
興福寺境内では、第1期境内整備事業が進んでいる。現在は主に中金堂再建工事が進行中である

興福寺から般若寺へ
興福寺と大宮通りをはさんで向かい側には奈良県庁舎が建っている。建物の上部に大きな横断幕、「平城遷都1300年祭 2010年」とある。710年に平城京に遷都してから2010年(平成22年)でちょうど1300年になるということで、奈良県ではお祭として盛り上げようと、いろいろと準備しているようである。私も、その頃にはもう一度奈良の旧都を訪れようと思いつつ、今回は奈良市街を足早に通り過ぎる。
大宮通りは国道369号線に突き当たる。この道は、かつての平城京の東京極大路であり、北に行くと京都に通じる道なので、やがて京街道とも呼ばれるようになった。この道を北に向かってまっすぐに進む。少し行くと一里塚跡の碑が建っているが、特に説明はない。この碑の裏手は東大寺の境内になっており、近くに「東大寺旧境内」の案内板が立っている。そこからすこし歩くと昔の街道の面影が残る建物などが散見されるようになる。江戸時代には名所旧跡めぐりの人々を目当てに街道沿いに旅籠などが建ち並ぶようになった。
しばらくすると国道が右に緩く分かれ、細い旧道がまっすぐにのびている。この旧道をさらに道なりに進んでゆくと、やがて般若寺に着く。

般若寺
旧道に面して般若寺の楼門が建っている。これは鎌倉時代に建てられたもので、国宝となっている。道路からもよく見えるが、門の前には柵があり、ここから入ることはできない。少し先に見学用の入口があるので、そこから境内に入る。
般若寺は、四季折々の花が咲く寺としても知られており、私が訪れたときにはちょうどコスモスの花が見頃だった。9時半開門となっていたが、私が着いた9時頃にはもう開門しており、何人かのお客がすでに入っていた。今日は休日であり、天気もよいので観光客の出足も早いようだ。
寺の縁起によれば、この寺は飛鳥時代、高句麗僧慧潅(えかん)法師によって開かれた。都が奈良に遷って天平七年(735)、聖武天皇が平城京の鬼門を守るために「大般若経」を基壇に納めて塔を建てたのが寺名のおこりという。平安の頃は学問寺として千人の学僧を集め栄えたが、治承四年(1180)平家の南都攻めにあって伽藍は灰燼に帰した。鎌倉時代に入って廃墟の中から、十三重石宝塔をはじめ伽藍の再建が行われた。その後、戦国の兵火、江戸の復興、明治の廃仏毀釈と栄枯盛衰を繰り返しながら現在にいたっている。

十三重石宝塔(重文)
鎌倉時代の作で、日本最大の石塔。後世の十三重石塔の模範となる

コスモスと本堂、観音石仏
般若寺はコスモス寺としても知られる。ちょうどコスモスの見頃だった

般若寺楼門(国宝)
鎌倉時代の再興伽藍の回廊門。楼門の遺構としては日本最古のものだという。国宝指定

木津川市へ。和泉式部の墓
奈良豆比古神社の少し先で旧道は県道754号線と合流する。この県道を1Kmほど歩くと京都府木津川市に入る。この付近には道の両側に竹やぶが多い。近くの道沿いに幣羅坂神社というのがあった。この道は昔の京街道の道筋なのだろう。
やがて、県道は国道24号線と合流する。国道を少し行くとJR木津駅近くに至り、さらに少し行くとJR片町線の線路を陸橋で越える。この線路沿いに和泉式部の墓があるということなので、探すことにした。陸橋を越えた少し先で左に分かれてゆく細い道があるので、この道を行く。少し先で左に曲がり、あとは線路に沿うように歩いてゆく。途中で地図を見ながら立ち止まっていると、地元の人が声をかけてくれた。「どちらかお探しですか」「はい、和泉式部の墓を探しているのですが」「それでしたら、ここを線路沿いにまっすぐ行くと、道の脇に少し荒れた寺があって、その寺の裏にあります。標識も立っているので分かると思います」、と親切に教えてくれた。教えられたとおりに歩いてゆくと、たしかに無住の少し荒れた寺の奥に五輪塔があり、脇に「いつみ式部墓」という石標が立っている。
和泉式部は清少納言、紫式部とともに平安時代中期を代表する女流歌人である。「伝承によれば、式部は木津の生まれであり、宮仕えの後再び木津に戻り余生を過ごしたといわれているが、この伝承を裏付ける資料がないのが残念である」、と説明板にある。もっとも、和泉式部の墓と称するものは全国各地にあり、なかでも京都市中京区誠心院のものが著名であるが、いずれも決め手を欠いているという。そういえば、私も中山道を歩いているとき、御嶽宿(岐阜県)の近くで、「和泉式部廟所」を見たのを思い出した。

和泉式部墓
墓は高さ約1.3mの五輪塔で、脇の石標正面に「いつみ式部墓」、側面に「正暦二年三月二十一日卒 法名誠心院殿専意法尼」とある

和泉式部墓のある無住の寺
道路から見えるところに「このおく和泉式部墓」の石標が立っている

県道754号線、奈良、京都県境付近
少し先に幣羅坂神社がある。昔の京街道の道筋だろう。昔風にいえば大和と山城の国境である

奈良から木津川を経て宇治へ

般若寺から奈良坂・奈良豆比古神社へ
般若寺前の道は奈良時代から存在する古道である。般若寺からこの道を7、8分歩くと左手に奈良豆比古(ならつひこ)神社がある。このあたりは坂道になっており、古くから奈良坂と呼ばれた。
神社の前には1847年(弘化4年)に建てられた古い道標が建っている。南面に「右 いが いせ」「すぐ 京 うぢ道」(すぐはまっすぐの意味)、東面に「右 京 うぢ」「左 かすが 大ぶつ道」、北面に「すぐ かすが 大ぶつ」「左 いが いせ道」と刻まれている。江戸時代、ここは奈良坂越えあるいは般若寺越えとよばれ、伊賀・伊勢と京都・宇治に向かう道が交差する交通の要衝だった。
この場所に建つ神社は、延喜式に記載される奈良豆比古神社である。古くは春日社と呼ばれ、祭神は施基親王(志貴皇子ともいう)、春日王など三座である。この神社では毎年翁舞が奉納されるが、これは奈良時代の散楽がはじまりと伝えられる。
なお、この神社の裏手にある樹齢1千年を越えるという樟(くすのき)の巨樹は一見の価値がある。人の気配のない林の中に悠然と聳え立つ巨樹は、一種荘厳な感じさえする。

山城の旧道(山城郵便局付近)
山城地域にはこのような旧道の面影を残した区間が長く続いている

木津川(和泉大橋より下流方向を望む)
木津川は三重県青山高原の水を集め、伊賀盆地から西流し、笠置山地を貫く峡谷となって流れ、京都盆地南端で平野に出たあと宇治川、桂川と合流し、淀川となる

芭蕉は吉野を見たあと、「野ざらし紀行」に、「やまとより山城を経て近江路に入りて美濃に至る」と書いている。これだけの記述なので、奈良から先どのようなコースをとるのか明確ではない。
「やまとより山城を経て近江路に入る」といっているので、私は、奈良から宇治に出、そこから醍醐寺を経て大津に出るルートをとることにした。大津から先は、東海道、中山道を利用すれば近江路を経て美濃に至ることができる。


近鉄奈良駅から興福寺境内へ
今回の旅は、奈良から美濃赤坂まで、9月23日から28日まで6日かけて歩く予定である。
前日23:30東京発の夜行高速バスに乗り、京都に着いたのが23日朝6:40。京都から近鉄奈良行き急行電車で近鉄奈良駅に着いたのは7:45だった。
地下駅の近鉄奈良駅から地上に出ると、広い大宮通りがとおっている。これを東に進んでゆくと興福寺の境内が見えてくる。大宮通りからは興福寺北参道が通じている。境内に入ると少し先に五重塔が端正なシルエットを見せている。近くで境内整備事業が進行中で、その説明板が立っている。それによると、興福寺中金堂は享保二年(1717)に焼失して以来、本格的な復興がなされずに今日にいたったが、平成10年から26年まで17年かけて中金堂、回廊、中門などを復元することになった。中心となる中金堂の再建は、平成22年(2010)の完成を目途に工事が進められている。
工事の様子を見たあと、参道を引き返す。途中、広場に鹿がいた。朝食も終わったのだろうか、うずくまってのんびりとこちらを見ている。奈良の鹿は皆に愛されてしあわせものだ。参道脇の林の中に適当な場所があったので、私もここで朝食をとることにした。
木津川を渡り、旧道を通って歌枕の「井手の玉川」へ
和泉式部墓から寺の裏を通る道に出ることができる。この道を川の方向に歩いてゆくと、少し先で木津川の堤防上に出る。この堤防上の道を川上方向に少し行くと国道24号線の和泉大橋があり、これを渡る。木津川は万葉の昔から筏をながしたり、舟行に利用された大川であるが、今では舟などは見られず、静かに流れている。
国道24号線を10分ほど行くと、旧道(県道70号線)が右に分かれてゆく。この道はなかなか風情のある道である。国道とほぼ並行しているので、交通量はそれほど多くない。町から町ヘ折れ曲がりながら、JR奈良線ともつれあうように北に進む。所々に「山城古道」という山城エリアの旧道を中心とした案内図が立っている。江戸時代、芭蕉などもおそらくこの旧道を歩いたのだろう。

平等院への参道風景
紫式部像付近から平等院まで続く参道。土産物屋などが軒を連ねている

紫式部像
2003年に宇治ライオンズクラブによって建てられたもの。源氏物語の「宇治十帖」の縁でここに建てられた

宇治橋
県道15号線の通る長い橋である。昔からここには橋がかけられていた

野ざらし紀行・畿内行脚7

昔の面影が残っている一角
国道沿いに昔の面影が残っている一角があった。(今小路バス停付近)

一里塚跡碑
この道は平城京の東京極大路であったが、その後、京都に向かう道として京街道とも呼ばれるようになった。この辺り一帯は東大寺旧境内である

井手の玉川
JR奈良線の棚倉駅を過ぎ、さらにしばらく行くと井手町に入る。井手小学校の少し先に小さな川が流れている。これが古来歌枕として有名な「井手の玉川」である。小さな川だが、堤防には桜の並木が続き、山吹の植え込みなども見られる。橋のそばに説明板が立っている。これによると「井手町の中央を東西に流れる井手川は、天平の昔に水際にくまなく山吹が植えられていたといわれ、長年その美しさを誇っていた。日本六玉川の一つで、古来和歌などによく詠まれている。昭和28年の水害でその景観が失われたが、近年地元の努力がみのり、山吹、桜の名所として復活した」、とある。
堤防から降りると、川沿いに遊歩道が設けられている。川の水は澄んできれいである。堤防脇に「井手の玉川」という新しい大きな碑が建っているが、この前にはちょうどオレンジ色のコスモスが咲いていた。堤防の上にもどり歩いてゆくと、道の脇に古い碑が建っている。正面に「井堤茶蘼故地」、右側面に「駒とめてなほ水かはむ山吹の花の露そふゐでの玉川 藤原俊成」、とある。周囲には山吹が植えられているが、花は春咲くので今の時期には見られない。
井手川は少し先でJRの線路を越えるので、堤上の遊歩道は終わりとなる。川と並行している県道70号線に降り、陸橋でJR線路を越える。線路を越えると道は右に曲がり、以後は線路に沿って進んでゆく。少し先にJR玉水駅がある。

井手の玉川から宇治へ
県道70号線は、玉水駅前から次の山城多賀駅付近までJR奈良線の線路に沿って進む。この付近はJR線路、県道70号線、国道24号線が近くをほぼ並行して走り、さらに国道24号線のすぐ近くを木津川が並行して流れている。タンタンと歩いてゆくとやがて城陽市に入る。長池駅の少し先で国道24号線と合流するが、少し先で国道と分かれさらにまっすぐに進んでゆく。近鉄大久保、JR新田駅の少し先の信号で右に曲がると県道15号線になる。あとはこの道をまっすぐに行けば40分くらいで宇治川に架かる宇治橋に到着する。橋に到着したのは16:50頃だった。
宇治橋の袂はちょっとした広場になっていて、そこに紫式部像が建っている。2003年に宇治ライオンズクラブによって建てられたもので、比較的新しいものだ。「源氏物語」の「宇治十帖」の縁でこの場所に建てられたのだろう。
像の前からは、土産物屋などが建ち並ぶ賑やかな通りが続いている。宇治平等院にいたる参道で、これを進んでゆくと少し先に平等院への入口がある。受付で拝観時間を尋ねると、8:30~17:30だという。このときちょうど17時頃だったので、入れないことはないが明日あらためて見学することにする。
本日の宿泊場所は平等院からも近く、宇治川沿いの「鮎宗旅館」である。昔風の旅館で、二階の二部屋続きの広い部屋に一人でゆっくりくつろぐことができる。夕食なしなので、途中の店で買ってきた弁当とビールで旅の始まりを祝して乾杯し、20時頃には就寝した。(夕食なし、朝食つき6300円)

神社前の道標
1847年に建てられたもの。東(正面)、南(左)、北(右)の三面にそれぞれ方向と行先が刻まれている

奈良豆比古神社
祭神は施基親王など三座である。施基親王は天智天皇の第7皇子で、志貴皇子とも呼ばれ、万葉集に六首の歌が入っている

樟の巨樹(天然記念物)
樹齢千年余、目通り幹囲約7.5m、高さ約30m。地上約7mのところで南北二枝に分かれ、さらに北枝は3m、南枝は4mのところでそれぞれ二分岐する。樹姿は極めてよく、樹勢も盛んである

遊歩道脇に建つ古い碑
正面に「井堤茶蘼故地」、右側面に「駒とめてなほ水かはむ山吹の花の露そふゐでの玉川 藤原俊成」、とある

新しい「井手の玉川」碑
古来の名所も昭和28年の水害でその景観が失われたが、近年地元の努力がみのり、山吹、桜の名所として復活したという。その記念に建てられたものだろう

井手の玉川
日本六玉川の一つで、古来歌枕として有名だった。井手には橘諸兄が壮麗な別業を構え、天平12年(740)、聖武天皇の行幸を仰いで盛大な宴会を催したといわれる